アッセ・スレッド(2)
今回、文量多めです。
女を攫うことには成功したアッセ。
あとは依頼人への引き渡し時間に指定された場所まで女を連れて行くだけ。
そう考えていたアッセだったが、アッセは気付いていないことがあった。
これまで標的をカード化して捕まえていたアッセは生身の人間には生理現象というものがあることを忘れていた。
床に寝かせられた女と、その女が逃げないよう監視するアッセ。
二人が部屋に入ってからしばらくすると女の様子に変化が起き始めた。
眠くなったというわけでもなさそうなのに意識が朦朧としているように見え、呼吸もどこか苦しそう。
女に起こった異変にアッセは困惑した。
部屋は綺麗とは言えないまでも最低限の掃除は行き届いている。
動けないように操糸魔法で腕と脚の自由は封じているが身体に異常をきたすほど強く締め付けてはいない。
口も同様に、苦しくなるような封じ方はしていない。
寝かせ方も至って普通。
ひどい扱いはしていない。
それなのにどうして女は苦しそうにしているのか。
考えてもわからなかったアッセは原因を調べるために女に近づき、そして思い出した。
脱水症状。
子どもの頃、村を追い出されてからの数年で何度か経験したことのある身体の異常だった。
他人が脱水症になる姿を見たのは初めてだったため気付くのに時間がかかってしまったが、その苦しさは知っている。
アッセはすぐさま女の口を封じていた糸を解除し、近くにあった水差しから女へと水を飲ませた。
もう何度か水を飲ませる必要があるかと思い、女の口を自由にしたまま様子を見守ることにしたアッセ。
女に水を飲ませてから少しすると女の口が動いた。
「お手洗いに行かせてもらえませんか?」
「……いいだろう」
少し恥ずかしそうに頬を染めながら、しかしはっきりと言い切った女。
女の言葉を聞いたアッセは少し思案した後その懇願に許可を出した。
他人に関心はないものの人並みの配慮はできたアッセは女の身体を縛り付けている糸をすべて解除し、逃走防止のために新たに一本の糸を女の腰に巻き付けると、女を厠に案内したあと厠から少し離れた位置で女が出てくるのを待った。
その後、何事もなく部屋に戻ったアッセと女。
すぐに女の手足を拘束しようとしたアッセだったが、女から「私は逃げません。ですので、手足はこのままにしていただけませんか?」と言われ、少し考える。
最終的に、手足を拘束せずとも女を逃がすことはないと判断。
女が逃げようとしたら即座にカード化することを条件にその申し出を受け入れた。
それからしばらく、床の上に直接座ってじっとしている女をただただ眺め続けるだけの時間が過ぎた。
手足を自由にするついでに口も拘束せずにいたアッセは自由になったその女の口から何か言われるのではないかと思っていったが、予想に反して女はアッセを非難することも、助命を嘆願することもなかった。
目を閉じたり、アッセに観察するかのような目線を向けたり。
女が動かすのはその綺麗な目のみ。
身動ぎ一つしない女からじっと見つめられたアッセは、何故か負けじと女の目を見つめ返した。
女はベールグラン王国騎士隊第三騎士団長の娘であった。
騎士団長の他に子爵の肩書も持つ女の父は国より与えられた自領にて狼藉を働いていた悪徳商会を摘発したばかり。
女の誘拐は盗賊と関わりを持っていたその悪徳商会の残党がアッセに依頼したものだった。
父から最低限の護身術とこういったときの立ち回り方を教わっていた女であったが、そのほとんどを実践することができずにいた。
一目見てアッセの実力が自分の実力よりも遥か高みにあることを見抜いた女は、何を考えているのかわからない寡黙かつ無表情のアッセを見て恐怖を抱いていた。
無理をしてアッセに二度、強気な発言をしたその裏では、「何をされるかわからない、これからどこへ連れて行かれどんな目にあわされるだろうか」と不安と恐怖からくる震えを抑え、泣き出しそうになっていた。
「ぅあ……」
一向に何も話そうとしない女の本心を知りたくなり、口を開こうとするアッセ。
しかし、コクーンが死んでから五年以上。
その間、アッセは自分から誰かに話しかけた経験がなかった。
いつも相手から話を振られるのを待っていたアッセは何を言っていいのかわからない。
