赤月さん、大上君にほだされる。
「俺も、赤月さんがトラウマに縛られずに安堵した日々を送ることが出来るようにこれからも協力するよ」
「……その心遣いは嬉しいのですが、口付ける以外に方法はないのでしょうか」
やはり、気恥ずかしさが前面に出てしまう荒療治だと思います。
「気恥ずかしさで気が逸れるから、やっぱり唇が一番だと思うよ?」
「うぅっ……。この気恥ずかしさが大事だというのですか……。確かに怖くはありませんでしたが……」
先程の恥ずかしい場面をもう一度思い出しては、私の身体は熱くなっていきます。
「少しずつでいいからさ、練習していこうよ。こうやって、ゆっくりと上書きしていけば、君が抱いている恐怖だって、いつかきっと薄まっていくと思うんだ」
「……」
大上君の表情は至って真面目そのものでした。下心は多分……多分、ないのでしょう、多分。
「……痕を付けたり、しませんか?」
「しないよ。……そんな分かりやすいことをすれば俺があの二人に殺されちゃうからね」
恐らく、あの二人、とは白ちゃん達のことを言っているのでしょう。二人は過保護なので、きっと大上君が余計なことをすれば、叩きのめすに違いありません。
「……そ、それ以上に……変なことをしなければ……。その、たまに、トラウマを克服するための練習に付き合って下さると嬉しいです……」
他の男性には頼めないことだと思ったのは何故でしょうか。他の誰かと大上君を比べても、一番に浮かぶのは彼の顔だけです。
「……ごくん。……うん、俺で良ければ赤月さんの練習にいつでも付き合うよ」
今、大上君は何かを飲み込んだように見えましたが、何を飲み込んだのでしょうか。表情は穏やかなままなので、変なことは考えていないといいのですが。
「……もう、気分は落ち着いているかな? そろそろ教室に戻らないと冬木君達が心配するよ」
「は、はい……」
私が立ち上がろうとするよりも早く、大上君は立ち上がり、そして私へと手を伸ばしてきました。
その手は私の倍ほど大きいものなのに、怖いとは感じません。
「……ありがとうございます」
そっと、私は自分の右手を大上君の手に重ねてから、立ち上がります。一瞬だけ繋がれた手に生まれた温度はどうしてこんなにも温かいと思ってしまったのでしょう。
……ああ、少しだけまずいかもしれません。大上君の優しさにほだされてしまいそうです。
白ちゃんやことちゃん達から優しくされた際に嬉しいと感じることはありますが、大上君から優しくされると何故か胸の奥がぎゅっと狭まったような気分になってしまうのです。
吊り橋効果かもしれないと自分に言い聞かせてから、私は大上君の後ろを付いて行きます。
「……あ、赤月さん」
大上君は何かを思い出したように私の方へと振り返ります。
「はい、何でしょうか」
「トラウマを克服するための練習についての詳しい内容は冬木君達には秘密にしておいてもらえるかな? ……でないと、俺は本気でこの世から抹殺されてしまう……」
大上君は何故か遠い目をしながらそう言いました。確かに、あの二人ならばやりかねないでしょう。
「はい、私もそのつもりだったので。……恥ずかしくて誰にも言えませんし」
「それじゃあ、俺と赤月さんだけの秘密だね」
「私と大上君だけの……」
そこに生まれたのは、新しい秘密でした。ですが、それは私を縛るものではなく、どちらかと言えば導くものに近い気がします。
「大上君」
私は両手の拳をぎゅっと握りしめて、大上君を見上げました。名前を呼ばれた彼は立ち止まり、私の方へと首を傾げたまま、もう一度振り返ります。
「……これから、宜しくお願いします」
「……」
きっと、長い戦いが続くのでしょう。大上君がどこまで私に付きあってくれるかは分かりません。
けれど一度、縋った手をどうか、離さないで欲しいとは言えませんでした。だからこそ、このような言い方になってしまったのかもしれません。
「うん、こちらこそ」
にこりと笑みを返す大上君に、私の心臓は一瞬だけ跳ね上がります。この人の笑顔は美形過ぎて、本当に心臓に悪いですね。
私は一つ、深い息を吐いてから、再び大上君の後ろを歩き始めました。
それまでは背中に覆いかぶさっていた何かが、今では砂が零れるように減っていくのを感じます。
きっと、一人で背負っていたものを半分以上、持って行ってくれる人がすぐ傍にいるからでしょう。
ちらりと見上げれば、大上君の背中がゆっくりと前に向かって歩いていきます。
普通の背中であるはずなのに、私にとっては今まで見た中で、一番大きくて、頼もしくて、そして安心できる優しさを持った支えのようなものに見えていました。