死の間際
九メートル弱。
目には見えぬ場所。闇の先にいるカーベを見据え、向かい合う。
これから格上と戦うというのに不思議と気負いはない。
《カーベだけじゃなく謎の二人組、特にあの場から逃げ出した女の方が現れたら教えてくれ。その女もまたここに来るかもしれないからな》
『わかっている』
頭の方も、カーベに集中しながら他のことに注意を払えるだけの余裕がある。
《気を抜いたらお終いだと思え》
『お前こそ、動きを止めるんじゃないぞ』
《その点は心配するな。傷だらけのはずなのに、なぜか今は調子がいい》
傷を負い、血が抜け、身体に余計な力を入れる余裕がなくなったからだろうか。
無駄に力むことがなくなった分、最小限の力で最大限に効率よく身体を動かせる――なんとなくだが、そんなような気がする。
『血が抜けて頭が冷えたか』
《冷えたというよりかはスッキリしたという感じだな。あと、血が減って身体も軽くなったのかもしれない》
軽口を言うという敵と対峙中という状況にそぐわない行動をとりつつじりじりと歩を進める。
神経も研ぎ澄まされているのだろうか。
八メートル、七メートル、六メートルと……カーベとの距離を詰めるたびにカーベの息遣いや動く気配がより鮮明に感じ取れるようになり、たくさんの魔物の声や移動音、テトラやフィナンシェたちとの戦闘音が鳴り響いているにもかかわらず、カーベの位置や姿が手に取るようにわかる。
『右三』
テッドの指示が来たときには、もう身体は移動を開始している。
姿の見えない敵に対し、テッドの指示よりも早く行動を開始する。
こんな感覚は初めてだ。
驚くくらいに周りがよく見えている。
身体が軽い。
今飛んできたナイフも、やろうと思えば剣で叩き落せたのではないだろうか。
そう考えてしまうほどの好調。
もしかしたら死にかけているがゆえの最期の力……噂に聞いたことのある死の間際の覚醒というやつに陥っているのかもしれないが、それならそれで丁度いい。
この状態ならカーベを倒したあと魔物の群れを突っ切ってシフォンのもとまで辿り着くこともできるだろうし、なにより、どちらにせよカーベを倒してからじゃないと安心して回復魔法を使用してもらうことができない。
カーベは俺とテッドを狙ってやってきたのだから、この問題は俺とテッドだけで片を付けるべきだ。
――俺たちだけで敵を倒すと、そう意気込んだ瞬間。
ナイフを投げてきてばかりいたカーベの動きに、変化が生じた。
カーベの足音が、一歩、また一歩とゆっくりと近づいてくる。
『来たぞ』
《さっきテッドに近づいてあんなことになったのに、まさか近づいてくる気か?》
『わからん。だが気をつけろ。何かあるやもしれん』
みだりに剣を振り回し暴れているような様子もなく、呼吸も普通。
離れた位置からの投擲により俺たちを仕留めようとしていたことからもかなりの高確率で正気を取り戻しているカーベのおよそ理性的ではない行動に驚きながらも、もしかしたら自分がテッドに近づきすぎたせいで発狂したということに気づいていないのかもしれないと考え気を引き締め直す。
おそらくは投擲で仕留めることは不可能と断じ、捨て身覚悟で打って出てきたのだろう。
そうは思うも、何かあるやもしれんというテッドの言葉を拭い去ることもできない。
それから不安を払拭できずに近づいてくるカーベの動きを警戒すること数秒。
その間にも互いの距離は十歩、八歩、六歩と近づいていき、そして――――
――そこから先は、ギリギリの戦いだった。
覚悟を決めてきたのか、テッドのそばに寄っても正気を失わずに剣を振るってくるカーベ。
次々と繰り出されるその斬撃を避けつつこちらも攻撃するが、カーベの身に纏った防具と分厚い筋肉の壁に阻まれ中々有効打が決まらない。
互いに攻撃がかすり、かすられ、斬っては斬り返され。
たまに織り交ぜられる拳や蹴り等もなんとかかわしながらテッドの指示と研ぎ澄まされた自分の感覚を武器に少しずつカーベの肉を削っていく命懸けの作業。
剣同士がぶつかり合い、火花を散らし、肩にかすっては微かとは言い難い痛みが走り体勢を崩され、逆にカーベにはもろに胴体に食らわせたとしても体勢が崩れない。
一撃でもまともに食らえば、死ぬ。
力で劣っているため剣を受け流すことはできても受け止めることはできず、カーベの一振り一振りに全神経を集中させ続けなくてはならないという気の遠くなるような時間と一進一退の攻防を乗り越え、それでもやがて、決着の刻は訪れる。
たとえば。
カーベが疲労していなければ。
テッドの魔力に耐え、動きが鈍っていなければ。
たとえば。
神経が研ぎ澄まされていなければ。
一瞬でも気が抜けていれば。
そんな数多ある可能性をすべてねじ伏せこの手にもぎ取った、勝利の栄冠。
気負いなく静かに、緩やかに振り下ろした剣が、カーベの身体を――打ち崩した。