反省と鍋
瞼を上げると、視界いっぱいにフィナンシェの背中が映っていた。
そして、そのことを認識してすぐ、周囲を確認。
見える範囲に軍地蟹の姿はない。
俺は、また気絶していたのか。
というか、これは……。
「あと半分くらいか?」
どうやら軍隊蟹からは逃げ切り、崖を上っている最中のようだ。
左には壁、右には谷がある。
いまは谷底から崖の頂上までのちょうど中間くらいの位置を走っているみたいだな。まぁ、目測だからテキトーだが。
本当に中間くらいの位置かどうかはわからないが、谷底がかなり遠く見える。
軍隊蟹も全く姿が見えない。
おそらく、俺たちが逃げ切ったことを確認してすでに姿を隠したのだろう。
これは、気絶してからだいぶ時間が経っているな。
「あれ、トール起きたの? 馬に乗ってる間に起きるなんて珍しいね」
「たしかに。いつもならベッドか地面の上で……じゃなくて、悪い。寝てたみたいだ」
「ううん、気にしてないよ。無事にこっちまで辿り着けたし。それに、トールが寝てくれたおかげで助かったりもしたからね」
「俺が寝たおかげで?」
「うん! どうしても防ぎきれそうにない攻撃があって、『このままじゃ当たっちゃう!』って思ったら急にこの子がバランスを崩してね。トールが眠ったおかげで重心がズレたからなんとか回避することができたんだ!」
馬の首を撫でながらそう言うフィナンシェの言葉に嘘偽りはないように感じられる。
ただ、俺が寝てしまったことを自責しないように作り話をしているだけかもしれない。
実際、今の話を聞いて俺の気は少し楽になったし。
一応、真偽確認をしておくか。
《テッド、聞きたいことがある。俺が眠ったタイミングで俺たちに攻撃が当たりそうになっていたというのは本当か?》
『本当だ。前方から二体、左右から一体ずつ、合わせて四体からの同時攻撃があった』
《俺が眠ったことで馬がバランスを崩して、そのおかげで回避できたというのは?》
『それも本当のことだ。意識を失ったお前の身体が左に傾いたタイミングでこの馬のカラダも少し左に流れた。そのぐらつきのおかげですべての攻撃を回避できたのだから、それはお前の功績だろう』
《なるほど。大体わかった。ありがとな》
『礼には及ばん』
俺の身体が傾いた方向に馬も傾いたということは、馬が傾いたことに俺が関与しているのは間違いないだろう。
馬のカラダが傾いたおかげで攻撃が当たらずにすんだというのも事実のようだ。
フィナンシェの言い方からしてカラダを傾けただけで回避できるような攻撃ではなかったようだから、おそらく傾いたことで出来たほんの一瞬のタイムラグを利用したのだろう。馬のカラダが傾いたことによって同時攻撃だったはずの攻撃が同時攻撃ではなくなり、攻撃の当たるタイミングがバラバラになったために、当たるのが早い敵から順番に迎撃していくことができたとかそんなところか。フィナンシェの目の良さと技量なら一瞬のうちにどの攻撃から順に当たるかを判断でき、バランスを崩して揺れる馬の上でも的確に攻撃あるいは防御の手を繰り出すことが可能だろうからな。
まぁ、なんだ。
寝ていようがいまいが、どちらにせよ俺は馬上での戦闘では役立たずだったはずだ。
もし俺が寝てしまった結果、完全にお荷物になっていたとしても俺はそこまでショックを受けなかっただろう。
俺が寝たおかげで助かったというのは朗報ではあるが、情報の価値としては少し気が楽になる程度でしかない。
いま俺が気にしていることは俺が役に立ったかどうかではなく、あのとき自分だけ動くことができなかったということだ。
『心を鍛えなさい』
強くなりたいと言った俺に対して院長が言った言葉が思い出される。
