読めるけど読めない文字
…………おかしい。
これは、どういうことだ?
「今この身体に、何が起こっている?」
魔光石の明かりの中、ペンと紙を持った体勢のまま固まった自分の身体。
声を出すことはできるみたいだが、ペンを動かそうとする手は全く動かない。
『どうした? これを書き写すのではなかったか?』
「いや、書き写そうとはしているんだが……」
石碑に彫られた文字を書き写そうとする手は、ピクリとも動かない。
動かせるのは、口と首と足と肘と肩と……手も、書き写そうとする動作以外なら正常に動かすことができるみたいだが、文字を写そうとした瞬間にまた自分の意思では動かせなくなる。
「ダメだ。石碑の文字を書き写そうとすると途端に身体が動かなくなるみたいだ」
自分の意思で自分の身体を制御できないという状況。
こんな状況への心当たりは俺たちをこの世界へと連れてきた“世界渡りの石扉”くらいしかないが、あのときのような嫌な感じは毛ほどもない。
一応、俺とテッドがこの世界に来たときにいた場所がこのカナタリのダンジョンの真上であることを考えるとこの辺りには“世界渡りの石扉”が出現しやすいということもなくはないが……まぁ、嫌な感じはしないし、世界三大禁忌の一つとそんなに頻繁に遭遇してしまうなんてこともないだろうから、考えられるのは一つだけ。
『ユースファリの魔術か?』
「おそらくな。文字を読むのは許可しても、文字を写すのは許可しないということなんだろうな」
ノエルによくかけてもらっている浮遊魔術。
ノエルにその気がないのか幸いなことにまだ俺は体験したことがないが、このあいだ攫い屋二人に使用していた際のことを思い出す限りではあれも魔術のかけ方次第ではかけられた者の身体の自由を奪うことができるようであるし、史上最高の魔術師としても語られるユースファリほどの人物であれば数百年経っても効果が持続するような身体拘束魔術をつかえたなんてこともありえなくはない。
「とにかく、この石碑に本当に書写を妨害するような魔術がかけられているとするなら、あとはここで内容を覚えていくくらいの手段しかとれないが……テッド、お前これ、憶えられるか?」
目の前の石碑に彫られている文字は何百字、あるいは何千字。
俺とテッドで半分ずつ憶えることにしたとしても到底憶えきれそうにないくらい巨大な石碑いっぱいにビッシリと残されているこの膨大な数の文字を紙に書き写せず暗記するしかないとなると、さすがにいくらテッドといえども……
『無理だな。これを憶えることはできない』
「やっぱりそうだよな……。重要そうな文言だけを憶えていくとしても、一体どれだけの時間がかかることか……」
フィナンシェたちとハグレてしまっている現状を思えばあまり長時間ここにいるというのはよいことではない。
本当ならすぐにでもフィナンシェたちとの合流を急いだ方がいい状況なのだろうから、長居するとしてもあと数十分が限度といったところ。
そんな短時間でいくつもの文章を憶えるなんてこと俺の頭では…………なんて考えている時間がもったいないか。
「書き写せないものは仕方ない。憶えるぞ。テッドは一番上からあの辺まで、俺はあの辺から一番下までだ。それと、探索依頼用に持ってきた映像記録装置でも記録できないか試してみるが、そっちは当てにするな。すべて憶えるつもりで頭に叩き込め」
とりあえず、これが現状考えうる最善。
石碑を半分に区切り、上半分をテッド、下半分を俺が憶えることにしたからこれで多少は負担が減ったはずだが、それでどこまで暗記できるか。
正常に作動しているように見えるこの映像記録装置もユースファリの魔術を打ち破り石碑の文字を記録することができるかどうかは不明だし、やはり俺とテッドで内容を暗記していくしか――と、思ったのも束の間。
「あれ? 文字が、読めない……?」
『まさか聞いていなかったのか? 先ほど言ったではないか。これを憶えることはできない、と』
見上げる視線の先。
読めているはずなのに、頭に入ってこない文字。
唯一認識できるのはユースファリ・マ。ダッドという名前だけ。
他の文字は頭に入るまえに忘れてしまうのか、読めはするのに、読めない。読めているのに、憶えられない。
ということは、つまり……。
「つまりこれまで考えていた時間は、全くの無駄だったということか」