落下する意識
朝早く町を出て、なんとか日が沈む前にはギルドのおっさんから教えてもらった谷底へと下りられる地点を確認。その地点から少し離れた場所で最低限の警戒をしながら野営をし、しっかりと休んで一夜明けた現在、谷を越えるため昨日確認した地点にもう一度訪れたのだが……。
「本当にここか?」
「うん。間違いないよ!」
昨日は馬での移動で疲れていたのと日が沈み始め辺りが薄暗くなっていたこともあって俺はこの地点を目視確認しなかったが、フィナンシェが「谷底に岩もたくさんあるし、ここにも向こう側にも谷底まで続く道がある。ギルドで教えてもらった場所はここで間違いないね!」なんてことを言ってたからちゃんと目的地を確認できたのだと思っていた。
しかし、いま見下ろしているのはどう見ても崖。
多少ゴツゴツとしているものの、道と呼べるような足場は見当たらない。
対岸側には道と言えるような緩やかな斜面があるが、こちら側にはそのような斜面は到底見つからない。
「ここをどうやって下りるんだ?」
「え? 馬に乗って駆け下りるよ?」
「やっぱりそうだよな」
なんとなく予想はしてたが、こちら側にはゆっくり歩いて下りられるような斜面がないのだから小さな足場をたよりに馬に乗って駆け下りるしかない。
念のため、昨日のうちに本当にここが教えられた場所なのかどうかは確認した。
この付近を少し探索した結果、ここ以外には谷底まで下りられそうな場所はなかったらしい。
フィナンシェが見落としをするとは思えないし、おっさんから教えてもらった場所はここで間違いないのだろう。
俺たちにこの道を教えてくれたとき、おっさんは初めから駆け下りることを前提に話していたのか、それとも三日前にあったという川の氾濫やそれよりもっと前にこちら側の道だけ削れてなくなってしまったのか。
なんにせよ、この崖を駆け下りる以外に道はないみたいだ。
もっと崖面から迫り出したような感じの斜面の上を歩いて谷底まで行くもんだと思っていたんだが、そんな斜面があるのは向こう側だけか。
「ゆっくり歩いて下りれるような道があると思ってたんだがなぁ……」
「ん、何か言った?」
「いいや、なんでもない」
「そう?」
声に出てしまっていたらしい。
不思議そうに聞き返してくるフィナンシェを適当にあしらいながら再度崖を見下ろす。
やはり何度見ても崖にしか見えない。
おっさんは緩やかな斜面と言っていた気がするし、軍隊蟹と戦いながら川を渡ることを考えても向こう側の斜面を上りきるまでに半日くらいかかるという話だったから、てっきり上り下りに十時間くらいかかるのだろうと思ってしまっていた。
だが、これを見るとそうではないらしい。
向こう側の斜面を上るのは歩けば三~四時間はかかりそうといった感じだが、こちら側は歩けるような斜面がないのだから一気に駆け下りるしかない。となれば、谷底に着くまで三十分もかからない。もしかしたら五分と経たずに下りきってしまうかもしれない。
「そろそろ下りよっか。トールも準備ができたら馬に乗ってね!」
「わかった」
本当にここを下りるのか。
そう思いながら馬に乗る。
しつこいほどに崖を駆け下りることを意識してみたが、その覚悟は決まらなかった。
だが、もう馬に乗ってしまった。
後戻りはできない。
覚悟があろうとなかろうとフィナンシェが馬に合図を送ったが最後、俺たちはこの崖を駆け下りることになる。
恐怖か緊張か、身体から血の気が引いているのがわかる。
上手く力が入らない中、できるかぎりの力を込めてフィナンシェに抱き着き、馬の腹を脚で抑え込む。
この腕と脚が離れたらお終いだ。もし離れたら俺とテッドは空中に取り残され、そのまま落下して死んでしまう。カード化できれば助かるかもしれないが、俺たちがカード化できるかどうかはまだ判明していない。絶対に離してはいけない。
そんな想いで腕と脚に思いっきり力を込める。
「じゃあ行くよ。しっかり掴まっててね!」
フィナンシェがそう言い終えた直後、一瞬の浮遊感、からの落下。
心臓がギュっと締め付けられ、意識が少し身体から浮き出たような錯覚を覚える。腹のあたりがムカムカして気持ち悪い。
ガッ、ガッ、という駆け下りる音と何かにぶつかったかのような衝撃を受けながらどんどん下へ落ちていく。
そのたびに身体から力が抜けそうになり、肩が小さく震える。
出そうになった声を必死で飲み込む。
これは駆け下りているのではない。落ちている。落下している。
目を閉じ、口を閉じ、ゴオオオオッという強風が通り過ぎていくような音を耳にしながら、息もできず、ただただひたすらに落ちていく。
どのくらい経ったのか。
それほど長くない時を経て谷底へと降り立ったとき、俺はドッと疲れていた。
開いた目は視点が定まらず、胸は短い間隔で大きく上下。ハァハァと口から漏れ出る息とバクバク鳴っている心臓に、乾いた口内に残るわずかな血の味。
まだ落下しているような気さえしていて、纏わりつく不快感を払拭できない。
身体を動かすことはできず、自分が本当に生きているのかどうかすら曖昧だった。
そして、落下した勢いそのままに駆け出した俺たちの前に現れたのは、軍隊蟹。
地面から、岩の陰から、川の中から。
どこか現実感の薄い視界の中、何体もの軍隊蟹が現れるのを視認した。
動けるのは、馬と、フィナンシェと、テッド。
俺は動けない。
そもそも、馬に乗りながら戦闘したことなど一度もない。
もし動けたとしても何もできない役立たずだったかもしれない。
四方八方から俺たちに向かってくる敵の姿を見ながらも未だ腕を動かすことすらできない自分に失望しながら、馬を操りながら敵を倒していくフィナンシェの姿をただ茫然と眺め続ける。
たまに左右で魔法が発動して軍隊蟹たちの動きが止まる。
おそらく、テッドがかばんの中から魔法玉を投げつけているのだろう。
意識はあるのに、身体は動かない。
馬が走り、フィナンシェが戦い、テッドも戦っている。
俺も何かしなくては。
そう思った瞬間とてつもない気持ち悪さが胸まで込み上げ、視界が黒く染まった。