ノエルの葛藤
コンコンッと、扉をノックされる音に起こされる。
フィナンシェとテトラには朝まで寝ると伝えてから寝たはず。
夕食もいらないと伝えているから夜に誰かが訪ねてきたとは考えにくい。
もう朝食の時間だろうか?
《テッド、起きてるか? 今は――》
『早かったな。まだ二時間くらいだぞ』
テッドに時刻を聞こうと思い、返ってきたのは二時間という答え。
何が、とは聞き返さない。
二時間というのは俺が寝てから経過した時間のことだろう。
《ということはまだ夜か》
『そうなるな』
もう朝になったのかと思って起き上がったが、違ったようだ。
朝食の時間を伝えに来たというわけではないのなら誰が何の用で来たというのだろうか。
「トール殿、起きているか?」
扉越しに聞こえてきたのはテトラの声。
「ノエルちゃんに会いに行くよ!」
続いて、フィナンシェの声。
寝起きでぼーっとしてしまっているため今一つ状況を理解できていない部分もあるが、フィナンシェの発言を考えると、どうやらノエルが目を覚ましたらしい。
トールの放った特大の浄化魔法によって命を救われたノエルはしばらくその場に立ち尽くし、呆然としていた。
ヒュドラからの最期の抵抗。避けようのない毒の雨。
一滴一滴が強力で、人体など一瞬で骨まで溶かしてしまう毒。
その毒が眼前に迫った時、ノエルは死を覚悟し静かに瞼を下ろした。
直後、瞼の裏を映しているはずの視界が白く染まり、身体に何かが当たる感触。
段々と全身の感覚が鈍くなっていくような気さえして、これが死なのねと何の抵抗もすることなく全てを受け入れた。
しかし、白く染まっていた視界が落ち着きを取り戻しても、身体に当たった毒の感触が感じられなくなっても、いつまで経っても意識が失われない。
そのことを疑問に思い瞼を上げた時、そこにあったのは毒が降る前と変わらぬ景色だった。
ノエルは不思議に思った。
まるで空から海が降ってきたかのようなそんな禍々しくも凶悪な毒の塊が自分を呑み込んだはずなのに、生きている。
なくなったと思った全身の感覚も戻ってきている。
ヒュドラの姿もない。
本当にまだ生きているのか。
生きているのなら視界を埋め尽くすほど大量にあったあの毒はどこへ消えたのか。
自分の両手を見て、両足を見て、次いで周囲や空を眺めるも答えは出ない。
唯一わかったことは、自身の頬を何か熱いモノが伝っているということ。
それが涙だと自覚した時ノエルはその場に座り込み、はじめて自分が生き延びたのだと実感した。
ノエルがヒュドラと毒の消えた真相を知ったのはそれから五分後のこと。
トールやフィナンシェと共に古城に向かっていた部隊のうち数名が各部隊への伝令役を承り、古城で戦っていたノエルたちの元にも【ヒュドラ殺し】が毒を消しヒュドラにトドメを刺したという情報が届けられた。
兵士たちは口々に【ヒュドラ殺し】への感謝と称賛、そして生きている喜びを叫ぶ。
力を使い果たし気絶してまで自分たちを救ってくれた英雄がもうすぐこの場に来る。
そのことを聞いた兵士たちが英雄トールを迎えるために付近の片付けと戦後処理を始めた中、トールやフィナンシェと顔を合わせ辛いと感じていたノエルだけは何とも言えない表情のままその場を去ることになった。
与えられた自室、ベッドの上。
古城の方角に身体を向けるようにして横になりながら、ノエルは呟く。
「あの伝令は【ヒュドラ殺し】と【金眼】が駆けつけて【ヒュドラ殺し】の魔法のおかげで毒が消え去ったと言っていたけれど、そんなことが可能なのかしら?」
純粋な疑問。
もし自分の魔力が全快だったとして、その魔力全てを全力で聖属性魔術に注ぎ込んだとしても、トールが消した毒の範囲の何百分の一の範囲の毒を消すので精一杯。
十数メートル四方の毒を消すことはできても、何百メートル四方をも覆っていたあの分厚い毒の海を完全に消し去ることなど不可能。
そもそも聖属性魔術や聖属性魔法では毒の成分を抜くことはできてもヒュドラの毒そのものを完全に消滅させることはできない。
事実、ノエルがヒュドラの毒に向かって聖属性魔術を使用していた際には毒を浄化した跡にどろっとした白い液状の何かが残っていた。
つまり、ヒュドラの吐き出した毒には人体に無害な、聖属性魔法では排除しきれない何かが含まれていたはずなのに、トールの放ったという魔法はその何かすらも完全に消し去っていた。これはおかしい。
視界が白く染まったのも重みや疲労を感じなくなったのも戦場に充満していた嫌な匂いが消え去ったのも、すべてアイツの発動した魔法が原因。
規模も、効力も、何もかもがデタラメな魔法。
魔法や魔術に詳しいノエルだからこそトールの発動した魔法の異常さをより鮮明に把握することができ、震えた。
トールの発動した魔法によって自分が救われたと知った時、ノエルの頭に真っ先に浮かんだのは喜び。
自分の認めた男が偉業を成したのを目の当たりにして「やっぱりやるじゃない!!」と胸を熱くするほどの喜びと対抗心が湧き上がった。
次に浮かんだのは尊敬。
まだ見ぬ威力と規模を持った魔法。自分では到達しえないかもしれない魔導の真髄。
それを見せてくれたことと、そんな理解の及ばない圧倒的な力を毒が地面に落ちるまでの限られた時間の中で発揮できるだけの実力を持っていることへ、尊敬と憧れを抱いた。
どうしてこの場にいるのかという困惑や一度断ったくせに何をしに来たのかという憤り、見限った男に助けられたという屈辱。それらを感じたのは、喜びと尊敬を抱いた少し後のことだった。
「笑っちゃうわね」
危険だからとヒュドラ討伐を断ったトールからの忠告を聞き入れることもせず勝手に飛び出し命の危機に陥り、その命の危機を忠告をくれたトール本人に救われた。
臆病者だと侮り軽蔑していた男の言うことはひどく正しく、間違っていたのは自分だった。
結果を残したのも、名を上げることになったのもトール。
自分なりに世界一の魔術師を目指して頑張ってみたが、功績でも魔法の腕前でもトールに劣っていた。
その事実を受ければ、ノエルは自嘲するしかない。
後悔と、憧れと、困惑と。
様々な感情が混在したままノエルは数時間の時を過ごした。
変化が起きたのは日暮れ前。
「魔術師殿、トール殿とフィナンシェ殿が面会を希望しておられます」
扉の外から聞こえてきたそんな声に、心が大きく揺さぶられる。
感謝はしている。謝罪もしたい。
しかしあのような別れ方をしておいてどのような顔をして会えばいいのか。
自分が部屋に籠っていることは知られている。
返事をしなければ怪しまれる。
数十秒。ノエルはトールとフィナンシェの二人と会うことに踏ん切りをつけられず、悩み慌てた。
その内に、ノエルを呼びに来た護衛騎士はノエルは寝ているものだと判断し、そのまま部屋の前から去っていってしまった。
部屋から遠ざかっていく護衛騎士の足音に緊張しながら、ノエルは自分の気持ちに整理をつけ始める。
ノエルが感情と思考の整理を終わらせトールとフィナンシェを部屋に招いたのは、その二時間後のことだった。