赤月さん、教授に本を借りる。
同じく梶原教授のもとへとやって来た大上君をちらりと見れば、彼は「一緒に頑張ろうね!」と言わんばかりの笑顔で私を見てきました。眩しいです。
「すまないな。一人で一気に運んで行きたいんだが、段ボールの中には丁寧に扱わなければならない史料も入っているから」
そういえば、講義が始まる前にも学生の誰かが梶原教授に頼まれたのか、段ボールを運んできていましたね。
確かに貴重なものや丁寧に扱わなければならないものが入っているならば、ゆっくりと運んだ方がいいでしょう。
「いいえ。えっと、梶原教授の研究室って、確かここの棟の三階でしたっけ」
大上君はいつものように爽やかな態度で応対しつつ、段ボールのうちの一つを軽々と持ち上げました。
私も慌てて、段ボールを持ち上げます。どうやらこちらには紙の資料ばかりが入っているようです。日頃から図書館で本の返却作業をしている私には慣れたお手伝いとも言えるでしょう。
「そうだ。それじゃあ、付いて来てくれ」
梶原教授の後ろに私と大上君は付いて行きます。
段ボールはそれほど重くはありませんが、階段を上るので足元をしっかりと見ておいた方がいいでしょう。でなければ、足を踏み外してしまいます。
集中して運んでいるといつの間にか梶原教授の研究室へと到着していました。梶原教授は鍵を扉へと差し込んでから、ゆっくりと扉を開け放ちました。
「入ってくれ」
その言葉に従うように私達は室内へと入ります。
鼻を覆ったのは古い本の匂いでした。視線を見渡していけば、部屋の壁には大きな本棚が置かれており、そこには一切の隙間がない程に様々な本が並んでいました。
その中には梶原教授が書いた書籍も並んでいます。どれも歴史に関係するものばかりのようで、つい目移りしてしまいますね。
「段ボールはそこに、ゆっくりと置いてくれ」
「あ、はい」
私は段ボールに振動を与えないように注意しながら、ゆっくりと床の上へと置きました。
「……すごい本の量ですね。全部、教授の私物ですか?」
「ああ。給料のほとんどは資料の本と現物史料に消えているな。もちろん、研究費も貰えるが、足りなくてなぁ。家にも本棚を置いているが、収まりきれずに床上に侵食してきちゃって、本を買うのを止めろと奥さんにいつも叱られている」
くっと苦笑しながら梶原教授は笑っていますが、きっと奥さんの言うことを聞く気はないのでしょう。
何となく研究気質の方って、とことん自分のやりたいことに没頭して、収集するイメージがあります。
「気になる本があるなら、貸すぞ?」
「えっ、宜しいのですか!」
私は思わず声を上げて反応してしまいます。すると、私が大きな声を上げるとは思っていなかったようで、梶原教授は少しだけ驚いた表情をしていました。
「何だ、赤月は本が好きか」
「は、はい……」
「赤月さん、大学の図書館でもアルバイトしているもんね」
付け加えるように大上君がそう告げますが、どうして穏やかな表情をしているのでしょう。まるで子どもの成長を見守る親のような表情です。
そんな表情を向けられる私の心中は複雑です。
「どれでもいいぞ? 卒業論文の発表を間近に控えた三年や四年も頻繁に資料として借りに来るからな」
どれがいいと梶原教授が促してきたので、私は視線を彷徨わせて、そして一冊の本を目に留めました。
「あの……。こちらの本を少しの期間、お借りしても宜しいでしょうか」
私が本棚から抜き取ったのは「くずし字」を解読するための用例が綴られた辞典でした。
くずし字辞典は持っているのですが、この用例が詰まっている本の方が初心者向けだと書いてあるので読みやすそうだと思ったのです。
しかも、公文書として使われていたものの写しがそのまま丸ごと載っているので、それを見ながら自分で解読する練習も出来るため、くずし字を覚えるには持ってこいの辞典なのです。
「ほう、くずし字に興味があったのか。どうりで講義をいつも真剣に聴いているなと思っていたよ。今のところ、その本を使う予定はないから、好きな時に返却してくれ」
「ありがとうございます……」
私が安堵するように小さく息を吐くと隣に立っている大上君は何故か嬉しそうに笑っていました。
……あなた、いつも私を見ていますけれど、よく飽きないですね。しかし、咎める程ではないので無視することにしました。