原因不明の昏倒
世界最弱のスライム――テッドは、状況が理解できずに混乱していた。
自らと従魔契約を結び契約主として、友として、そして家族として生活を共にしてきたトールが何の前触れもなくその場に倒れ伏す。
足元には何もなく、攻撃を受けたということもなく、空気中にも何ら異常は見られない。
躓いたわけでも、身体に衝撃や魔法を食らったわけでも、ましてや毒素を吸い込んでしまったというわけでもなく、数瞬前までは何の問題もなく走れていたというのに、急に相棒の意識がなくなった。
いくら念話で呼びかけようとも、返事はない。
自らを起点として半径十五メートル以内のすべてを正確に感知し続けてきたテッドにとって、こんなことは初めてであった。
(我が感知できないとなればこの世界特有のモノか、魔法か。あるいは、すでに幻惑魔法をかけられている可能性もありうるな)
感知できなかったということはこの世界にしか存在しない特殊な何かを使用されたか、それともテッド自身にすでに幻惑魔法の類をかけられているか。
しかし、テッドに自らが幻惑魔法にかけられた記憶はない。
常に半径十五メートル以内のすべてを感知しているテッドにとって、魔法が飛んできたということに気づけないというミスはない。
魔法にしろ、物にしろ、魔力の塊にしろ、何かが近づいてくれば気づけないことなど今までに一度もなかった。
それが幻惑魔法などという術者が自身の魔力を対象者にぶつけなければ発動しない魔法であれば猶の事、気づかないはずがない。
(幻惑魔法だけでなく、精神支配系の魔法による記憶操作も受けているかもしれんな。だが――)
――だが、気にするべきはそこではない。
仮に精神支配系の魔法を受けその魔法や幻惑魔法をかけられたことにすら気づけていないのだとしても、それらの魔法を自力で解除することはテッドには不可能。
であれば、気にするべきは自身の感知内容と現実との間にどの程度の齟齬が生じているのか。
もし、トールが倒れたという認識が幻惑魔法によって見せられている幻なのだとすれば、トールは今も街門を目指し走り続けているかもしれない。
逆に、トールも幻惑魔法や他の魔法にかけられ、あるいは攻撃され、街門とは全く別の方向へと進んでいる可能性や既に敵に捕まってしまっている可能性もある。
殺されてしまっている可能性もなくはないが……従魔契約のつながりを感じられることからその可能性は低い。
従魔契約はこの世界には存在しないと思われる契約魔法。
そのような魔法の存在もテッドとトールがその契約によって結ばれていることも誰にも説明していないはずなのだから、まだ見ぬ術者が契約魔法のつながりを考慮に入れた幻影を作り出せるはずがない。
よって、このつながりは本物であると確信できる。
そして、つながりが消失していないのであればトールはまだ死んでいない。
(しかし、トールが倒れていた場合はどうするのがよいか……)
問題なのは、トールが倒れたという結果が敵から見せられた幻でもなんでもなく純然たる事実であった場合。
これが幻惑魔法等なんらかの魔法効果によって感知した内容と現実との間に乖離があり、実はトールは倒されていなかったというのであれば何も問題はない。
しかし、トールが本当に地に倒れ伏していた場合は面倒なことになる。
まず疑いようのない事実として、テッドは単体では行動できない。
移動が遅く、力も弱いテッドは他者の助けなくして行動できず、その魔力に触れた相手を怯えさせるという特性を得た今においても三メートルよりも外から攻撃を仕掛けてくる魔物や敵が近くにいるこんな状態では迂闊にかばんから出ることすら叶わない。
持っている攻撃手段も、消化と粘着の二つしかないのが致命的。
前者は自身のカラダで相手のカラダを覆い、その部分を消化する攻撃。
後者は相手の鼻や口、場合によっては体内に潜り込み喉や肺に張り付き、相手を窒息させるという攻撃。
どちらも相手の動きを封じていなければ不可能な芸当であり、また、相手が一人ないしは一体の場合にしか使用できない技である。
