祈りに囚われた者たち
こちらの世界でも祈りは通じる。
ユールの街でいくつかの祈りを捧げ実際に現象を発生させることに成功したランゼはその事実に歓喜し、希望を見出す。
その希望とは、魔湧きの日。
クオールからラシュナは魔湧き間近で危険な場所であると説明を受けながらもランゼがユールを離れようとしなかった理由の一つが、魔湧きである。
地球界にいた頃から地震や豪雨、噴火、日食時など、天候や地盤等に大きな乱れが見られた時や星の並びが普段と大きく異なる時には祈りによって得られる効力が増す傾向にあった。
そしておそらくは、この世界でも何か大きな事が起こった際には願いを叶えてもらいやすくなるはず……つまり、魔物の大量発生という不思議な現象が起こる魔湧きの日にこのラシュナで祈りを捧げれば元の世界に戻れるかもしれない。
元の世界に戻りたく、自身の持つ謎の力以外に寄る辺のないランゼがそう思ってしまったのは仕方のないことであった。
かくしてランゼは魔湧きの日に自身の考え得る限り最大の祈りを捧げるため、数珠や十字架、簡易祭壇の作成や祈りの姿勢や文言の改良に乗り出す。
しかし、八日後。
ある程度の祈りの準備が終わりあとは魔湧きの日を待つ以外にほとんどやれることのなくなったランゼは本当にこれで帰れるのか、帰れなかったらどうしようなどという身を喰い尽くしてしまわんばかりの不安と寒気に怯えることとなり……さらにそこから二日後。
睡眠時間が激減し目の下にはひどいクマ、背筋を伸ばす気力もなく背中は丸まり、かつて旅した仲間の同郷の者ということでランゼのことを気にかけていただけの本来であれば何の義理も関わりもないはずのクオールが必死に元気づけようとしてくるくらいにランゼは憔悴し、十日前とは変わり果てた姿を見せてしまっていた。
そんな時だった。
ランゼの耳にトールたちの情報が届いたのは。
『この街に噂の【ヒュドラ殺し】がいるらしいぞ』
『【金眼】も来てるってよ』
『他にも強そうな奴らが何人も一緒にいたとか。それも全員美人の女ばかり……俺も一目でいいからお目にかかりてぇなぁ』
『へぇ、【ヒュドラ殺し】って女だったのか。大層な名前で呼ばれてるからてっきり男かと思ってたぜ』
『馬鹿! 【ヒュドラ殺し】は男だよ! 美人ってのは【ヒュドラ殺し】と一緒にいたっつう【ヒュドラ殺し】以外の女の話だ』
『なに!? つまりそれはハーレムってやつか!? くっそ許せねぇ』
『気持ちはわからんでもないが、相手が【ヒュドラ殺し】じゃなぁ……』
『まぁ、俺たちじゃ束になっても敵わねぇよな。なんたって【ヒュドラ殺し】だし』
祈祷師として稼いだ金を遣い少し遅めの昼食をとっていた時、近くに座っていた男たちの話し声が憔悴しきったランゼの耳に辛うじて入ってきた。
気になったのは、【ヒュドラ殺し】という言葉。
話の中で何度も登場していた【ヒュドラ殺し】というのがどうやら人の名前らしいことはわかる。
しかし「ヒュドラ」というのが何なのかわからない。
恐れられている様子がないことからして「ヒュドラ」は人間の名前ではなく、この世界に存在しているという魔物とやらの一種なのだろうとランゼは当たりをつける。
そして、閃く。
「【ヒュドラ殺し】を供物として捧げれば祈りの成功率が高まるんじゃ……」
自分でも驚くほどすんなりと口から出たのは、人間を供物に自分が元の世界に帰還するという発想。
続いて――
「うん。噂になるほど強い人物なら、きっと良い供物になってくれる。タイミングも計ったようにバッチシ。これは天啓かも……」
まるで名案とでもいうようにそんなことまで口にし始める始末。
供物とは言っているが、要は生贄である。
元いた世界に早く帰りたいと強く思い続け憔悴までしてしまっていたランゼは、他人を生贄とすることにほとんど抵抗がなかった。
わずかばかり残っていた理性や道徳観念が生贄という考えへの忌避感や罪悪感を示し、あとで激しく後悔することになるという確信もあったが、この時のランゼにそんなことを気にしていられるだけの余裕はなく、結果……魔湧き開始後に【ヒュドラ殺し】たちが使用しているという屋敷から数名分の人影が飛び立ったことを確認し追跡。
ナールに降り立ったトールに追いつき、心配だからと付き添ってくれたクオールの協力で【ヒュドラ殺し】ことトールを昏倒させることに成功した。
実際のところ、ランゼが倒れたトールへと近寄った時はクオールの咥えていた爪楊枝一本を身体のどこかに刺されただけで倒れてしまったトールを見てこれが本当に【ヒュドラ殺し】と噂されるような凄い人物なのかと思いもしたが、直後かばんの中に発見したスライムを見てクオールが張り詰めたような空気を発し始めたことから認識を改め、この少年が本当に【ヒュドラ殺し】なのかという疑問は忘却の彼方へと消え去った。
スライムを発見した直後、この世界ではスライムは最強の生物として恐れられているという話をクオールから聞いたためである。
強い魔物を連れているのであればこの少年も相応に強いはず。
そういった思考がランゼの中で行われた。
ゆえに……。
「このスライムも供物としてつかえそうね」
強者と名高い【ヒュドラ殺し】と最強の生物スライムの両方を供物とすれば絶対に元の世界へ帰れると思い込んでしまった。
残念なことに本来であればランゼの奇行を止めるべきクオールも、かつての友のため同郷の者の願いを叶えることに協力的。
何の罪もない才ある若者の未来をこのようなカタチで閉ざしてしまってよいのかという疑問もなくはなかったが、すでにトールを倒してしまったクオールに引き返すという選択肢は存在せず、ランゼに対して何かを言うこともない。
数日前から頭にモヤがかかったように思考を上手く制御できなくなっていたクオールはトールたちが供物として捧げられる前の段階であれば引き返すことも可能であるということに気づくこともなく、ただただ自分たちを包む祈りの結界の構築と一人の野蛮そうな男が遠くから駆け寄ってくる姿を眺め続け、ランゼの祈りがもたらす奇跡にその身を任せようとしていた。