他人への質問の仕方など疾うに忘れ、なぜ女の本心を知りたくなったのかもわからない。
未だに自身の中にある女への不思議な感情の正体を掴めていないアッセは、どうして声など出そうとしてしまったのかと自問自答する。
「貴方、何者?」
シンとした室内の中、かすかに震えた女の声。
アッセの声にもなっていない音を聞いた女はこれをチャンスと見て思い切ってアッセに話しかけた。
「アッセ・スレッド」
「……っ! そう。アッセさんと言うのね」
問いかけから二秒ほどのち、アッセが答える。
上手く働いてくれない頭でアッセが作ったこのきっかけを逃してはいけないとなんとか絞り出した質問。声に出したあと我ながらなんてバカな質問をしてしまったのだろうかと思っていた女はまさかその質問に返事がくるとは思っておらず、衝撃を受けた。
驚きながらも相手との会話が成立したことに小さな希望を見出す女。
女の質問はまだまだ続く。
「貴方はどうして私を攫ったの?」
「仕事だからだ」
「貴方に仕事を頼んだ人の名は?」
「知らない」
「その人の容姿は?」
「たるんだ身体と憎しみのこもった目。鼻の上に切り傷」
「私はこれからどうなるの?」
「知らない」
「貴方はどうしてこの仕事をすることになったの?」
「冒険者をしていたらいつの間にかこういった依頼も来るようになっていた。あとは成り行きだ」
「心が痛んだりしない?」
「………………どういうことだ?」
「……そう。そういう生き方をしてきたのね」
「お前には心がないのかと、たまに言われる」
「心を学びたいとは思わない?」
「わからない」
アッセの返答は簡潔。
感情の乗っていない声で返事をし続けるアッセに思うところがあった女は途中から優しい声を出すようになっていた。
初めアッセに感じていた恐怖は何処へ行ったのやら、アッセが人の心に疎い悲しい人だと思い始めてからは親を失ったばかりで戸惑っている子供に向けるような慈愛の目と心を持ってアッセに接した。
アッセ・スレッド。
女もその名には聞き覚えがあった。
以前父から話を聞かされ記憶の端に留めていた程度だったが、希少な操糸魔法の使い手で悪事にも手を染める強い者がいるというその情報はアッセの名前を聞いてすぐに思い出した。
自身を拘束するためにアッセがつかっていた魔法を思い出せば目の前の男が偽名を使ったわけではないとすぐにわかる。
アッセは凄腕。さらに、情がない。
請け負った依頼はきっちりとこなす。
アッセが嘘を言わずに自分の質問に答えたこととその後の問答の内容から、アッセが自分を助かることはないと悟った女は、なぜだか妙に清々しい気持ちで自分の人生に諦めをつけることができた。
この世界ではカード化の法則のせいで自殺することができない。
今後、自分がどのような目にあうのかと想像しながら女は引き渡しの時を待った。
一方、アッセは女との会話に懐かしさを感じていた。
初めは硬く、怯えたような声を出していた女。
しかしその声音は段々と我が子を慈しむ母のような声音へと変わっていった。
もともと、その女に母を感じていたアッセ。
女のその優しい声音に、アッセは久方ぶりに母と会えたかのような錯覚を持った。
そして、気付く。
女を攫ってからずっと感じていたこの不思議な感情の正体は、『愛』というものではないかと。
一年前、女を見かけた時に生じた小さな変化。
その変化が大きな確信へと変わる。
女と会話したこの時から、アッセの中にあった小さな変化が大きな変化へと成長し始めた。
アッセの中で何かが変わり始めた後、女からの質問が止まったことをきっかけに再び静寂が部屋を支配した。
その後は一言も発することなく約束の時を迎えたアッセと女。
アッセが女を連れて約束の取引場所まで向かった時にはすでに依頼主と盗賊たちがアッセの到着を心待ちにしていた。
どうして女がカード化されていないのかと疑問に思いながらも約束通りアッセに報酬を支払い、女を受け取った依頼主たち。
その依頼主たちの身体が、一斉に二つに切り裂かれた。
切り裂いたのはもちろんアッセ。
極限まで硬くした超硬度の糸を巧みに操り、女以外のその場にいたすべての者を一瞬で切断した。
「……え?」
辺りに漂う血の匂いと一瞬でカード化した盗賊たちに驚きながら、女が声を出す。