ゆえに、トールが倒れていた場合にテッドがとれる策としてはかばんの中に身を隠してこの場をやりすごす方法か、相手が近づいてきた瞬間にかばんから飛び出し相手を怯えさせ、その隙に相手を消化あるいは窒息させるという方法が考えられるが、かばんの中に身を隠す手段を選べば遠距離から魔法かなにかでかばんごと攻撃され殺されてしまう可能性があり、かばんから飛び出して相手を攻撃という手段を選べば敵が複数いた場合や魔力に触れた相手が怯えてその場に蹲るのではなく発狂して暴れだしてしまった場合に攻撃を与えている相手とは別の敵から攻撃されてしまったりそもそも敵の身体にとりつけなかったりという可能性が生じてしまう。
そして今回の場合、敵は複数いると考えた方が良い。
先ほどまで戦闘を行っていた男が追いついてくるにしては早すぎるため、トールを倒した相手は無数の武器を投擲し続けてきた先ほどの男の仲間か、あの男とは何の関係もない別の存在と考えられ、いずれにせよゴブリンを追って行った先ほどの男がこちらに向かってくれば最低でも一対二。
他にも、自分たちに関する噂が出回っているということやスライムがこの世界では最強の存在ということを考えれば離れた場所に何人もの仲間を配していたとしてもおかしくはない。
かばんから出て攻撃を試みても対処されてしまう可能性が高く、かばんの中にいても危険。
いくつかの魔法玉がかばんの中に存在しているが、たった数個の魔法玉だけで敵をどうにかできるわけもない。
さらに、現状考え得る中で特に厄介なのが実は幻惑魔法も精神支配系の魔法もかけられていなかった場合。
幻惑魔法のような精神干渉系の魔法や記憶操作を行えるような精神支配系の魔法をかけられていなかった場合、敵は十全に警戒していたテッドの感知をすり抜け、その上でトールに何らかの攻撃を行ったということになる。
つまり、感知不能の謎の攻撃。
対処をするしない以前の問題。対処法を考えることすらできない。
もしその攻撃を連続で行えるのであれば、テッドたちに対処する術はない。
(精神支配系の魔法は人魔界のものと同じ法則であれば精神支配系の魔法をかけられていると気づいた時点でその効力を失っている。記憶をいじられたかどうかもしばらくすればわかるだろうが……)
対象者が魔法を受けていることに気づいてもその状態から抜け出すことが難しい精神干渉系の魔法とは異なり、精神支配系の魔法は対象者が魔法をかけられていると気づけばその時点で魔法としての効力を失い、支配されていた間に行われた記憶の改竄等も徐々に改竄前の状態へと戻っていく。
それが人魔界で使用されていた精神支配系魔法の法則であり、この世界の魔法もこれと同じ法則で発動されているのであれば時間経過によって魔法をかけられたか否かが判明するかもしれない――テッドはそう考えるが、しかし……。
「こいつがあの【ヒュドラ殺し】? 随分と呆気なく倒れたけど……別人なんじゃないの?」
しばらく様子でも見ていたのか、トールが倒れ伏したまま起き上がってこないことを警戒しながらトールに対し攻撃を行ったと思われる一人の女が接近してくる。
女の二メートル後方には女の質問に首を振ることで答える寡黙な男の姿も。
その距離、テッドから十四メートル、十三メートル、十二メートル…………。
(魔法をかけられていたか否か、それを確かめられるだけの時間はなさそうだな……)
徐々に近づいてくる気配。
これも幻惑魔法の一種でないのであれば、おそらくは命の危機。この二人も我々の力欲しさに寄ってきた者たちであろう。
テッドはそう判断を下す。
夜闇の中、悠然と歩み寄ってくる女と男。
トールが倒れているのか否か、自分たちに魔法がかけられているのか否かもわからぬまま、トールとテッドのもとに男女の二人組が接近しようとしていた。
そして、その頃。
トールとテッドがカードコレクターや謎の二人組に狙われ危機に陥っていた頃、要塞都市一の街と二の街、ラールとシールにも問題が発生していた。