喜びのうた
エリーゼのために、だったと思います。
あくまで諸説上ではありますが、愛を捧げる音として耳に馴染んだこの楽曲は、ピアノの旋律を思い浮かべる際に、最も容易に脳内再生できるものなのです。特に、音楽に疎い私には。
詩に会いにゆく道中、彼女の好んだチャイコフスキーを意識に携えてと考えたのですが、どうしても有名すぎるベートーベンが邪魔をします。しかし彼女はそんなことに頓着しないたちでしょうし、私も習ってよしとすることにしました。
「一般人にはそんなの普通だって、フツー。」
案の定、詩は笑い飛ばしてくれました。
「クラシックなんて、どれも似たり寄ったりだもん。」
音楽に精通している人間の言葉とは、とても思えません。自身の名前さえその業界に関連しているというのに。
彼女とはかれこれ十年ぶりの再会です。
時の流れなんて感じさせない愛らしい容姿と、声と、あのころのままの無邪気なしぐさに朦朧としました。他に、表現が見当たらないのです。緊張や気恥ずかしさとも違う、まるで私だけ年をとって、詩だけあの頃のままのような不思議な感覚なのです。
そういえば十年前のあの日、最後に会った日も、四年か五年ぶりの再会でした。
あの日に朦朧としていたかは、正直覚えていません。
詩の結婚式の日でした。
二十一になったばかりの彼女は、元々可愛らしいお人形のような子だったこともあり、ウェディングドレス姿が花嫁さんというより、お姫様といった形容詞がぴったりで、私の目にはかえって不自然に見えたものです。
隣に並ぶ新郎の彼は、世の男性の平均値を一通り兼ね備えたようなの方で、誰の目から見ても穏やかなその風貌が、忌々しいものでした。
詩に愛される役を譲るなど、若い私には耐えられなかったのです。
小夜子はコーヒー? 詩が聞くので、いいえ、詩と同じにして。と答えました。
「あたし、ミルクだよ?」
知ってます。彼女は昔から、コーヒーも紅茶も飲めないのです。
「カフェイン、控えてるから。」
なあにそれ。二人分のミルクを鍋にかけながら、詩は笑いました。
「お砂糖、入れる?」
「どちらでも。」
十年ぶりにしては面白味の無い会話が続きます。最近どう? くらいあってもいいのに。
「今日、お子さんは?」
聞くと、詩は一瞬だけまばたきを止めて、またすぐに笑顔を戻しました。
「まだ学校。今年から小学生だよ。」
月日が経つのは早いものです。ようやく朦朧とした感覚が晴れてきました。
「うちも、下の子が今年入学したの。」
「女の子だっけ? 二人目、」
「ええ。」
やっと、互いに既婚者らしい会話にこぎつけました。
小夜子は軍師みたいな女だよね。
若い頃の私たちは、よくわからない会話を繰り広げていたものです。
「軍師?」
「うん。打算的っていうか、ひとでなしっていうか、」
あの頃はまだ共に十代でした。
私の愛した相手が詩だけで、詩の愛する相手も私だけの日々でした。
二人初めて出逢ってからたったの一年間、私たちは寝食を共にし、片時も離れませんでした。働きもせず、学校にも行かず、詩の大きなお屋敷で、ただ生きているだけの、贅沢なペットのような生活をおくっていました。
「じゃあ、詩は?」
「あたしはね、えらい人。」
なにそれ。思わず吹き出してしまいました。軍師ときたのだから、せめて武将だとか領主を期待していたのに。おそらく彼女の知識とは、広く浅いものなのです。
「えらい人はえらい人だよ。軍師を囲って、その功績を一番喜ぶのが、あたし。」
だから、小夜子はあたしを喜ばせてくれなきゃだめだよ。よくわからない理論を詩は唱えます。
私は可笑しく幸せに浸るしかありませんでした。
「名前、なんてつけたの?」
再会は十年ぶり。最も愛し合った時から数えれば十五年も経ってしまっていては、記憶も曖昧になります。私は彼女に、産んだ二人の子の名前さえ伝えていなかったようです。
「上の子が元希で、下の子が奉世。」
漢字の説明が少々難でしたので、紙に起こしながら教えました。
「二人とも、歴史上の軍師から一文字とったの。」
表記しながら更に説明を添えると、詩は、あんな話まだ覚えてたの、と吹き出しました。お互い様です。私も吹き出しました。
「でも、あたし、えらい人の名前は付けなかったなあ。」
続けて詩が子供の名前を教えてくれました。
上のお嬢さんが『十喜恵』で、下のお嬢さんが『万喜恵』。
二人とも、喜びの一文字を入れているのが、こだわりなのだそうです。
