赤月さん、大上君に触れられる。
私は大上君と向き合ったまま、両手を握り合います。……ふと気づきましたが、この状況だけでもかなり恥ずかしいですね。
今まではトラウマを思い出したことで、そのことに対する恐怖心でいっぱいだったので、現状況を認識していませんでした。
ですが、大上君の言葉通りにしておきたいので、私は出来るだけ挑むような気持ちで待ち受けることにしました。
目の前の大上君がふっと笑います。それが合図だというように、大上君の顔が私へと近づいてきました。
大上君は私の首に指先を使わずに触れる、と先程言いました。では、どこの部分で触れるつもりなのでしょうか。
そう思っていたのも束の間、近づいてきた大上君の顔──いえ、唇が私の首筋へと軽く触れたのです。
──ちゅっ。
そんな軽快な音がその場に響き、私は頭が真っ白のまま固まってしまいます。
首筋に落ちて来たのは指先などではなく、大上君の口付けでした。
予想外過ぎて、動けないでいる私を大上君はどこか達成感が溢れた表情で見ています。
「なっ……」
私は一瞬で、お互いの手を握っていたものを離して、首元を押さえます。
「なっ、なっ、何するんですかぁぁっ!」
きっと、私の顔は真っ赤になっているのでしょう。そういえば、以前も同じように涙を舐めとられたことがありましたね。
まさか、首に口付けて来るなんて思ってもいなかったので、私の心臓は恥ずかしさで爆発してしまいそうです。
恐らく、痕は付いてはいないでしょうが、口付けられた瞬間の感触がまだ首元に残っていて、思い出すたびに顔から火が出そうです。
「く、首に、口付け、なんて……なっ、何を考えているんですか、大上君!? 恥ずかしい事をしているって、自覚はあるんですか! 破廉恥ですよ!」
捲し立てるように私がそう告げると、大上君は何故か満足したように小さく笑いました。
「もうっ、大上君!」
笑いごとではないと私が睨むと大上君は肩を竦めてから、優しげに目を細めていきます。
「俺は今、君の首に触れたけれど……怖かった?」
「怖いよりも恥ずかしい気持ちでいっぱいですよ! 一体、何を……」
ですが、私はここで何かに気付きます。
「え……。私、いま……大上君に、触れられたのに……」
私はこの身体がトラウマを呼び起こしてはいないことに気付いたのです。
確かに、大上君は私の首に触れました。指先ではなく口先で、ほんの少しだけですが。
その行為を私は怖いと思うことはありませんでした。むしろ、恥ずかしさで身体が沸騰してしまいそうな程です。
私が変な顔をしていたのか、大上君はぽんっと撫でるように頭を叩いてきました。
「君が首を触れられるたびに怖いという感情を思い出すならば、俺はその上に上書きしようと思うんだ」
『上書き』、それは先程、大上君が言った言葉です。
私が首を押さえたまま呆然としていると、大上君はどこか困ったような笑みを浮かべました。
「今、俺が君の首に口付けた時のことを思い出せば、過去の怖さを打ち消せるかもしれないだろう?」
「それは……」
「赤月さんは俺に口付けられて、恥ずかしいと思ったのならば、それでいい。まだ苦しいかもしれないけれど、こうやって少しずつ別の思い出や感情を上書きしていくといいと思うんだ。そうすれば、きっと君はトラウマから立ち直れるよ」
「……」
トラウマから、立ち直れる。
初めて聞くその言葉に私は止まっていたはずの涙をぽろりと流してしまいました。
「わっ……。ご、ごめん、赤月さん! やっぱり、許可なく口付けるなんて、嫌だったよね……。あわわ……本当にごめんっ……!」
途端に慌てた表情で、両手を上下に振りつつ、大上君は私を宥めようとしてきます。その動きが逆におかしく思えて、私は思わず噴き出してしまいました。
「ふふっ……」
「あ、赤月さん……?」
「笑って、すみません……。……別に、大上君に口付けられたことが嫌だったから泣いているわけではないのです。これは……嬉し泣きです」
「嬉し泣き?」
「……今まで、トラウマが原因で病院に通っていたこともあったのですが、そのたびにトラウマから完治する見込みなんて誰も教えてはくれませんでした」
「……」
「でも、大上君が先程、怖いという感情の上に別のものを上書きしていけば、トラウマから立ち直れると言ってくれたことが……何よりも嬉しかったんです」
誰も、教えてはくれなかった。そして、私自身もトラウマを克服出来るなんて思ったことはありませんでした。
怖がってばかりの私は立ち向かうための勇気さえ、置いてきたままだったからです。
私は大上君の手にそっと自分のものを重ねます。その行動に大上君は驚いたようで、身体を一瞬だけ震わせていました。
「……ありがとうございます、大上君。……本当に、ありがとう……っ」
私は今日、トラウマを植え付けられてから、初めて誰かに触れられても正気を保つことが出来たのです。
そのことを喜ばずにはいられませんでした。