赤月さん、心を乱される。
山林に流れる風は涼しいはずなのに、まるで肩に何かが圧し掛かっているような重さが感じられたのは、きっとお互いにどんな言葉で話を始めればいいのか分からないからでしょう。
今も、どんな表情で大上君の方を見ればいいのか、分からないままです。
「……赤月さん」
名前を呼ばれた私は、小さく肩を震わせてしまいます。
「おばあちゃんの話を聞いて、驚いた……よね。大上家に狼の血が入っているなんて、そんなの……おとぎ話みたいだって……」
「……」
「本当なら、自分の口で伝えなきゃいけなかったのにずっと秘密にしていて、ごめん……」
「それは、何に対する謝罪なのですか」
私は俯きかけていた顔をやっと上げました。
「たとえ、おとぎ話のような話だとしても、私はおばあさんが『過去』について教えて下さったことを一つも疑ってはいません。……むしろ、私の先祖が白い狼──織姫さんを裏切るような真似をしてしまったことを心苦しく思っているくらいです」
「そんな……! 赤月さんが気に病むことはないよっ……。だって、その……千吉さんは記憶喪失だったんだろう?」
仕方がない、と大上君は言っているようでしたが、私は頷くことが出来ませんでした。
「……先程、おばあさんは『千吉』の子孫を捜すことが大上家の悲願だと仰っていましたよね」
私が静かに訊ねれば、大上君はほんの少し身体を仰け反らせていました。
「大上君も、『千吉』の子孫を捜していたのですか」
「そ、れは……」
大上君は視線をゆっくりと逸らしましたが、その反応は肯定しているようなものでした。
「……捜して、いたんですね。……それなら……最初から『私』を求めて近付いたわけではなかったのですね」
「なっ……」
いつの間にか、私の頬には冷たいものが流れていました。
おばあさんの話を聞く時、覚悟を求められましたが、その時の意思さえも今は脆く崩れ去っていきます。
何故なら、大上君の気持ちを疑ってしまっている自分がいるからです。
彼の血筋の話を聞いてしまえば、納得出来ることばかり思い浮かんでしまいます。
そう例えば──何故、彼が私に深い執着をみせたのか、などの理由です。だって、私は大上君に執着されるようなものを他に持っていないからです。
「私が……『赤月』じゃなければ……『千吉』の子孫でなければ、私達は出会わなかったのかもしれません」
「赤月さん、何を……言って……」
大上君の顔がくしゃりと歪んでいきます。ああ、そんな顔をして欲しいわけではないのに、どうして言葉は止まらないのでしょうか。
紡ぐ言葉が大上君を傷付けてしまうかもしれないと分かっているのに、吐き出さなければ自分自身を保てないと思っているからかもしれません。
それはきっと「私」も傷付いているからでしょう。
「あなたが私に求めたものは、果たして恋と呼べるものだったのでしょうか」
だって、と私は言葉を続けました。
「大上君が私を好きだと言ったのは……私を好きなのは、『血筋』からなのではないでしょうか……? 私は……私は大上君が、好きなのに……っ」
「っ……」
胸が苦しくて、声が出なくて。
この場から逃げ出したいと思っているのに、立つことなんて出来なくて。
私はただ、ぽろぽろと涙を流すことしか出来ないのです。
何故なら、私は初めて、誰かを好きになったから。
何故なら、私は初めて、偽りであって欲しくはない感情を得たいと思ったから。
「……赤月さん」
顔を少しだけ、上へと向ければ、そこには同じように泣きそうな顔をしている大上君がいました。
いいえ、彼は泣いています。涙がその瞳に溜まっていると見て分かるからです。
「俺の心を、君を想う気持ちをどうか、疑わないで。否定しないで」
大上君は顔を歪ませながら、私と同じように涙を落としました。
「俺が赤月さんを好きになった気持ちは、過去のこととは関係ないんだよ。だから、罪悪感なんて、抱かないで。俺が君に向けて欲しい気持ちはそんなものじゃない。俺が君を想う気持ちは、嘘なんかじゃない」
「大上君……」
「それに大上家が今までずっと『千吉』とその子孫を捜していたのはね……知りたかったからなんだ。たとえ、最愛の人が自分の傍からいなくなっても、知らない場所で生きているかもしれなくても……。『彼』が、そして彼によって繋がれた人達がちゃんと幸せになっているか、知りたかったんだ。だって……」
ぐしゃり、と大上君は表情を崩していきます。
