命の張り損?
リカルドの街からベールグラン王国まではどんなに急いでも二十日かかる。
そして当然、移動手段は馬。
それを聞いた時点でわかってはいたが、これは予想以上にキツいかもしれない。
馬の背の上、口からこぼれ出たよだれが頬に一筋の線を残しながら高速で後ろに置き去りにされていった……ような気がする。
《気持ち悪い》
『またか。いい加減慣れろ』
テッドから言われずとも、俺だって慣れられるものならそうしたい。
しかし、俺の身体は相変わらず騎乗というものに順応してくれない。
こうして馬に揺られているだけであっという間に気分が悪くなる。
口の中は渇き、考える気力も湧かない。
頭はぼーっとしてしまっているし、何も考えたくない。
しかし、何か考えでもして意識を逸らしていないと胃の中のモノをぶちまけてしまいそうな気がする。
というより、今の俺の状態はどうなってしまっているのだろうか。
おそらく目は半開き。口も開いているな。
頭は左肩に耳が接するくらい傾いてしまっているか?
少しでも気を抜くと身体が後ろに引っ張り倒されそうな感じもする。
それと、音がうるさい。
馬が地面を蹴るたびにその振動で開いている口が強制的に閉じられ、また開く。
それによってガチッ……ガチッ……と定期的に鳴らされる歯と歯のぶつかり合う音がうっとうしい。
口を閉じようにも顎に上手く力が入らないし、口内から頭に直接響き渡ってくるせいで回避のしようがない。
耳を塞ぐ力なんて残っていないが、もし耳を塞げたとしてもこの音は確実に聞こえてくるのがわかる。
とにかくうるさい。
口の端から頬を伝っていったよだれの痕も地味に気になる。
馬の脚が速いせいで正面からくる風は強い。
その風によって冷やされたよだれの痕が妙に冷たく感じられて意識がそこに持っていかれる。
よだれの痕のことなんて考えたくないのに気がつくとそこに意識が向いているのが嫌な具合に心に残る。
歯のぶつかる音や頬に残る一筋の冷たさ、馬から伝わる振動。
そのうち、それらによって蓄積された不満が原因で気が狂ってしまうのではないかと思えてしまうくらいにはどれもこの気持ち悪さを助長してくれてしまっている。
《ノエルの浮遊魔術があればこんなことには……》
『今回は火急の用だ。どのみち馬に乗ることになっただろうな』
《……そうだな》
ノエルの浮遊魔術での移動よりも馬の方が速いからな。
ヒュドラはもう暴れまわっているというのに浮遊魔術でゆっくりとベールグラン王国まで移動する、なんてことにはならないか。
こんなことならノエルを追いかけようとなんてしなければよかった。
気持ち悪さのあまり、そんな考えが浮かんでしまう。
ノエルとのあの別れ方は嫌なモノだったし、もう二度と会えなくなる可能性もあった。
だから追いかけることに決めたが、よく考えるとわざわざ死地に赴くような真似をしてまで追いかける必要があったのかとも思う。
命を救われた恩には命をもって報いる。
そう考えて出発したはいいものの、ベールグラン王国にはすでにトーラや護衛騎士たちが向かっているという話だし、そもそも俺が行ったところで何の役にも立てない。
トーラたちなら危なげなく六つ首のヒュドラを討伐できるだろうという思いもある。
もちろん、危なげなく倒せるのだからノエルに危害が及ぶこともないだろう。
ゆえに、なおさら俺が命を張る意味があるのかと思ってしまう。
今回のヒュドラを逃せば、ノエルの足取りはわからなくなる。
早く仲直りをしたいのであればヒュドラのもとに向かうしかない。
それは確かだろう。
しかし、今すぐでなくてもいいというのならノエルと再会することは難しくない。
なにせ、ノエルの実力は高い。
今ですらそこそこの知名度があるみたいだし、数年もすれば世界一の魔術師とまではいかないまでも、かなり有名な冒険者として名を馳せることは間違いないだろう。
そうすればノエルの居場所も簡単に知ることができるようになるはずだ。
そのときには関係が修復できないほどに溝が深まってしまっているかもしれないが、再会の機会が全く望めないというわけではない。
俺とノエルはわざわざ追いかけてまで仲直りしたいと思うほどの仲だったかという疑問もあるが、命の賭け損になりそうなのが一番嫌だな。
とはいっても、もうベールグラン王国に向かって走り出してしまっているし、フィナンシェもいまさら止まる気はないだろう。
それに、そろそろいつもの気絶が来そうだ。
ついさっきまではいい感じに考え事に集中できていたおかげでほんの少しだけ気持ち悪さも薄れていたが、その集中ももう切れた。
《テッド、俺が馬から落ちそうになったらフィナンシェに合図をたの……む…………》
やばい。もう無理……。
上半身を勢いよく起き上がらせるとともに意識が浮上する。
「ぶはぁッ、はぁー、はぁー……」
最悪の寝起きだ。
まだ頭に変な感じが残っている。
……いや、起きても気分が悪いままなのはいつも通りか。
気絶する直前の夢でも見ていたのだろう。妙に息苦しい。
跳ね起きたせいで鼓動も早く、寝汗もすごい。
それに、一気に動いたせいで眩暈が……。
『気分はどうだ?』
《最悪だ。眩暈がする》
テッドとのこのやりとりももう何度目だろうか。
馬に乗るたびにしている気がする。
《ベッドの上、ということは今夜泊まる町には着いたのか》
『予定していた町かどうかはわからんがな』
まぁ、ここが出発前に宿泊場所として予定していた町かどうかなんてテッドにはわからないだろうからな。それは仕方ない。
フィナンシェに訊けばわかるだろうが、フィナンシェは……いないか。
じゃあテッドに訊くか。
《俺が意識を失ったあと馬の速度は緩められたか?》
『いや』
《走った時間は?》
『六時間だ』
《なら予定通りのはずだ》
テッドとの問答の結果、予定通りの距離を進むことができているだろうということがわかった。
確実とはいえないが、おそらく予定通りの町に到着している。
俺の気分が悪いこと以外は順調な旅路だ。
それにしても、今回は馬に乗ってから気絶するまでの時間がいやに長かったな。
俺の身体も少しは乗馬に慣れてきたのだろうか。
……とはいえ、慣れたといっても今のところは気持ちの悪さを感じる時間が今までよりも長くなっただけだけでむしろ悪化したともいえる結果。なんというか、素直に喜べない。
そのうち乗馬しても気分が悪くならなくなる日が来たりするんだろうか。
そうなれば手放しで喜べるんだが。
というか、まだ初日なんだよな。
これが最低でもあと十九日続くとか、ベールグラン王国に辿り着くまえに死ぬんじゃないだろうか、俺。