赤月さん、やきもちを焼く。
大上君が、実行委員の人達からの頼みを断った次の日のことでした。
まだまだ、暑い日が続くというのに水筒を持参するのを忘れた私は飲み物を買うために、自動販売機がある場所へと向かっていました。
大上君に言ったら、「俺が買ってくるよ!!」と奢る気満々になるので、彼にはお手洗いに行くと告げています。そう言うとさすがに付いてこないので。
そんなわけで、てくてくと一人で向かい、建物の壁を曲がろうとした時です。
「──はぁ、まさか大上君が断るなんて」
残念だと言わんばかりに悔しげに呟く声が、壁を曲がった先から聞こえてきたため、私は思わず足を止めてしまいました。
壁の向こう側には目的である自動販売機があります。今、聞こえた声の主も自動販売機を利用しているのか、そこから動く気配がありません。
「本当にね。大上君が参加してくれたら、絶対に盛り上がるのにぃ」
そこでやっと、私は気付きます。この会話をしている女性達が先日、大上君に「ミスターコン」に出ないかと誘ってきた人達だと。
私のことを見ていないようだったので、顔を合わせても気付かないかもしれませんが、このままお二人の前に出るのはかなり気まずいです。
なので、物音を立てないようにするしかありませんでした。
「もう、いっそのこと、勝手に登録させちゃう? 参加者名簿に名前と学籍番号を書いちゃえば、あとは出場するしかなくない?」
その言葉に、私はひゅっと引き攣ったように息を吸い込んでしまいました。向こうは話に夢中なのか、気付いていないようでしたが。
「まぁ、確かに推薦枠による参加もあるよねぇ。でも、大丈夫かな? それって結構、規則がぎりぎりじゃない?」
「大丈夫だってぇ。別に悪いことしているわけじゃないし。『ミスターコン』にちょっと時間を割いてもらうだけじゃん? ねっ、あとで大上君と同じ学部の子に彼の学籍番号を聞きに行こっ!」
きゃっきゃと笑いながら、女性達は自動販売機の前から去っていきます。
声が聞こえなくなったあと、私はひょっこりと顔を出すように壁の向こう側から出ました。
「わぁ……。どうしよう……。とんでもないことを聞いてしまった……」
とりあえず、自動販売機で急いでペットボトルのお茶を買い、私はその場から立ち去ります。
不幸中の幸いというべきか。偶然にも「企み」を聞いてしまった以上、本人に話すしかないでしょう。
間に合わなくなる前に、手を打つべきです。
私の帰りを待ってくれていた大上君に先程、遭った出来事を伝えると彼は珍しくも面倒臭そうな表情を浮かべました。
そして、この話を相応しい相手に相談しようと持ち掛けてきたため、二人でさっそくとある先輩のもとへと向かいます。
「……って、話をしていたんです」
「なるほどね……」
私が全てを話し終えると、目の前にいる樋口先輩は腕を組みながら「うーん」と複雑そうに唸ります。
大学祭の実行委員で、歴史学部生との橋渡し役でもある樋口先輩と小坂先輩ならば、大上君の名前が勝手に使われるのを防げるのではと、相談していました。
「いやぁ、規則ぎりぎりって言うけれど、もうそれってほとんどアウトだからね」
へらっとした表情で小坂先輩は肩を竦めます。
「そうよね。本人が参加しないって拒否しているのに、勝手に名前を使うのはルール違反よ。自分達の快楽のために他人の名前を利用しようとするなんて、同じ実行委員として言語道断!」
樋口先輩は「ふんすっ!」と鼻息を荒くしながら言い切ります。
「まぁ、そんな身勝手なことをする人間が社会に出たとして、信用できると思う? 一緒に仕事をしていきたいって、思う?」
困ったように笑う小坂先輩が私と大上君に問いかけてきたため、同時に首を横に振りました。
「そういうことだよ。実行委員だからと言って、そんな身勝手な横暴が許されないのはここでも、社会でも一緒のことさ。でなければ、理不尽が蔓延しちゃうだろ?」
恐らく、例の女性二人の実行委員に対してなのでしょう、小坂先輩は呆れたように溜息を吐きました。
「とりあえず、この件は私達が対処しておくから、安心して。大上君にその意思がないのに、『ミスターコン』に参加せざるをえない状況になんて、絶対に、ぜぇぇったいにさせないから!」
実行委員としての使命なのか、それとも本人が正義感に溢れる気質なのか、もしくは両方なのかもしれません。樋口先輩はかなり気合が入った表情でそう言いました。
「ありがとうございます、助けていただいて」
大上君がお礼を告げると樋口先輩は苦笑しながら、右手を横に振ります。
「気にしないでちょうだい。むしろ、同じ実行委員として、迷惑をかけてしまったことを謝らせて欲しいわ。無理強いをするなんて、あってはいけないことだもの」
