赤月さん、伝承を聞く。
大上君のおばあさんは遠くを見ていた瞳を私達の方へと戻しました。
「……だけれど、私の話を聞かないままの方が、あなた達は幸せでいられるかもしれないし、知ってしまえば今の関係が崩れることだってあるかもしれないの。だから……だからね、これからの話を聞くかどうかは二人で決めていいのよ」
何についての話を告げられるのか分からないのに、二つの選択を与えられても、すぐに選ぶことは出来ませんでした。
私が戸惑っていると気付いたのか、大上君は真剣な表情でおばあさんに問いかけます。
「つまり、おばあちゃんの話を聞いたら、俺達の関係にひびが入って、別れちゃうかもしれないってこと?」
「えっ」
驚いて声を上げる私でしたが、大上君の言葉を肯定しているのか、おばあさんは困ったように曖昧な表情を浮かべるだけでした。
「一つ、確認だけれど。おばあちゃんは、俺達の仲を引き裂こうと思って、その話を振ってきたわけじゃないよね?」
「ええ、ええ。それはもちろん。私としては、あなた達が二人で一緒に幸せになっていくことはとても喜ばしいと思っているのよ。だから、私からの問いかけは……そう、きっと、これは『覚悟』の問いかけ」
「覚悟……?」
急に重い言葉が出て来たので、私が窺うようにおばあさんに視線を向ければ、彼女は顔のしわを深めるように笑い返しました。
この時、ふと思いました。おばあさんはきっと、簡単には告げられない何かを抱いていて、それを知ってしまった私や大上君が傷付くかもしれないと思っているのでしょう。
……でも、それならばこうやって、お話を持ち出さなければいいだけなのに、この方は……あえて、二人の間に亀裂を生みかねない原因を「知る」か、どうかの選択肢を与えてくれているんだ……。
それは厳しさでもあり、優しさなのかもしれません。そして、私が知らないものを大上君のおばあさんは背負ってきたのでしょう。
すると、大上君が私の肩に手を乗せて、彼の方へと引っ張るように身体を寄せました。
突然のことに驚いていると、大上君は揺るがない真っ直ぐな瞳をおばあさんに向けつつ、告げました。
「俺はいかなる理由が出来たとしても、赤月さんと離れる気は微塵もないよ」
迷いも何も感じられない、強い意思が彼の瞳に宿っていました。
この先、何があろうとも、絶対に私から離れはしない、と大上君は表情で語っていたのです。
だからでしょうか、私の胸の奥は温かいもので満たされていく気がしました。
……ああ、そうでしたね。いつだって、大上君は私に勇気を与えてくれる人でした……。
正直、おばあさんが私の知らない「何か」について、知っていることに関してはとても気になります。
おばあさんの様子から、恐ろしいことではないと分かっているのですが、冷や汗を掻いてしまう何かがそこには存在しているように感じたからでしょう。
それ故に、知らなければいけないことなのかもしれないと、何故か思ってしまうのです。
「私は……おばあさんのお話を聞きたいです」
「赤月さん……」
大上君がどこか心配するような瞳を向けてきたので、大丈夫だと伝えるために、笑みを返しました。
「……分かった。それじゃあ、一緒に聞こうか」
「はい」
私達が納得して、そして心を決めたことを確認したのか、おばあさんはゆっくりと頷きました。
その表情は複雑で、例えることは出来ませんでしたが、少し切ないものに見えたのは気のせいでしょうか。
「では、お話しましょうか。……これは今から数百年ほど昔のお話。大上家の始祖となる、とある青年と山の神の使いでもあった狼のお話……」
「大上君の家の祖先と……狼……?」
「あらあら、やっぱり……。伊織、あなた……我が家のこと、千穂ちゃんには、なぁんにも話していないのでしょう?」
「う、ぐっ……。だ、だって……。言い辛いじゃん……まるで、おとぎ話みたいなあやふや話だし」
大上君は苦いものを食べたような表情を浮かべ、頬を指先で搔いています。よほど、私には言いにくいことだったのかもしれません。
