大上君、決意する。
「首を触れられることにトラウマを植え付けられた千穂を守るために僕達は出来るだけ、彼女の傍から離れないようにした。過保護だと思われてもいい。それでも、千穂が発狂したように泣き叫んで気絶する姿をもう、見たくはなかった」
指先で絡めていた髪をぱっと離してから冬木君はゆっくりと顔を上げる。
「僕達は同級生や下級生達に千穂の首には絶対に触れないで欲しいと忠告して回った。そして、他者へその話をしないで欲しいと。千穂に手を出せば、僕達が徹底的に相手になると、脅すようにね。そのことを了解してもらえば、千穂の平穏を取り戻すことが出来ると思っていた。……でもね、聞き分けのない頭の悪い奴はいるものだよ」
唇を一度噛んでから、冬木君は言葉の続きを話し始める。
「僕達が中学校に入った時だった。そこの中学校は周辺の小学校から色んな生徒が入ってくる中学校だったから、千穂の過去の事情を知らない奴も多くいた。けれど、それと同時に『噂』として千穂のことを知っている奴もいたんだ」
「噂?」
「千穂の首に触れれば、あの子が気を失うという噂がいつのまにか流れていたらしい。……本当、人間の口には戸が立てられないから困るよ」
強めの舌打ちをしつつも、言葉の続きを繋いでくれた。
「その噂を確かめるために、好奇心でとある男子生徒が千穂に近づき、彼女の首に手を添えたんだ。……僕達が目を離した一瞬だった。首を触れられた千穂はそのまま、トラウマを思い出して気絶した。……その後、男子生徒は平謝りしてきたよ。自分は冗談のつもりだった、本当に噂通りかどうかを確かめたかっただけだって。それを聞いて、僕達は怒りで身体中が煮えたぎりそうだったね。中途半端な好奇心と害意で千穂を傷付けたんだから」
拳が強く握りしめられ、手の甲には青筋が浮かんで見えた。
「それなのに千穂はその男子生徒を許した。許してしまった。……彼女は自分が傷付けられても、相手を傷付け返そうなんてことは微塵も思っていない人間なんだよ。本当に優しい子なんだ。……だから、僕達が守るしかなかった。あの子に知られないように、こっそりと。守るために秘密を作るしかなかったんだ」
すると、それまで床上に座っていた山峰さんがゆっくりと立ち上がった。その身体はまるで枷が付いたように重そうだった。
「……お前を責めるのは間違いだと分かっている」
ぼそりと言葉を口にして、それでも怒っているような、泣いているような顔のまま山峰さんは告げる。
「だから、嫌だったんだ。お前が、千穂に近づくことが。お前が近づけば、絶対に千穂に触れると分かっていた。だから……!」
「……小虎」
窘めるような声色で冬木君が注意すると山峰さんは後ろへと引き下がった。
「分かっている、八つ当たりだって。……でも、大上がいなければ、千穂はあの日を思い出さずに済んだんだ。たとえ、こいつに悪意がなくても、千穂を傷付けたことに変わりはない……!」
訴えるように聞こえる声で山峰さんは声高に告げる。
俺は一度、深く息を吸ってから、そして吐いた。
「……そうだね。俺は確かに赤月さんを傷付けた。無意識だとしても、それが事実であることに変わりはない」
はっきりとそう言い切ってから、山峰さんと冬木君の方へと視線を向けた。
逸らすことは一切せずに、挑むように二人を見つめる。
「俺は赤月さんが好きだ。だからこそ、俺は赤月さんを傷付けた自分が絶対に許せない。もし、君達にその気があるのならば、俺のことを殴るなり、蹴るなりしてくれて構わない。でも……」
両手の拳に爪を食い込ませるように握りながら、俺は意思を告げる。
「どうか、赤月さんに謝ることと、俺が赤月さんを好きでいることだけは許して欲しいんだ」
「……」
俺の言葉が予想外だったのか、二人は目を丸くしてから見上げて来る。
「俺は赤月さんに嫌われることになっても彼女のことを永遠に好きでい続けるつもりだ。彼女がいなければ、俺の人生は崩落していたかもしれない。そう思えるくらいに感謝しているし、尽くしたいと思っている。だから──」
一度、言葉を切ってから、全てを吐き出した。
「だから、俺は赤月さんを救いたい。……俺のことを好きにならなくてもいい。あの子が『幸せ』なら、それだけでいいんだ」
「……」
その場に静けさが漂っていく。まるで、わざと作り上げているような静けさだ。
「……それなら、君は千穂を幸せにしてくれるというのか」
静寂の中、最初に呟いたのは冬木君だった。彼の瞳はどこか探るような熱が込められていた。
「あの子は、表面上は穏やかに振舞っている。それでも、内心はいつかまた自分の秘密が誰かに知られるんじゃないかと怯えたまま生きている。……あの子を縛り続けたトラウマから、君は救えるというのか」
それは挑むように。
けれども、縋るように。
だから、俺は口元を少しだけ緩めてから、ゆっくりと答えた。
「俺はね、赤月さんのためなら、何でも出来るよ」
赤月さんが望むならば、俺は何だって出来る。
そうはっきりと伝えれば、冬木君からは呆れるような溜息が漏れた。
「……君のその揺るぎない言葉というか、感情には感服するよ。……いいよ、分かった」
そう言って、冬木君は立ち上がり、俺へと近づいてきた。
「大上伊織。僕は君が千穂の友人であることを認めよう。君があの子を一生傷付けないと誓うならば、それ以上の関係だって、認めたいと思う」
まるで赤月さんの保護者のような物言いだ。
「……小虎もそれでいいよね?」
冬木君は山峰さんに寄り添うように肩に触れつつ訊ねると、彼女は本心では頷きたくはないのか、涙で濡れた表情を更に歪ませながら、小さくこくりと頷いた。
「……千穂を頼んだよ、大上」
託すような呟きに対して、俺は力強く頷き返し、身を翻してから急いで教室を出た。
どこかへ飛び出していった赤月さんを見つけるために、ただひたすら姿を探すのではなく、彼女が行きそうな場所を考えてから動くことにした。
それでも──。
「……こっちだ」
鼻に馴染んだ赤月さんの匂いが微かにした。俺はその方向を辿るように走り始める。
今の時間帯、この棟の教室ではほとんどの講義が行われていない時間となっている。空き教室のどこかにいるのだろうと思ったが、匂いが続く場所は全くの別方向だった。
辿り着いたのは、一つの白い鉄製の扉だった。
「……非常用階段」
ごくりと唾を飲み込んでから、ゆっくりと手を伸ばしていく。
その先に、救いたい人がいるならば、たとえ開かない扉でも無理矢理にこじ開けるつもりだった。