警戒ゆえの油断
危険なことをせずとも十分すぎるほどの衣食住を享受することができ、普通に生活しているだけであれば他人と戦う必要もない。
魔物が存在せず自ら狩りをする必要もない地球界の平和な島国で生まれたランゼのそれまでの人生において『命懸け』という言葉は無縁のものであった。
それゆえ、ランゼは背後から駆け寄ってくるクオールのものではないであろう足音に怯え、焦り、吐き気を催し、パニックを引き起こしてしまっていた。
(足音? 近づいてくる。すごい速さ。あの男? でもどうして? クオールは? 久々に友達と会って夕飯を食べていただけなのに、どうして私がこんな目に!? 怖い、コワい、こわいこわいこわいこわい……)
己が身の内を支配する強大な恐怖心に頭を侵され今すぐ意識を手放したくなる衝動にも負けずなんとか意識を切らさずにいられてはいるが、心身ともに限界が近く一杯一杯。
「わ、我願うは故国への帰還。我が故国は異界に在りし国なるは――」
(まだ? まだなの!? アイツが来ちゃう!! 早く早く早く早く早く……)
祈りを中断したとしても自分にできることは何もなくただ無惨に殺されるだけとわかっているからこそ無意味に祈りを中断させることもできず、恐怖のせいで渇いた口、唇、喉から渇いた声を出し、早口になりながらもただひたすらに呪文のように祈りを募り続ける。
それは、わずかばかりの必死な抵抗であり、わずかばかりの希望でもあった。
クオールが殺されたと思われる今の状況ではランゼには祈りの他に頼れるものは何もなく、ただ必死に生まれ故郷への帰還の成功を願い、そこに希望を託すしかなかった。
(アイツが来る前に。アイツの手が私に届く前に……早く、早く!!)
クオールを殺した思われる男がここまで来たら自分も殺される。
根拠はないがほぼ百パーセントそうなるだろうという予感からできる限り口調を早め祈りを言い続けるも、やはり祈りの言葉が足りないのかそれともそもそも祈り程度では元の世界へと帰還することなど叶わないのか、ランゼが元いた世界へと帰還できる気配は微塵もない。
もとより、たまたま生まれつき不思議な力が備わっていただけで神に仕えたこともなければ祝詞の一つも知らないランゼにとって自身の考えた祈りが正しいのか否かは知る由もなく、結果が出るまではその成否を確かめることもできない。
本当なら、初めから何の意味もないかもしれない――帰還の祈りとしては不足が多いかもしれないこんな祈りなんかさっさとやめて逃げ出したいという気持ちが強い。
しかし、それでもランゼは祈ることを止めない、止められない。
足音は近づいてくるがその場から動くことはせず、一心不乱に祈りを続ける。
帰れなけばどのみち抵抗する術はない。
戦闘など行えるはずもないランゼには祈る以外の活路が存在せず、祈りを成功させて帰還するというその小さく細い望みにかけるほかなかったのだからそれは当然ともいえるのだが……。
その場から動かず祈りを続ける。
この行動が、ランゼの生命を左右することとなった――
クオールを斬り倒した後、カーベはランゼや【ヒュドラ殺し】のもとに向かいながら思考を巡らせていた。
(白光結界を使えるようなヤツがわざわざ魔湧き中のこんな危険な場所……それも最前線でもなんでもないこんな場所に来て結界を発動するだぁ? こりゃあ絶対に何かありやがるだろ。コイツら、何をしようとしてやがる?)
女の前に横たわっている自身の獲物であったはずの【ヒュドラ殺し】とさらにその奥に見える石を積み上げた祭壇にも見えなくはない何か。
それらを見ながら女のしようとしていることがおそらくは神官たちが禁制としている人間を生贄に願いを叶える儀式――『贄の儀』だろうと推測しながら、【ヒュドラ殺し】ほどの強者を生贄に何を願おうとしているのかという疑問にぶち当たる。
(大抵のことならそこら辺にうようよいる適当な雑魚でも生贄にすれば叶いそうなもんだが、わざわざ【ヒュドラ殺し】を狙って隔離してまで叶えようとする願いってのはなんだ?)
何年も前に自身のコレクションに加えた神官から聞いた白光結界を使用できる者の希少性と贄の儀に関する記憶を掘り起こしながら考えるも、答えは出ない。
(いや、これからぶっ殺すヤツの願いなんて知ってもしょうがねぇか)
結局は女との距離が残り数メートルとなったところでさっき倒した男やいま目の前にいる女たちの為そうとしていることへの興味を振り払い、女の排除に全力を尽くそうと剣を握る手に力を込め始める。
ここは相手の張った結界の中。何が起こるかわからない。
そんな考えがあるからこその行動。
カーベは飛び道具という不確定な手段に頼らずに自身の手で女を斬り倒そうと考え、剣を振り上げた。
この時、カーベに油断はなかった。
目の前にいる女は白光結界を使える力を持つ者であり、その奥に倒れている者も【ヒュドラ殺し】と呼ばれる強者。さらには姿が見えないことから結界の外にいる可能性が高いと思われる【ヒュドラ殺し】の使役するスライムも、スライムであれば完璧に完成された白光結界を破壊し得るかもしれないと考え警戒していた。
そして――警戒していたからこそ、カーベは気づけなかった。
カーベは人間の街で生活している【ヒュドラ殺し】の連れているスライムでさえその気配を完全に消しきることができず、近づきすぎれば身体に異常が生じてしまうことを知っていた。
だからこそスライムの六メートル以内には決して近づかないように気をつけていたし、ランゼに迫った時も見える範囲にスライムがいないこととランゼが平然と祈りを続けていることからスライムは結界の外にいるのだと決めつけてしまった。
そしてだからこそ、ランゼの身体に隠れて見えなかった位置、トールの背負っていたかばんの中から這い出してきていたテッドの存在に気がつくことができなかった。
カーベが結界内にスライムはいないと判断を下してしまったのも、仕方のないことではあった。
なぜなら、この世界の生物はスライムに近づくと怯えてしまうのだから。
生物は皆、スライムに近づくと身体に異常をきたしてしまう。
それがこの世界の常識。
しかし、ランゼはこの世界の人間ではなかった。
ランゼの出身は地球界。
ゆえに、この世界の常識にとらわれない。
ランゼもトールと同じく、スライムの魔力の影響を受けない人物であった。
そして、何の心構えもなく不用意にテッドへと近づきすぎてしまったカーベはテッドの魔力に触れ――――