「でも、我が家の成り立ちは本当の話だもの。……さて、お話がずれてしまったわね。……それでね、先程の続きなのだけれど……。大上家の血筋はちょっとだけ特殊でね。とある青年と山の神の使いでもあった狼──正確に言えば、人の姿へと変化した狼が交じったことで、大上家は興されたの」
「それは……ええっと、つまり、異類婚姻譚……みたいなお話ということでしょうか」
私の問いかけに、おばあさんは頷き返します。
彼女の口から紡がれるのは、まるで民俗学の講義で教わった「異類婚姻譚」と似ているお話でした。
「異類婚姻譚」とは人間とは違った種族や存在──例えるならば、動物や妖怪、神様などと人間が婚姻を結ぶお話となっており、全国各地に様々な伝承として残っているものです。
もちろん、あくまでも伝承なのでそれが真実かどうかは分かりません。
ですが、おばあさんはまるで実際に起きた出来事のように、淀むことなく続きを話してくれました。
「我が家にはね、一言一句、変わることなく伝わっている伝承があるの。それを柔らかく砕いたものをお話するわね」
「それって、俺にも聞かせていなかった話も入ってくる?」
「ええ。……伊織はとある青年と神の使いだった狼が、我が家の始まりだという大雑把なお話しか知らないでしょう? 今から話すのは、その細部よ」
おばあさんは元々、大上家の長女として生まれたそうで、そして婿を取って、大上家を継いだそうです。
なので、大上家に伝承として残っているお話も継承しているとのことでした。
おばあさんは一つ、二つ、呼吸をしてから、幼子に聞かせる昔話を語る口調でお話を始めました。
特別なことは何もしていないというのに、私の意識は一気におばあさんが語るお話に引き込まれていきます。
「むかし、むかし……。この町がまだ、小さな村だった頃……長きに渡る凶作によって村の人々は飢えに苦しんでいました。そんな状況を憂いた村人達の一人だったとある青年は、少しでも食糧を得ようと狩りをするために、寒い冬の季節に山へと入ったの。……もう、そうすることでしか、食糧を得る方法がなかったのよ」
おばあさんは瞳を山の奥深くへと向けました。
「青年は狩りを得意としていてね。狩りをする際にはいつも赤い頭巾を被っていたそうなの」
「でも、山の中で赤い頭巾を被ると目立って、邪魔になるんじゃない?」
「もちろん、目立たない方が狩りの装いとしては適切でしょうけれど、それだと他にも山の中で狩りをしている者がいた時、動物と間違えて自分に矢を射られた危ないでしょう?」
「それもそうか」
大上君はなるほど、と納得するように頷いていました。
一方で、おばあさんのお話に、少しだけ聞き覚えがある言葉が登場した気がして、私の胸の内側がざわめきました。
ですが、その理由が分からず、もやもやする感情を隠すようにしながら、おばあさんのお話に再び耳を傾けます。
「狩りのために山奥へと入った青年は、動物を追いかけることに夢中で、いつの間にか迷ってしまったの。……獣道も、見慣れた草木も、山の中にあるあらゆる目印となる場所を全て覚えていたのに、よ。違う道を通っても、戻るのは同じ場所ばかり……」
「え、それは……つまり……」
「ええ、神隠しのようなものに遭ってしまったのよ。……青年は歩き疲れた上に、空腹のあまり、その場に倒れ込んだわ。もう、立ち上がる気力さえも湧かなかった……」
「……」
「家族に、村人達に、何か食わせてやりたい。その一心で山に入ったというのに、何も捕れないまま、ここで野垂れ死ぬのか──。すると、どこか遠くで鳴き声が響いた。犬のようであって、犬ではないものが吠えた声が。それを聞いた青年は、自分は獣の餌になるのだろうと悟ったの。足音と共にやってくる自分の最期を自覚した青年は、己を喰う獣の姿を拝もうと瞳を開けた。そして、出会ったの……」
おばあさんは目を一度閉じ、そして開きました。
「──白い毛並みは宝珠のように美しく、凛とした佇まいは何よりも気高い『狼』に」