五十七日ぶりの帰還
上空から見下ろす、もう見慣れてしまった城壁のない大きな街。
約六十日ぶりに目にしたリカルドの街に、この上ない安心感を覚える。
「やっと、帰ってこれた……」
無意識に口から漏れ出た言葉は紛うことなき本心。
ベールグラン王国での討伐軍の手伝いを終え、トーラやテトラたちとも別れ、やっとのことで戻ってくることのできたリカルドの街。ここまで来るのは極めて大変だった。
無駄に魔力を消費したくないという至極もっともな理由で魔術の行使を渋るノエルに対し、浮遊魔術を使用してくれと頼み込むこと十日以上。
その間、ベールグラン王国からカナタリ領近辺に辿り着くまでの十数日を馬上で過ごし気分を悪くして、そこまで言うなら自分で浮遊魔術をつかえるようになりなさいよとノエルから浮遊魔術の原理を教わるもそれを実行するだけの腕前もなければそもそも馬酔いのせいで体力気力ともに不十分。激しい頭痛や眩暈が起きるほどの気持ち悪さから解放されるためにこれでもかと頼み込んでついに根負けしたノエルから浮遊魔術をかけてもらったのが昨日のこと。
さすがにたった二日弱では体調が全快するところまではいかなかったが、なんとか周囲の景色を見る余裕ができるくらいまでには回復した。
眼下には、それぞれ一頭ずつ馬に跨り並走しているフィナンシェとノエルの姿。
ノエルは平然と行っているが馬を操りながら他人に浮遊魔術をかけ続けるなんて芸当、普通はできない。
浮遊魔術はその性質上、常に対象に魔力を送り、魔術を行使し続けなければならない。
それには大変な魔力操作技術と集中力が必要である上、対象の現在位置を正確に把握しておく必要もある。
ゆえに、魔術を行使し続けながら速度の速い馬に乗るなどという行為は常人には不可能。
馬も操れなければ浮遊魔術もつかえない俺ではその難しさを想像することしかできないが、おそらくノエル以外の魔術師がそれをやったら自殺行為と呼ばれてもおかしくないほどの離れ業なのではないだろうか。
しかも、この二日間ノエルはほとんど頭上を見上げていない。
魔術を行使する対象である俺のことを視認すらせずに難易度の高い浮遊魔術を使用できている理由は、ノエルが高い魔術制御技術を持っているからだろう。
自分の魔術の腕前に対し強い自信がなければこのようなことはできない。
もしかしたら、俺なんてどうなってもかまわないという考えのもと放置されているだけかもしれないが……たとえそうであっても現に今、俺はフィナンシェやノエルのほぼ真上を飛ぶことができているのだから何の問題もない。
おそらく、対象を視認することなく魔術を行使できるからこそ余所見をする危険が減り、魔術を行使しながらでも馬を走らせることができるのではないだろうか。
とにかく、馬を操りながら浮遊魔術までかけ続けてくれているノエルには頭が上がらない。
フィナンシェもリカルドの街への到着が遅れることを承知の上で浮遊魔術の速度に合わせ比較的ゆくりと走ってくれているし、街に着いたら二人に何かお礼をした方がいいかもしれない。
フィナンシェへのお礼は何か美味しいモノをあげればいいとして、ノエルには何がいいだろうか。
二人へのお礼について考えながら前方の街に目を向けると、再びの安心感とともに、この数十日での苦労が思い起こされる。
リカルドの街を離れていた期間は数十日であるはずなのに、まるで数百日ぶりに帰ってきたような気さえする。
ギルド長からヒュドラのことを告げられ、ノエルがパーティを抜けて。
四十日にも及ぶ馬での移動、ヒュドラとの戦い、ノエルとの仲直り。
ベールグラン王国に向かってからここに戻ってくるまで、本当に長く苦しい日々だった……。
今回の一番の目的であったノエルとの仲直りが思いの外あっさりとすんでしまったからか、仲直りが楽だった分、余計に他の二つが大変な苦行だったように感じられる。
「下ろすわよ」
リカルドの街を眺めながらこの五十日余りのことを思い返していると、ふいにノエルの声が聞こえ、身体が地面に近づいていく。
風属性魔術を使用して届けられたノエルの声によって意識が深い疲労の闇から引き戻されると、いつのまにかリカルドの街がだいぶ大きく見えるようになっている。
地面に近づくにつれ、徐々に強まっていく草の匂いが懐かしい。
土の匂いもベールグラン王国や他の国のものとは少し違う。
「この匂いをかぐと帰ってきたという実感が湧くな」
『そうなのか』
なんとなく呟いてみたが、やはり嗅覚のないテッド相手では共感は得られない。
というか、自由気ままに生きているテッドには郷愁のような感情が理解できないのかもしれない。
テッドのことだ。きっと、生きていける場所でさえあればそこがどんな名前の土地かなどということは気にしないのだろう。
「どう? アタシの浮遊魔術の感想は」
「最高だったぞ」
「当然ね。もっと感謝して、アタシを尊敬しなさい」
地面に足がつくと、着地点のすぐそばで馬から下り俺の到着を待っていたノエルから声をかけられる。
なんだかよくわからないが、浮遊魔術の感想を言った俺に対し誇らしげに胸を張りながら右手で横髪を軽く払う姿はいつもよりも上機嫌。
先ほどまでフィナンシェと近い距離で並走していたし、二人で何か面白い会話でもしていたのだろうか?
『街に着いたのか?』
《いや、ここから十五分くらい歩く。着いたらちゃんと飯を買ってやるから安心しろ》
『わかった』
テッドから飯の催促をされ、フィナンシェからはノエルと二人で何を話していたのかを聞かされながら、久々にこの辺りを歩きたいと適当なことを言いつつ馬に乗らずに歩いて街まで向かう。
久しぶりに入ったリカルドの街は、数十日前となんら変わらぬ活気を見せていた。