渓谷と谷底の蟹
魔物に襲われることも、盗賊のような輩が出ることもなく、俺の体調が常に最悪なこと以外は順調な旅路。
その旅路に障害が発生したのは、リカルドの街を離れてから五日目のことだった。
「道がつかえない?」
「そうだ。アンタたちが行こうとしているサルラナの町までの最短ルートはこの道をまっすぐ行ったとこにある渓谷を渡るルートなんだが、渓谷に架けられてたはずの橋が三本ともぶっ壊れちまっててな。しばらくこの道はつかえねえんだ」
立ち寄った町の冒険者ギルドで次の目的地までの道順を確認しようとしたら、こんなことを言われた。
今日も馬に乗って移動したせいで気分は悪いが、俺も一応付き添って数日ぶりに目にする外面フィナンシェと受付のおっさんの話している内容を聞いている。
それによると、なにやら面倒事があったようだ。
おっさんの指が地図上に引かれた太い線の上で止まっている。この線が渓谷なのだろう。地図だとわかりにくいが、かなり太く長い線が引かれている。相当な大きさの渓谷なのだろう。
そこに架かっていた橋が落ちたせいで流通等にも支障をきたしているらしい。
橋が落ちた原因は不明。
三日前に川が氾濫したからそのときに落ちたのではないかという考えが有力らしいが、川が氾濫したくらいで落ちるような橋ではなかったとおっさんは言っている。
だがこの際、橋が落ちた理由はどうでもいい。
俺たちにとって重要なのは道がつかえなくなったということだ。
「他の道だと何日くらいかかりそう?」
「渓谷を大きく迂回する必要があるから、馬を使うってんなら十五日はかかるだろうな」
おっさんの指が太い線を避けるようにして半円を描く。
討伐作戦は八日後。
それじゃあ間に合わない。
作戦前に一日くらいは休息を挟みたいし、作戦に関する打ち合わせなんかもあるだろう。
できれば六日後までにはサルラナとかいう町に着きたい。
「私たちはモラード国からの要請でサルラナに向かってるの。なんとかならないかしら?」
「モラード国からの要請……ということは、ダンジョンの件か。なるほど、それなら十五日もかけてられねえな。ちょっと待ってろ。アンタたちになら教えられるルートがある」
そう言っておっさんが新たに持ってきた地図には先程の地図には描かれていなかった一本の赤い線が引かれている。
渓谷を表す黒線と交差するように引かれているその赤い線を指差しながら、おっさんが声を潜めて話し出す。
「この渓谷はそこそこの深さがあるんだが、この赤線が引いてある場所は馬でも上り下りできるくらいには緩やかな斜面になっている。谷底の川に関しても三日前の氾濫によって条件が変わってなければ、この線の引いてある場所には川を渡るための足場となるような岩がいくつも点在しているはずだ。このルートを通るなら二日もあれば渓谷の向こうへと渡れる」
斜面が緩やかになっている地点までここから一日。
その後、斜面を下って川を渡り、反対側の斜面を上るのに半日。
一度か二度は野宿か徹夜で移動する必要があるが、これなら早ければ四日後。遅くても五日後にはサルラナまで辿り着けそうだな。
「私たちになら教えられるルートと言っていたけど、それはなぜかしら? 秘匿しなければいけないようなルートには見えないのだけど」
「ああ、それはだな。この谷底には軍隊蟹が出るんだ。知ってるかもしれないが軍隊蟹は別名シャワークラブとも言って、群れて行動する魔物だ。一体一体が人間と同じくらいの大きさをしていてそれが何十体と出てくるから並の冒険者だと歯が立たない。しかも、この谷底の軍隊蟹たちは普段は隠れていて姿を見せない。随分前の話になるが、何も危険がないと思って谷底に下りた奴らが突然姿を現した軍隊蟹にやられるなんてことも何度かあったそうだ。だからこのルートを教える奴は選ばなくちゃいけねえ。アンタたちはあの作戦に参加できるくらいの実力者なんだろ? だから教えたんだ。くれぐれも他言はしないでくれよ」
