赤月さん、胸が締め付けられる。
夕方になるにつれて授与所もすっかり落ち着きました。
あとは詩織さん一人で対応できるとのことで、私とことちゃんは休憩を頂き、神楽を見学しに向かいます。
日が傾いていますが、夏祭りに来る人の数はお昼とはあまり変わりません。
少しだけ薄暗くなった境内を照らすのは、淡い光を宿す提灯です。
そして、神楽殿の周囲には篝火が置かれています。もちろん、子どもが近付かないように竹製の柵で囲ってあります。
「うーん……。夕方になっても、凄い熱気だな……」
ことちゃんはハンカチで額に浮いた汗を軽く拭きながら、小さく呟きます。
「そうだねぇ。お昼と比べるとほんの少し涼しくも感じるけれど、それでも熱中症には気を付けないとね。……というわけで、冷やしていたペットボトルのお茶をどうぞ!」
私は両手で抱えていたペットボトル三本のうちの一本をことちゃんへと渡します。
「用意がいいな。ありがとう、千穂!」
喉が渇いていたのか、ことちゃんはお茶の容量の半分を一気に飲みました。
「ん? 残りの一本は真白の分か?」
「ううん、大上君の分だよ。神楽の後に渡そうと思って。……お面を被っての神楽だから、きっとすごく暑いと思うし……」
「そっか。……あいつのことだから、千穂から貰ったペットボトル、洗った後に一生保管していそうだな……」
「ことちゃん、急に怖いことを言うのやめて!? 夏だけれど、今、怪談話は必要ないよ!?」
否定できないのが辛いところです。何故なら大上君ならばやりかねないと素直に思ってしまうからです。
すると後ろから声がかかりました。
「やぁ、二人とも。授与所はもう、いいの?」
振り返れば、そこには少しだけ疲れた表情の白ちゃんがいました。右手にはお茶が入ったペットボトル、左手にはうちわを持っています。
「あ、白ちゃん。お疲れ様です」
「落ち着いてきたから、大上の神楽を観ておいでって詩織さんが言ってくれたんだ。……それよりも、随分と疲れた顔をしているな、真白。そっちのアルバイト、そんなに大変だったのか?」
白ちゃんは大上神社と書かれた法被を着ていますが、まるで人込みの中を歩いてきたように、衣服にしわが出来ていました。髪の毛もいつもより、乱れている気がします。
苦笑しながらも白ちゃんは手櫛で軽く髪を整えていきます。
「いやぁ、思っていたより忙しくてね。たくさん動き回ったから、もう汗だくだよ」
そう言って、白ちゃんはからからと笑っていましたが、やりがいはあったのかどこかすっきりした顔をしています。
「今は落ち着いて、やっと時間が出来たから伊織の神楽を観ようと思ってね」
白ちゃんはスマートフォンで動画が撮れるように準備していました。
あとで大上君に見せるつもりなのでしょう。私にもその動画、ぜひ送って欲しいです。
すると時間になったのか、太鼓の音がその場に響き、それまで神楽殿の周囲で会話をしていた人達は口を閉じました。
とんとこ、とんとこと軽快な太鼓の音と共に、神楽殿の舞台へと現れたのは人影ふたつ。
顔を隠すお面と赤い頭巾を被り、山鳩色の衣を着た舞手が舞台の中心に立ちました。
そして、向かい合うように現れたのは鼻先が尖って彫られているお面を被り、更に白い毛皮を被っている舞手で、狼に見える姿をしていました。
「……あ」
思わず漏れてしまった私の呟きは、太鼓と笛の音によってかき消されていきます。
紅い頭巾を被った舞手と狼の面を被った舞手が顔を合わせ、そして袖を振るようにしながら舞い始めます。
太鼓と笛の音は確かに聞こえるのに、その場は静寂に満ちているようでもありました。
神楽の中には、神話や歴史を題材にしたものもあるそうです。
目の前で行われているこの神楽が、大上神社のはじまりとも言える出会いの場面だと私はすぐに理解しました。
「……」
山の神の使いである白い狼「織姫」と青年「千吉」の出会いと──そして、別れのおはなし。
おそらく神社の起源としての神楽という面が大きいと思いますが、伝承として次の世代に伝えるために、口伝だけでなく形あるものとして大上家の方々がずっと継いできた神楽なのでしょう。
白い狼を模した舞手を見ていると、何故か胸の奥が締め付けられ、目を細めてしまいます。
「……千穂?」
隣に立っていた白ちゃんが私の様子に気付いたのか、窺うように顔を覗き込んできました。
「どうしたんだい? ……泣いているけど」
「え……」
いつの間にか、私の目から涙が流れていました。
苦しいとか、悲しいとか、そういうものではなく、これは──これは、懐かしさと少しの寂しさが混じったものだと分かります。
私は手の甲で軽く涙を拭ってから、笑い返しました。
「何でもないの。汗が、目に入っちゃっただけだから」
「……そう?」
「うん、大丈夫だよ」
白ちゃんは深く追究してくることはなく、目を細めてから頷き返し、そして再び神楽へと視線を向けました。
私も同じように神楽殿の舞台で、お互いを求め合うように舞っている二人の舞手をじっと見つめます。
そう、なんでもないのです。
ただ、胸の奥が熱くなって、仕方がなかっただけなのです。
やがて、赤い頭巾を被った舞手は舞台上から去っていきます。
一人、残された白い狼の舞手。
その心情を表すように、低く細い笛の音がその場に響き渡り、神楽は終わりを迎えました。
次第に神楽を観ていた人達から、拍手が起こります。
「いやぁ、間近で神楽を観るのもいいものだね。細かい動きがよく見えたよ」
「あの長い毛皮をぶんっと回すところがかっこよかったな!」
白ちゃんとことちゃんも神楽の感想を言いながら、舞手に向かって拍手を送ります。
その時、でした。
「……」
一瞬だけ、私の耳には拍手の音に混じるように──犬に似ている何かによる遠吠えが聞こえました。
すぐ近くからではありません。山のてっぺんから、吹き下ろされる風のような遠吠えだったので、きっと遠くからなのでしょう。
その鳴き声の主は誰なのか、分かりません。もしかすると、私の気のせいだった可能性もあります。
けれど、私は「聞こえた」と感じたものに対し、懐かしむように口元を緩めました。
「──ほら、千穂。大上にそのお茶を持っていくんだろう?」
ぼうっとしていた私を促してくれたのは、ことちゃんでした。
彼女の指が示すのは、私が抱えているペットボトルのお茶です。今まで、神楽に意識が向いていたので、ペットボトルの存在をすっかり忘れていました。
「それじゃあ私、ちょっと行ってくるね」
「またあとでな」
二人に手を振ってから、私はその場を離れます。
走ることは出来ないので、少しだけ早足で神楽を終えた大上君のもとへと急ぎました。