逃げるか、戦うか
一万の魔物の軍勢がこの街を目指して進行してきているらしい。
しかも、今日中にはその軍勢は街に到着してしまうという話だ。
通りで、人々が街から離れようとしているわけだ。
この街には強固な結界が張られている。
あの結界ならスライムやドラゴンみたいな強い魔物でも混ざっていない限りは、たとえ五千体の魔物が襲ってきたとしてもびくともしないだろう。
そして、内界内では騎士トーラが命を落としたあのスタンピード以外では一万なんて数の魔物の群れは観測されていない。
多くても三千体程度だったらしい。
そう。本来なら、この街の結界があればスタンピード程度なんともないはず。
街の外に出るよりも街の中にいた方が遥かに安全なはずなのだ。
それなのに人々は街から退避し始めている。
この時点で気付くべきだった。
今回のスタンピードは普通ではない、と。
「私たちはこれから逃げますが、皆さんはどうされますか?」
店番の女性がそう訊いてくる。
こういう場合は、戦える者は街のために戦うのが望ましいんだったか。
これまでにスタンピードが起きた際も冒険者たちは街のために戦ったという話を、この工房に来るまでのあいだにフィナンシェたちから聞いた。
しかし、それは結界が機能していたからだ。
過去、この街に魔物の大群が押し寄せてきたときは、街に張られた結界のおかげで死傷者もほとんど出なかったらしい。
カード化してしまった者もいたらしいが、近くにいた者がすぐに結界内まで回収してくれたおかげで行方不明者も出ていないそうだ。
過去のスタンピードに立ち向かった者たちの多くは結界の存在を前提としていた。
結界があれば大丈夫という意識のもと戦っていたのだ。
だから、冒険者たちや街の住民たちは街から逃げることもせず、街のために戦った。
だが、今回は事情が違う。
今回のスタンピードの規模は異常だ。
一万という数は推定らしいが、もし魔物の数が一万よりももっと少なかったとしても、これまでのスタンピードの二倍以上の数はいるはずだ。
もしかしたら一万よりももっと多い数の魔物が接近してきている可能性もある。
街を素通りしていく魔物もかなりの数いるとは思うが、それでも何千という数の魔物が街の結界とぶつかることになるだろう。
それにより、街の結界が破壊されないという保証はどこにもない。
しかも、ここにはシフォンがいる。
シフォンは王族だ。
本来であれば真っ先に街から避難するはずの存在。
そんな存在を連れて魔物たちと戦うことなんてできない。
この状況で戦うことを選ぶのなら、シフォンとはここでお別れだ。
しかし、シフォンが襲われた一件はまだ片付いていない。
そうでなくとも、スタンピードが起きているこの状況でシフォンを一人にするのは危険すぎる。
それに、シフォンは数年にも及ぶ交渉の結果、やっとこの街に来ることができたと言っていた。
それなのに街中では何者かに襲われ、今度は過去に一件しか例がないほど異常な数の魔物によるスタンピード。
さすがに不幸な目に遭いすぎている。
ここでシフォンを一人にしたら次はカード化してしまうんじゃないかと思ってしまうほどの不運ぶりだ。
となると、俺たちは戦わずに逃げるべきだろう。
そもそも、シフォンがどうとかそれ以前に、俺には一万もの数の魔物たちと戦えるだけの力はない。
もしテッドの魔力に魔物たちが怯えたとしてもそれはテッドの半径三メートル以内に入った魔物だけ。
魔物たちも横一列に並んでこの街を目指しているわけではないだろう。
前方の魔物たちがテッドに怯えて足が止まったとしても、そのすぐ後ろから来ている魔物たちに押し出される。
そうなってしまえば俺たちは魔物に圧し潰されるしかない。
そもそも三メートル以上離れた距離から俺たちを攻撃できる魔物がいたらその時点でアウトだ。
スタンピードに対してはテッドへの怯えは無意味。
数が多いということは回避も困難になる。
そもそも回避できるだけのスペースがあるとは思えない。
回避を封じられた俺なんてただの雑魚だ。
あっというまに蹴散らされてしまう。
最近は死の危険が全くなかったからあまり考えていなかったが、俺とテッドがカード化できるのかどうかはまだわかっていない。
カード化できるとしてもそんな数の魔物に立ち向かうのは御免蒙るが、カード化できない可能性があるのなら余計に戦うなんて真似はできない。
俺はまだ死にたくないし、テッドにも死んでほしくない。
結局のところ、逃げる以外の選択肢はない。
俺と同じく店番の女性からの質問に何も答えず、未だ沈黙したままの二人に目を向ける。
おそらく、フィナンシェも俺と似たようなことを考えているのだろう。
その視線はシフォンの方を向いている。
フィナンシェと顔を見合わせ、頷き合う。
俺たちの第一目的はシフォンをブルークロップ王国まで送り届けることだ。
だから、スタンピードからは逃げる。
もしかしたら、フィナンシェは俺とテッドならこのスタンピードを何とかできるかも、くらいは思ったかもしれない。
しかし、俺たちが本気を出すと周囲に凄まじい被害が及んでしまうことになる。
実際はそんなことはないが、フィナンシェはそう勘違いしている。
だからこそ、魔物たちが街にだいぶ接近してきてしまっている現段階では俺たちを頼ることはできないと考えているはずだ。
場合によっては、一万の魔物によるスタンピードよりも、俺とテッドが本気を出した方が被害が大きくなると考えている可能性もある。
ゆえに、俺とフィナンシェの口から出る言葉は同じだ。
「「俺たち(私たち)もこの街から逃げ……」」
「私は逃げません!!」
俺たちもこの街から逃げます。
そう言いかけたところで、シフォンが大きな声を上げた。
シフォンの言葉によって、俺とフィナンシェの口の動きが止まる。
「私は、戦います! そのために私は、力を磨いてきたんです!」
シフォンがどういう意図でそう言ったのかはわからない。
しかし、その言葉には確かな決意があった。
覚悟のこもったその言葉を聞いて、俺は考えを改めた。