赤月さん、大上君には秘密にしたい。
「……はぁ」
大上君は溜息を吐いてから私の方へと振り返ります。
「全く、俺の赤月さんに手を出そうとするなんて、本当に良い度胸だよ。……ごめんね、赤月さん。岸本のせいで、気分が悪くなったりしていない?」
「えっと……。私は大丈夫、ですけれど……」
むしろ、怒りに満ちていた大上君の方の機嫌が気になるくらいです。あと、別に私は大上君のものではないので。
「今回は人前だから、穏便に済ませたけれど、また突っかかってくるようなら、二度と女の子を相手に出来ないようにあらゆる部分を不能にしてくるから」
「えっ? い、いえ……。そこまでは……」
岸本さんは恐らく、大学デビューをしたばかりなのでしょう。少しだけやんちゃな時期に入っているのかもしれませんし、そっとしておいた方がいいのではとさえ思います。
それにしても、女の子の相手が出来ないように不能にするって、一体どういう意味でしょうか。
気になりますが、問いかけない方が良い気がして黙っていることにしました。
「赤月さんは優しいなぁ。そんなところも大好きだけれど、君に近づいて来る変な男には注意しないと駄目だよ?」
「……」
その台詞、丸ごとお返ししても宜しいでしょうか。
「……でも、大上君の同級生なら、高校生の時の話を聞いてみたかったですね」
「え」
「高校の時の大上君って、あまり想像がつきませんし。……どんな高校生だったんですか?」
「えっと、いやぁ……それは……」
大上君の視線がゆらりと泳ぎ始めました。どうやら、高校生の時の話題にはあまり触れないで欲しいと反応しているみたいですね。
「ふ、普通の……高校生、だった、よぉ?」
「……視線、泳いでいますよ」
「うぐっ……。だ、だって……」
大上君は両手の指をもじもじと絡めながら、どこか気まずげに言葉を紡ぎます。
「あの頃の俺は、こう……若気の至り? みたいな感じで、格好悪いから、あまり赤月さんには知られたくはないんだ」
「何か悪いことをしたのですか?」
「ううん。むしろ、何もしなかった」
「え?」
頬を右手の指で掻きつつ、大上君は苦笑いします。
「何も興味がなかったんだ。勉強で秀でることも、部活に入れ込むことも、趣味も友達も、何も。だから、自分の意思で動くことなんて、ほとんどなかった。いつも、誰かに動かされるのを待っているだけの、空っぽな人間だったよ」
「……意外ですね。今の大上君はとても精力的に見えるので」
「うん、今はね。だって、君が俺を変えたから」
瞬間、ふわりと優しい風が舞ったと思えば、大上君の右手が私の方へと近づいていました。そして、ぽんぽんっと軽く頭を撫でるように叩いていきます。
「わ、私が?」
「ふふっ。俺の話は、今日はこれでおしまい。さて、家に帰ろうか」
そう言って、大上君は歩き始めます。私は慌てて、その後ろを追いかけました。
「ま、待って下さい、大上君。私は、あなたを……」
変える力なんて、持っていないのに。
どうして、そんなことを言うのでしょう。
変わりたいと思っても人は簡単に変わることが出来るわけではありません。
私は静かに自分の右手を首元へと添えました。
ごくり、と喉を鳴らせばこれが自分の生きている証だと改めて認識する──そんなことを日々の癖のように繰り返してしまうのです。
「……私だって、変わりたかった……」
ぼそりと呟いた言葉が微かに聞き取れたのか、大上君がこちらを振り返りました。
「赤月さん? 電車、逃しちゃうよ?」
「……今、行きます」
どうやら先程の独り言の内容は聞かれていないようです。そのことに密かに安堵してから、私は大上君の斜め後ろを歩き始めました。
大上君の背中は大きく見えます。それは彼が変わったと実感しているからでしょうか。
私は──私は、小さい頃から臆病のまま、何も変わっていないというのに。
どうか大上君が、私が隠していることに、気付きませんように。
気付いて、幻滅しませんように。
気付かれてしまえば、知られてしまえば。
私はまた、あの頃の恐怖を味わわなければならなくなるのでしょう。その恐怖を味わいたくはないがために、逃げるしかなかったのです。
私はどこまでも、本当にずるい人間です。
……弱みを見せたくはないからこそ、あまり大上君と仲良くなるべきではないと思っているのかもしれません。
それなのに。
「──赤月さん、次はどこで一緒にご飯を食べようか。食堂だと君の友人が同席しちゃうだろうから、いつか二人だけで出かけない?」
あなたは、私にとって眩しすぎる笑顔を向けてくるのです。何も知らないまま、無垢とも言うべき笑顔で。
「……それ、大上君が私とデートしたいなんて、企みが含まれていませんか?」
「そ、んな、こと、ないよー?」
大上君は盛大に視線を泳がせながら、とぼけた表情を返してきます。私はそんな大上君の表情を見て、小さく苦笑してから、前を向きました。
過去は過去。
それでも私は──まだ、前に進めないままなのです。