大上君、初めての感情を宿す。
その日、午後からの試験で、俺は見事に挽回することに成功した。終わった試験の答えを自己採点すれば、午後からの試験は最高記録とも言える点数を叩き出すことが出来た。
そして、合否発表の日。
俺は試験を受けた大学へと落ち着かない足取りで向かう。
自分に優しさを与えてくれたあの子も無事に大学に合格しているだろうか。もし、合否発表の会場で再び会うことが出来れば、声をかけることが出来るだろうか。
そんなことを考えながら、俺は合格者の番号が並べられた掲示板に目を向ける。
「……あった」
周囲からは歓喜、悲愴とも言える様々な声が上がる中、俺は自分の番号がしっかりと掲示板に並んでいることを確認してから安堵の溜息を吐いた。
高校入試の時でさえ、これほどまでに合否発表を見る際に緊張したことはなかった。
本当に良かったと胸を撫でおろしてから、もう一度、深い息を吐いた。
そして、新しい息を鼻から取り込もうとした時、捜していた匂いを嗅ぎ取ってしまう。
「……」
耳を澄ませば、試験当日に出会った彼女の声が微かに聞こえた気がした。俺は鼻だけでなく、耳も良いので、聞き分けたい声があれば簡単に出来てしまう。
視線を向ければ、合否発表の掲示板の前で、友人二人と涙ながらにはしゃいでいるあの子の姿があった。
友人と喜ぶように跳び上がっている。ああ、彼女も無事に合格したのだ。
そう思って、一歩だけ近づこうとした足をその場で踏み留めてしまう。
声をかけて、先日のお礼を言おうと思ったけれど、それでも情けない姿を見せてしまったことに対する気恥ずかしさが心の中に浮かんできてしまったからだ。
嫌だ、声をかけたい。
自分を覚えておいて欲しい。
そう思っても、格好悪い姿を見られた以上は、あの時とは別の「大上伊織」として、改めて接したいと思った。
俺は友人達と笑顔で喜び合っている彼女から視線をゆっくりと外した。
今はまだ、声がかけられない。
それでも、手を彼女に伸ばそうとしてしまうのは何故だろう。
いつかまた、会いたいと思っていた。
君に俺の存在を覚えておいて欲しい、知って欲しいと強く望むのは何故か。
もっと彼女のことを知りたい、近づきたいと思うのは何故か。
彼女の笑顔を見たい、声を聞きたい、視線を向けて欲しいと求めてしまうのは何故か。
その理由が判明するのは割と早かった。
「……そうか。俺はあの子に恋をしたのか」
納得するように頷けば、すとんと何かが胃に収まった気がした。初めて宿した感情は、驚く程に激しいものだったことに気付く。
恋焦がれる、なんて生易しいものではない。
それを自覚してしまえば、自分はある意味、歪で純粋な人間なのかもしれないと自嘲してしまう程に。
それまでは何かに執着することなく生きてきた。
空っぽのまま、けれども何かを探すように、血が求めるままに。
そして、俺は見つけたのだ。空っぽだった心を埋め尽くす存在に。
俺は彼女が好きだ。好きだと思ったのは心と身体、そして魂の全てがそう叫ぶ程に好きだ。
自分は確かに「大上」の血に従って生きてはいたけれど、それでも彼女に惹かれたのは確かに心が最初だった。
見知らぬ他人でもあり、同じ大学を受けるライバルでもあったというのに、彼女は無償の優しさを俺に与えてくれた。
一緒に頑張ろうと、いつかこの大学で会えるかもしれないという言葉を添えて。
会いたい、会いたい、会いたい。
知りたい、知って欲しい、触りたい、触れて欲しい。
その気持ちが大きくなっていく。
駄目だ、このままここに居れば俺はもっと彼女に引き寄せられてしまう。その場から立ち去るために、俺は進めていた足を速めた。
血だけではなく、身体と魂と心の全てが求めている。それだけが答えだった。
これが「恋」だと自覚したのだ。
だから、もう一度「初めから」、出会うために。
今度は「初めまして」と言うために。
俺は今すぐ振り返って、彼女を抱きしめてしまいたい衝動を何とか抑えて立ち去ることにした。
・・・・・・・・・・・
大学の入学式の時、名前が近いのか、学生番号は隣同士だった。
名前は「赤月千穂」と言うらしい。何とも可愛らしい名前だ。
彼女は俺の方を一切見ることなく、流れるように行われる入学式に集中していた。
きっと、赤月さんは受験当日に会話した俺のことを覚えていないだろう。その方がいい。あの時の恥ずかしい姿を思い出させるわけにはいかないから。
だから、初めましてと伝えて、新しい関係を始めたかった。
まず初めに、気楽な友人になれるようにと赤月さんに挨拶をしたが、何故か小さく震えている。可愛い。
まるで肉食動物を目の前にした小動物のような反応だ。
もっと仲良くなりたくて、話を続けようとしたが、赤月さんは脱兎のごとくその場から逃げてしまった。
「……性急過ぎたかな?」
赤月さんが逃げて行った先には先日、合否発表の際に一緒に居た友人二人の姿があった。どうやら彼らは違う学部らしい。
ぴょんぴょんと跳ねながら、友人二人と喋っている赤月さんは本当に可愛い。
可愛すぎて、俺の手元に置いてずっと眺めていたいくらいに。
「……もっと、近づきたいな」
逃がす気はない。大上家の人間は狙った好きな人は絶対に逃しはしない性質だ。
奇跡なんてものはもう二度と起きないと分かっているからこそ、熱くなってしまうのかもしれない。
やっと、出会える舞台は整ったのだ。
これからゆっくりと囲って、そして──食べてしまおう。
俺は目を細めながら、赤月さんだけを見つめ続ける。
彼女は何も知らないまま、無邪気な笑顔を浮かべつつ、大学という新しい環境に期待を膨らませているようだった。