「いえっ、そんな……」
「また、困ったことがあったら遠慮なく頼ってくれていいから。……ああ、もちろん大学祭に関係するものだけじゃなくて、同じ学部の先輩として相談に乗って欲しい、とかでもいいよ」
軽やかな口調で小坂先輩はそう言います。
「それじゃあ、さっそくこの件を片付けに行ってくるわね」
「あ、先輩方、ちょっと待って下さい」
すぐに対処するべく、去ろうとした樋口先輩達を大上君は呼び止めます。そして、私から少し離れた場所で三人はこそこそと内緒話を始めました。
やがて、大上君は話し終えたのか、「使えそうですか?」とにこやかに笑いました。
樋口先輩と小坂先輩は顔を見合わせ、それから「にやぁ」と笑います。
「大上君、お主もワルよのぅ……」
「いえいえ、俺はただ、助けてくれる先輩達のお力になれればと思って」
「ふっふっふ……。上手く使わせてもらうよ」
何となく楽しげに笑いながら、先輩達は立ち去りました。
「……大上君。先輩達に何を話したんですか?」
周りに誰もいませんが、私は念のために声量を落として、彼に訊ねます。大上君は人差し指を口元に添えつつ、秘密を話すように答えてくれました。
「もし、樋口先輩達が不利になるようなことがあっても大丈夫なように、有用な情報を少し提供したんだ。まぁ、樋口先輩達なら、この情報を使うことなく解決出来ると思うけれど、一応ね」
大上君は「誰の情報」とは言いませんでした。薄々分かっていたのですが、大上君は割と情報通と言いますか、誰も知らないであろう秘密の情報を裏から得るのが得意な気がします。
「……大上君、密偵とか向いているんじゃないですか?」
「わぁいっ! 赤月さんに褒められちゃった!」
「う、ん……まぁ、褒めているといえば、褒めているのですが……」
何を言っても大上君はポジティブに受け取りそうですね。そういうところ、尊敬します。
ですが、気にしていた件がこれで落ち着きそうなので、思わず安堵の溜息を吐いてしまいました。
「赤月さん?」
「……いえ。ただ、大上君が『ミスターコン』に出なくて済みそうで良かったなと思って」
実行委員の人達が話していたのを運良く聞いたからこそ、こうやって先に手回しが出来ましたが、もし出遅れていたら取り返しのつかない事態になっていた可能性もあります。
「赤月さんは俺が『ミスターコン』に出るの、そんなに嫌だったの?」
大上君が私の顔を覗き込むように見てきます。
「……大上君、看板商品みたいに人前に立つのは嫌だと言っていたじゃないですか」
「そうだね」
「それに……」
「それに?」
「……他の女性から、たくさんの視線を受けて欲しくないなって、思ったんです」
「え」
「だ、だって……大上君は、私の、か……彼氏さん、なのに」
顔は上げられず、声はか細くなってしまいました。
大上君は、嫌がるでしょうか。今までこんな気持ちを抱いたことなかったというのに、この前から胸の奥が重たくなって、もやもやとした変な心地で溢れているのです。
大上君から、反応はありません。恐る恐る、私が顔を上げれば、大上君は右手で口元を覆っていました。顔を真っ赤にしながら。
「……。……まずい、どうしよう」
唸るように呟き、私へと伸ばしかけた左手を大上君は右手で必死に押さえました。
「今すぐ襲いたいっっ……!」
「極論ですね!?」
「俺をそんな思考にさせる赤月さんが悪いんだよ!? 何なの、その可愛さ! やきもちが! 嫉妬が! 可愛すぎる! どうして今の言葉を音声データとして録音しなかったんだ、俺ぇっ!」
でも、と大上君は言葉を続けます。
「心配しなくても頭のてっぺんから足のつま先、心、魂、前世も現世も来世も全部、俺は君のものだよ!!」
「重い!?」
「赤月さんも、もっと俺に対して重い気持ちを抱いても大丈夫だよ? 俺が赤月さんに愛されているって、証拠だからね! さぁ、どうぞ! 俺に愛をぶつけてくれ!」
「あっ、愛っ!? ちょ、ちょっと大上君、声を抑えて下さいっ」
ここは空き教室で、今は他には誰もいませんが、もし聞かれたら恥ずかしいです。
でも、大上君の大げさすぎる反応を見て、心の中で安堵する自分もいました。
小さな、本当に小さな嫉妬のようなものです。それすらも大上君は軽々と受け止め、もっと重くてもいいと笑って言いました。
だからでしょうか、胸の奥に溜まっていた澱みは消え去り、少しだけ心が軽くなった気がしたのです。
目の前で声量を抑えつつも熱く気恥ずかしい言葉をつらつらと連ねる大上君を見て、私は嬉しさと照れを隠すように小さく苦笑を返しました。