今回の崖下りは予想もしていなかったし、駆け下りる覚悟も決まっていなかった。高所からの落下という初めての経験に驚いてしまったというのもある。
しかし、予想していなかった、覚悟していなかった、初めてだったということを言い訳にしてはいけない。
ダララのダンジョンでの作戦中に高所から落下する機会はないと思うが、予想していなかった事態が突然起こる可能性はある。
何かが起こったときに身体が固まってしまい動けなかったら死んでしまう。
それが冒険者というものだ。
想定外の事態に対処するイメージ。
このイメージが抜け落ちていたのかもしれない。
これは、作戦中の行動を考え直さなくてはいけないな。
リカルドの街を出る前に想定した内容じゃまだまだ足りなかったようだ。
心なんてものは簡単に鍛えられるようなものではないが、何があっても動けるようにイメージしておけば実際に何かあった場合の動きも変わってくるだろう。そんな状況を常日頃から想像していれば、少しは生存率が上がるはずだ。
作戦開始までに、もっと真剣にできるかぎりのことを想像し、準備しておくべきだな。
さて、軍隊蟹との戦いで何もできなかったことへの反省はこんなもんでいいだろう。
もうそろそろ、俺の後ろにあるモノがなんなのかフィナンシェに訊いてもいいはずだ。
「なぁ、フィナンシェ。後ろのこれ、なんだ?」
小さい頃から反省は大事だと言われ続け、その通りだと思いながらこれまで生きてきた。
だから、後ろにあるナニカは気にしないように頑張りつつ反省を行った。
だが、もう限界だ。
反省が終わった今、後ろにあるこれがなんなのか、今すぐ問いただしたい。
「俺には軍隊蟹のハサミに見えるんだが、どうしてこんなものが乗っているんだ?」
俺のすぐ後ろ、馬の尻の上あたりに乗っているこのハサミは一体なんなんだ。
「もちろん、今日のお夕飯だよ! 乗せるためのスペースが足りなかったからそれ一本しか持ってこれなかったけど、軍隊蟹っておいしいんだ~。私も食べたかったし、トールとテッドにも食べてもらいたいから持ってきちゃった!」
「……そうか。ありがとう」
「うん、とってもおいしいから期待しててね!」
この位置からじゃ確認できないが、フィナンシェはいま物凄く良い笑顔を浮かべているのだろう。
声がかなり弾んでいる。
あの乱戦の中、このハサミを回収してくるだけの余裕があったことにも驚きだが、それ以上にその食い意地に驚かされる。
しかしそれほどに美味いのか、この蟹は。
《テッド、今日の夕飯はこのハサミだそうだ。めちゃくちゃ美味いらしいぞ》
『そうか。美味なのか』
《ああ、美味だそうだ》
崖を上りきるまでここから三時間、旅人や商人用に用意された野営地に辿り着くまではさらに三時間。
斜面をゆっくり上ってきたこともあって、野営地に着いた頃には夕方となっていた。
橋が落ち、渓谷を渡ろうとする者がいないからか、簡素な柵に囲まれただけの広場には俺たち以外の姿はない。
そんな貸切状態の野営地に、軍隊蟹のハサミが茹でられる音が小さく響く。
俺の腕よりも少し長くて太いハサミを丸ごと茹でられるような鍋はさすがに持っていなかったが、フィナンシェが近くにあった大岩をくりぬいて底の浅い鍋のような形状に加工したことでその問題は解決。
これをつけるだけでどんなものでもたちまち綺麗に、という売り文句で有名らしい科学魔法都市製洗剤で岩製鍋の表面をキレイにした後は、戦闘中何もしなかったおかげで潤沢に魔力を余らせていた俺が水魔法をつかって鍋を水で満たし、その中でハサミを茹でた。
戦闘中何もできなかったことの反省もとっくに終わり、清々しい気持ちで食べた軍隊蟹のハサミはとても濃厚な甘みを持っていて、野菜にも果実にもよく合った。