むかしむかし(下)
前回の続きです。二話に分けたのもあり、今回は結構短めです。
どんな小説でも、主人公は大抵の場合純粋で心優しい。今まで父の書斎にこっそり入って沢山の本を読んできたが、主人公が悪い意味で貪欲かつ薄汚いものは一つも無かった。どんな欲があっても、彼らは道を踏み外すことなく周囲のことを考えて行動していた。それでも、いや、それだからなのか。彼らの行く末は必ずハッピーエンドだった。
この世界が一つの物語だとするならば、あの子は間違いなくお姫様だ。どこまでも純粋で、好きな人の為に自らの恋心を責めているくらいなのだから。……なのに。
「私、やっぱりお姫様じゃないよ」
ユキちゃんは自嘲気味にそう言った。見知った住宅街に、乾いた風が吹く。
「……どうして?好きな人の為に努力してるって凄く素敵なことだよ。ユキちゃんは純粋で綺麗なお姫様だよ」
「四葉の為じゃない。私の為なの」
私の言葉を遮るようにユキちゃんは言った。そこから先は、まるで彼女が自分自身に言い聞かせているようだった。
「だって四葉が私に求めてるのは親友って立場だよ?あの子の恋人になりたいのもその為に格好良くなりたいのも全部私の願望で、しかもそれが叶ったら四葉の親友はいなくなる。……最低だよ。私、自分の願いの為に四葉の願いを無視したの」
泣きそうな顔で無理やり笑ってみせたユキちゃんは、どう見たってやっぱり純粋なお姫様だった。
「ユキちゃんは良い子だね」
「……どこが?カエデちゃん、話聞いてた?」
「聞いてたよ!酷いなぁ」
私がそう言っても、ユキちゃんは疑いの眼差しでこちらを見ていた。彼女は本当に汚いものを知らないのだろう。
この世界が一つの物語だとするならば、あの子は間違いなく純粋で真っ直ぐなお姫様だ。そして、私ほどそのお姫様を騙す悪役に相応しい人物はいないだろう。主人公とは対極にいる、ドロドロに汚れた欲まみれのひねくれ者。ただ一つ問題があるとするならば、当のお姫様があまりにも純真無垢過ぎるせいで私ですら汚したくないと思ってしまうことだ。
私は心から恋をしたことがない。何となく気になるなぁ、と思っている人は何人かいるのだが、それが恋なのかと言われるとどれも違う。恐らく私は「好き」の定義が広いのだろう。初めてユキちゃんから好きな人の話を聞いたとき、ますますそれを思い知った。彼女は四葉ちゃんを愛している。自分より四葉ちゃんの幸せを優先して生きているくらいなのだから。
「ユキちゃんは本当に良い子だよ。私と違って」
他人の幸せを願える人なんて、醜い悪者だらけのこのご時世ではもう絶滅危惧種と言っても良いだろう。ユキちゃんがそんな世の中で今のように純粋なまま幸せに生きるのはどうしたって難しい。今後の幸せを願って彼女を汚すならきっと今のうちだ。それでも、私は彼女をそのままにしておきたかった。罪悪感はなかった。ユキちゃんと違って、私は自分の欲に忠実でないと生きられない。自分が醜い存在であることなんてとっくの昔から知っている。
「……カエデちゃんこそ良い子でしょ。私の話、文句も言わずにここまで聞いてくれるなんてさ」
「バカだなぁユキちゃん。親身になって話を聞いてから騙すなんて物語の悪役の定石じゃん。私は良い子じゃないよ」
「カエデちゃんは人を騙すような子じゃない。てか、例えそうだとしてもカエデちゃんは良い子だよ」
ユキちゃんは真っ直ぐに私を見据えてそう言った。彼女はあまりにも純粋で、鈍くて、頑固で、無知だ。この様子だと、このお嬢さんは何を言っても私が汚いことを理解しないだろう。
「……バカだなぁユキちゃん。キミは本当にバカだ」
私は出来る限りの笑顔でユキちゃんに言った。内面の醜さが表面に出ていませんように、と願いながら。
見慣れた我が家が近付く。私は制服のポケットから鍵を取り出し、ユキちゃんにじゃあね、と言おうとした。しかしユキちゃんは私の手を掴んだ。
「……私、そんなにバカじゃないよ」
その声は震えていた。慌てて彼女の顔を覗き込むと、一筋の涙が頬を伝っていた。
「カエデちゃんは悪い子なんかじゃない。少なくとも私はカエデちゃんが悪い子なんて思わない。……だから、そんな顔しないでよ」
私は思わずユキちゃんを抱き寄せた。中学の頃からそうだ。普段は鈍い彼女は、何故か私が鋭くなってほしくない時に限って敏感になる。私が自虐的になって自分で自分を傷付けると、まるで自分が傷付いたような顔をするのだ。私はそんな顔をしたユキちゃんを見たくなくて、その度に彼女を抱き寄せていた。
「ユキちゃんは優しいなぁ」
風に煽られてアホ毛が何本も立っているユキちゃんの頭を撫でると、彼女は幼い子供のように嗚咽をあげて泣き出した。