「二人目、産まれていたの?」
私は少しだけ唖然としてしまいました。詩が二人目を産んでいたことを、この時初めて知ったからです。
「うん。でもうちにはいないよ。」
さらりと言う返答が、更に唖然とさせます。
「お姉ちゃんにあげちゃった。女の子だったから。」
あたし、どうしても男と女一人ずつ欲しいの。無邪気に告げる彼女の姿は、あのころとなんら変わっていませんでした。
あたし絶対、あなたを逃がさない
詩が私を呪ったのは、十年前の結婚式の日でした。
お姫様のような純白のドレスを纏い、私の首を絞めながら、馬乗りになって彼女は恨みのことばを落としました。
「逃がさない。逃がさないから。」
首を絞める手に、力はほとんど入っていませんでした。
ゆらりと見下ろす顔が影でよく見えません。
声は、まだ、愛らしかったと思います。
……あたし、子供を産む。あたしを繋げる。
絶対、もう一度、あなたを囲ってみせる。
声を降り注がせる唇に、私は手を伸ばしました。
艶やかで膨らみのある紅に指が触れると、そこはか弱く震えていました。
「あいしているわ、詩。」
私も彼女を呪いました。
頭のなかでピアノの旋律が響き渡り、やむことはありませんでした。
私たちに残された永遠に、選択は一つしかなかったのです。
温められたミルクは、だいぶ甘くしてありました。彼女の味覚は、若い頃のままで止まっているようです。
「名前は、親が贈る最初のプレゼントって言うわよね、」
ひと息ついたところで、私はぼんやりと口を開きました。
「でも私たちには、最初に押し付けたエゴでしかないみたい。」
詩は時間をかけてミルクに息を吹きかけながら、私の話を聞いていました。
やがてゆっくり一口含み、飲み込んだところで、
「子供が親の愛かエゴかなんて、ナンセンスな考え方だよ。」
真顔でそんなことを言いました。
「血縁だから。産んだから。育てたから。時間を共有したから。情が理由の愛って、その時点で充分エゴじゃん。無償の愛って、結局他人に対してしか成立しないんだよ。他人だから、無償になるんでしょ。」
やはり彼女の知識は広く浅くて、理論はよくわからないもののようです。
「そんなものかしら、」
「そんなもんだよ。」
「『えらい人』の考えかたって、よくわからないわ。」
「大して複雑じゃないよ。あたし、頭よくないもん。それに、」
それに? 私のおうむ返しに、詩はほんのちょっと焦らします。
「一番いい例じゃない、あたしたちが。」
やっぱり、えらい人の考えていることはよくわかりません。
「うそつき。そういうとことが打算的なんだって、小夜子は。」
愛らしく笑う詩は、どこまでも無邪気で、また私を朦朧とさせました。
「私だけ、おばさんになったみたい。」
私が嘆くと詩はけらけらと明るい声をあげました。
「ちょっと三十過ぎただけでおばさんだなんて、刺されちゃうよ。」
「外では言わないわ。」
「言わなくてもだめ。小夜子はいつまでも、あたしの可愛い小夜子だもん。」
結婚しても、子供を産んでも、年をとっても、小夜子は小夜子。
だからあたしは追いかけるの。
あなたの繋いだ小夜子を、あたしの繋いだあたしがいつか絶対囲ってみせるわ。
私たちの掛け合った呪いは、まだまだ続くようです。
「この子は、あたしを覚えていてくれるかな、」
帰り際、私の下腹部に手を添えて詩は呟きました。
「気づいていたの、」
「なんとなくね。」
詩はわざとらしい大げさな溜め息をつくと、
「あたしも頑張らなくちゃ。男の子が産まれるまで産み続けてやるんだから。」
なんて意気込みました。
どうしてそんなに性別に拘るのか聞くと、彼女いわく、選択肢と可能性が広がるから、だそうです。
「言ったでしょ。もう二度と、あなたを逃がしたくないの。」
帰りの道中、私は再びチャイコフスキーのどれかを思い出そうと、記憶の限りを絞りました。
……だめです。やはりベートーベンが邪魔をします。今度はエリーゼのためにではありません。でも、すごく有名な曲。なんだったっけ。
……ああ、思い出した。
これは、第九だ。
翌年、私は第三子となる男の子を出産しました。上の子ふたりと同じよう、歴史上の軍師から一文字とって、『文也』と名づけました。
私の最後の出産から十年以上経ったころ、詩が念願の男児を出産したのだと、人づてに聞きました。
双子の男の子で、やはり名前には、喜びの一文字を入れたそうです。