死んでもいいわ
今回はタイトルの通り、病んでいる要素の多い話です。私自身が病んでいるわけではないのでご安心ください。
高校生にもなって注射が苦手なのは、あたしくらいかもしれない。昔からあたしは痛いのが嫌いだ。友達からスケートに誘われても転ぶのが怖くて断ったし、喧嘩なんて16年間生きていて一度もしたことがない。身体の痛みを感じるくらいなら、 自分の心を押し殺した方がよっぽどマシだった。あたしは賢いんだ。周りの子みたいに、わざわざ自分から傷付きにいくような馬鹿な真似はしない。君子危うきに近寄らず、だ。
あの時のあたしは、まだ本当の痛みを知らなかったのだ。
「お前さあ、もう学校来るなよ。邪魔なんだよ」
今日もあたしのクラスでは戦争が起こっている。邪魔だ、と言われているのは原田さん。ガリガリに痩せている彼女の身体には、クラスの誰かからつけられたのであろう青痣が大量にある。この原田さん対クラスの全員で、入学してから戦争は行われている。あたしはそれをずっと傍観してきた。彼女のように痣だらけの日々を過ごすくらいなら、空気のように教室の隅っこにいた方がずっと良い。平凡に生きられるなら、誰からも認識なんてされなくて良いのだ。
「ほら、早く出てけよ」
原田さんは絶対に泣かない。暗い空洞のような瞳で、自分のことをいじめている敵でも窓の外の景色でもない何かをずっと見つめている。いつもなら。
その日、何故か原田さんはあたしを見ていた。気のせいじゃない。確かに目が合った。彼女はあたしをじっと見つめて、静かに教室から出ていった。あまりにもいきなりのことで、一瞬何が起こったのか全くわからなかった。なぜ彼女はあたしを見たのか。助けを懇願するような目でも自分を助けないことを責める目でもなかった。ならどうして。
あたしは何だか怖くなって、原田さんがいなくなったのに彼女の視線から逃げるように文庫本を開いた。
「但馬さん、ちょっといい?」
あたしが逃げた瞳の持ち主は、あたしを追いかけてそう言った。
ごめん、急いでるから。そう言おうとしたのに、何故か原田さんの目を見ると何も言えなかった。嘘をつくことを許さない、そんな鋭い目をしていた。
「ちょっとこっち来て」
ものを言えないあたしの返答を待たず、原田さんは人の流れに逆らって廊下を歩いていった。小柄なはずの彼女の歩幅は意外と大きく、あたしは追いかけるのに苦労した。やっとのことで彼女を追っていると、人気の無い家庭科室にたどり着いた。料理部なんて無いうちの学校で放課後にここを使う人なんていない。
原田さんは椅子に座り、「こほん」と1つ咳払いをした。
「あの……何?」
「単刀直入に言うけど、私と心中してくれない?」
彼女はまるで「そこの駄菓子屋でチョコでも買わない?」なんて言うように何事もない様子で言った。
「え……心中?心中って、あの心中?一緒に死ぬってやつ?」
「他に何があるの?」
「ない……けど、」
今日あたしに向けられた視線といいこの突拍子もないお願いといい、なぜあたしなのだろうか。正直、迷惑極まりない。別に原田さんと仲が良かったわけでもない。それなのになぜわざわざあたしを呼び止め、こんなことを言うのだろうか。
「嫌だよ。あたし、死にたくないし」
「何で?」
原田さんは本当に意味がわからないと言うようにあたしを見た。空洞のような黒目は、見つめているとブラックホールに変わってしまいそうだ。
「いや……だって痛いじゃん、死ぬとか。あたし痛いのは嫌だよ」
「じゃあ痛くなかったらいいの?」
「え……」
あたしは返答に困った。それを見て、原田さんはまくし立てるように言った。
「私だって痛いのは嫌だよ、そんなの但馬さんに限った話じゃない。だから死ぬの。痛いって感じるのは生きてるからでしょ?ここで一回大きな痛みを感じちゃえばもう痛い思いをしなくて良いの。教室でみんなから仲間外れにされる痛みも、家に帰って両親に殴られる痛みも感じなくて済むの。……だからさ、一緒に死のうよ」
それはあたしへの言葉というより、原田さんが自分自身に言い聞かせているような言葉だった。
「……何であたしなの」
聞きたいことはいっぱいあるのに、あたしの口から出てきたのはたったそれだけだった。
「但馬さんも死にたそうだったから」
原田さんはニッコリ笑ってそう言った。彼女の喉元の青痣が、やけにあたしの網膜に焼き付いた。
「但馬さん、周りの様子ばっかり窺ってて端から見ても生きてるって感じがしないんだもん。今すぐここから消えちゃいたいなぁ、って顔に書いてあったよ」
彼女の言ったことはまさしくその通りで……だからあたしは腹が立った。次の瞬間、理性が吹っ飛んだあたしは原田さんの胸ぐらを掴んでいた。
「ふざけんな!!あたしはそんなこと思ってない!!あんたにあたしの何が分かるんだよ!!あたしはあんたと違って賢いの、だから周りに目ぇつけられずに生きる術だって……痛みなんて感じずに生きる術だって知ってるんだよ!!」
人生で初めて人を怒鳴り付けた。今までで一番感情が昂った。しかし、当の原田さんの表情は冷静沈着そのものだった。
「……但馬さん、あなた自分が賢いなんて本気で思ってるの?残念だけど、私はそうは思わない」
「……どうしてよ」
「自分の心の痛みにすら気付けない人なんて、馬鹿以外の何者でもないでしょ」
そう言われて、あたしはようやく気付いた。原田さんのあの視線。あれはあたしへの憐れみだ。自分自身と戦うことも放棄したあたしは、強い彼女にとっては可哀想な人だったのだ。
あたしは昔から痛いのは嫌いだ。注射も、ローラースケートも、喧嘩も……お父さんやお母さんからの無視も。
あたしには4つ上のお姉ちゃんがいる。美大に進学してコンクールでも優秀な成績を残している姉は両親のお気に入りで、やがて何の取り柄も無いあたしは自然と家族から構われなくなった。どうせ無視されるなら、存在感を消してしまおう。そう思い始めたのはいつからだっただろうか。
「じゃあ、私1人で死ぬから。じゃあね」
そう言って家庭科室を去ろうとした原田さんの制服の裾を、あたしは引っ張った。
「待って、原田さん」
「……何?」
一呼吸おいて、あたしは彼女の目を見た。
「心中、しよう」
家族にも友達にも自分自身にも気付いてもらえなかった痛みを、彼女は見つけてくれた。
原田さんになら殺されてもいい。心からそう思えるのだ。