「わかったわ。情報ありがとう」
必要な情報を聞き終えたフィナンシェが礼を言い、踵を返す。
俺もおっさんに軽く頭を下げてからフィナンシェを追う。
軍隊蟹からの奇襲に気をつけろよと念を押すように告げてくるおっさんの声を受けながら、俺たちは冒険者ギルドを後にした。
宿へと続く道を歩きながら、ギルドのおっさんとフィナンシェから聞いた軍隊蟹に関する情報をぼんやりした頭で反芻する。
軍隊蟹は川などの水場周辺に生息する魔物。
攻撃手段は突進と、顔の横から生えているという二本の大きなハサミによる打撃と斬撃。背中は硬い甲羅で覆われているため、攻撃するなら腹部を狙うのが定石。
フィナンシェも何度か戦ったことがあるらしく、倒すのはそんなに難しくないと言っていた。
問題は、足場とその数、あとは隠れているという情報。
川周辺は足場が悪いことが多い。
その足場の悪さに慣れていない者は普段以上に足元を気をつけながらの戦いを要求される。
フィナンシェはこれまでの経験によってどんな足場でもある程度は戦えるらしい。
俺も川周辺での戦闘は経験したことないが、人魔界にいた頃はよく川で遊んでいた。おそらく、足場が悪くてもある程度は戦える。
ただ、俺の場合はそもそも軍隊蟹とまともに戦えるだけの実力があるのかどうかという問題が先立ってしまうが。
仮に俺も問題なく戦えたとして、今度は軍隊蟹の数が問題となってくる。
十を超える数の魔物を相手にするだけでも大変なのに、それを不慣れな足場の上で行わなければならない。
しかも、敵は隠れているという話だ。
奇襲に関してはテッドの感知能力とフィナンシェの高い気配察知能力があればなんとかなると思う。
しかし、隠れているということは知能の高い個体に統率されている可能性があり、また、敵の数が多いかもしれないということだ。
記録に残っているだけでも過去に七度ほど谷底に軍隊蟹の討伐隊を派遣したことがあったらしいが、倒した後にどこかから流れ着いてくるのか、それともどこかに隠れていた軍隊蟹を見逃していたのか、討伐隊の働きによって渓谷の軍隊蟹がいなくなることはなかったらしい。
そして、殲滅しきれていなかったために軍隊蟹の姿が渓谷から消えなかった可能性を考えると、軍隊蟹は人間の目から身を隠しながら数を増やすだけの知恵を持っていることとなる。
魔物がそういった知恵を持っている場合、その群れの数が百を超えることもあるという。
事実、討伐隊は毎回五十を越える数の軍隊蟹を討伐していたらしい。
明日、谷底に下りるのは人数が多くいたであろう討伐隊とは違い、俺とテッドとフィナンシェと馬が一頭だけ。
俺たちの数が少ないと見た軍隊蟹は一斉に俺たちを襲いに来るだろう。
馬がいるためにテッドをかばんから出すことはできないし、純粋な実力だけで軍隊蟹を倒しながら渓谷を上り下りしなくてはいけない。
考えただけでも大変だ。
だが、フィナンシェは特に何も心配していないようで呑気なことに鼻歌を歌いながら歩いている。
「予定通り、今日はこの町で一泊して明日の朝早くに出発するよ」
フィナンシェのその言葉に軽く頷いて返す。
気分が悪く、声を出す余裕がないから仕方なく頷いて意思表示をしているが、首を動かすと頭が少し痛む。
早くベッドの上で横になりたい。
宿にはまだ着かないのだろうか。
「ギルドでおいしい料理の出る店も教えてもらったし、ごはんの時間が楽しみだね!」
少し先を歩いていたフィナンシェがにっこり笑いながらこちらを振り返ってきたが、さすがに飯の話題に頷きを返すほどの余裕は俺にはなかった。