「だって、好きな人には、幸せになって欲しいから」
まるで、そんな気持ちを味わってきたような切ない声で彼は言いました。
「知るだけで良かったんだ。それだけで、大上家が繋いだ数百年は報われるんだから」
「……」
「確かに、俺の家の血筋は一度好きになった相手に執着する特有さがある。その中で俺は先祖返りと言っていい程に『血筋』は濃いけれど……。でも、俺は赤月さんが『千吉』の血筋だから、それに惹かれて好きになったわけじゃない」
私が大上君の気持ちを疑っていると分かっているからこそ、彼は真剣な表情で真っ直ぐ私に言葉を告げます。
「……ならば、どうして私を好きになったと言えるのですか。私は……私は、大上君に何もしていません。あなたに好かれるようなことは何一つ、した覚えはありません」
今の自分はきっと、みっともないでしょう。
けれど、私には分からないのです。惹かれるようなものを持っていないと自分で分かっているからこそ、彼の本音が知りたかったのです。
大上君はぐっと喉を潰されたような音を鳴らしました。
両手で拳を作り、そして何かに悩むように苦渋の表情のまま、唇を結んでいます。
そんな大上君の様子を見て、私は「ああ、やはりそうか」と納得してしまいます。
「……踏み込み過ぎましたか。……すみません、もう聞きませんから」
いつも、大上君は大事なことを言いません。私に秘密にしたまま、彼はずっと隠すのです。
私が本当に知りたいのは、その奥にあるものなのに。
大上君が私の世界にいきなり入り込んできた日から、いつだって心を乱していくままなのです。
やっと落ち着いた私はこの場を去ろうと立ち上がりかけましたが、いきなり腕を引かれたせいで体勢を崩してしまいます。
「っ、あの……?」
気付けば、私の身体は大上君の腕の中に納まっていました。
夏だというのに、大上君の身体は驚く程に冷たくて、そして震えていました。
彼の心音は激しくて、漏れ出すような深い呼吸がいくつか聞こえてから、ぼそりと言葉を口にしました。
「──君が、俺を変えたからだよ」
頭上から降り注ぐ声も同じように震えていて、けれどそこには確かに強い意思が含まれていました。
「あの日、初めて君と出会った日、俺は救われたんだ」
身体をぎゅっと握り締める腕の力は、絶対に離さないと言わんばかりに強くて、けれどどこか縋るようにも感じてしまいます。
「本当は言えなかったんじゃない。言いたくなかったんだ。だって、言ってしまえば、情けなくて恰好悪い自分を赤月さんに知られてしまう……。それがどうしようもなく『嫌』だったんだ」
「……」
「こんなこと、初めてだった。生まれて初めて、何かを『嫌』だと思った。だから、赤月さんともう一度会う時は『初めまして』の関係でいたかったんだ」
「もう、一度……」
「そうだよ。……本当は俺と君は大学に入学する前に会っている。正確に言えば、大学受験の時だけれど」
大学受験というと、半年以上前のことです。
「大学の花壇の傍で、座り込んでいた男子高校生に、ペットボトルの温かいお茶を差し出してくれただろう。それと、飴玉も」
「えっ……。……確かに、そんなことも……あったような……」
それまでは忘れていましたが、大上君が言った人物に心当たりがありました。
私と同じ受験生の男の子とほんの少しの時間、会話をしたことを思い出します。
ですが、その話は誰にも言っていません。
もちろん、幼馴染二人にも言っていませんし、その時は周囲に誰も人がいなかったことを覚えています。だって、身が凍えそうな寒空の下だったのですから。
そして、そこでやっと私は合点がいきました。
「……では、あの時の……具合が悪そうな受験生は大上君だった、ということですか?」
「……そうだよ」
その一言には本当は認めたくはないけれど──という気持ちが含まれているように聞こえました。
「あの時の俺は、自分を含めて全てのことに興味も活力も持てない人間だったんだ。思い返しては胸を張れる人生じゃないって言える程に。……けれど、あの日。自分がどうしようもない程に惨めで情けなくて、消えてしまいそうだったあの日。──君が、俺を見つけてくれた」
「……」
「俺が君を見つけたんじゃない。君が俺を見つけてくれたんだ。消えないように、そこに留まらせてくれた。……だから、今の『大上伊織』がいるんだよ」
やっと、伝えられたと言わんばかりに大上君はそれを告げると深い息を吐き出しました。