「俺が依頼されたのはお前の引き渡しまでだ」
背後から聞こえてきた、まるで「その後のことは知らん」とでも言うようなアッセの言葉に未だ事態に頭が追い付かず戸惑う女。
アッセ自身も自分の行動に少し驚いていた。
しかし、今度は自分の行動の意味がわかっていた。
アッセはその後、女の父――ベールグラン王国騎士隊第三騎士団長の協力もあり、贖罪という名目でベールグラン王国に忠誠を誓うこととなる。
国への忠誠を誓ったのち、その実力と能力を考慮されアッセが配属された部隊は隠密部隊。
主に表沙汰にはできない仕事を請け負う特殊部隊であり、命令さえあれば人攫いだってやってのける。
今回アッセに下った命令は『【ヒュドラ殺し】の確保』。
ベールグラン王国が交渉もせずに強引な手段でトールを攫おうとした理由は多々あるが、その詳細をアッセは聞かされていない。
アッセが聞かされたのは【ヒュドラ殺し】を国まで連れてくるという任務内容と絶対に失敗してはいけないという言葉のみ。
国のため、今回の任務のために用意されたというモラード国の兵装に似た見た目の着慣れない鎧に身を包み、討伐作戦に参加した。
サルラナの町出発前、トールが見かけた鋭い眼光を持つ男。
討伐作戦のために他国から集まった三十二人の内のその一人こそが――アッセ・ブレッドだった。
標的である【ヒュドラ殺し】を担ぎながら走るアッセ。
彼は全力で移動しながらもフィナンシェとノエルを警戒して至る所へと罠を仕掛けていた。
無論、逃げる方向にばかり罠を作ったのではそちらへ移動したと教えることになってしまう。
ゆえに、アッセはあらかじめ逃走経路以外の場所にも罠を張っていた。
ダンジョンまで逃げてきてから朝になるまでの間、トールたちはほとんど移動しなかった。
そのため、罠を仕掛けるのも容易だった。
走るアッセの遥か後方ではアッセの張った罠に苦戦してなかなか先へと進めないフィナンシェとノエルの姿がある。
糸ばかり用いて罠を作ると犯人が操糸魔法の使い手とバレてしまうおそれがあるため、糸の存在がわからぬよう適度に偽装された罠の数々。
その罠にかからないよう注意しながらアッセの進行方向とは別の方向へと進んでいくフィナンシェたちとトールとの距離はどんどん開いていく。
トールは自身の実力ではこの男から逃げることはできないと感じながら精一杯の抵抗をしつつフィナンシェたちが助けに来ることを期待していたが、当のフィナンシェたちは見当違いの方向へとひた走っている。
その道の一流のプロを相手に、フィナンシェたちの救援は望めなかった。
状況は絶望的。
このままどことも知れぬ場所へ連れ去られるしかないのか。
アッセのことをカードコレクターだと思っているトールは自身が殺されてしまう可能性を頭によぎらせ、震えあがった。
それと同時にピンとひらめく一つの策。
トールはかばんの中にいるテッドに念話を送りながら自身の右手にメルロが握られたままであることを確認した。
腕を動かすことはできないが、手首を動かすことはできる。
トールにとって、その事実は一縷の望みをかけるに値するものだった。
《テッド!》
トールの叫びに応じてテッドがかばんから飛び出す。
テッドの存在を知らなかったアッセは突然現れたスライムの魔力に無防備な状態で曝され、動きが止まる。
力の抜けた肩と腕の間からするりと抜け落ちるトールの身体。
急速に地面へと近づいていく視界の中、トールはメルロにありったけの魔力を注ぎ込む。
伸びるメルロ。
その先へ何かを投げ込むテッド。
伸びきったメルロがテッドの投げた何か――カスタネットとぶつかり、大地を震わすほどの大音響が響き渡る。
縛られているため耳を塞ぐこともできず、あまりのうるささに失神するトール。
アッセは身体が前方へと崩れ落ちていくのを感じながらも辛うじて耳を塞ぐことに成功。
隠密部隊としてあらゆる状況を想定した訓練を受けていたためなんとか意識を保つことができた。
しかし直後、アッセの身体に何かが突き刺さる。
自身に何が突き刺さったのか、、何が起きているのかわからずに四方八方から飛来してくる何かに次々と身体を刺されていくアッセ。
すでに地面へと落ちていたトールは飛来する何かから免れている。
トールがカスタネットを鳴らしたその場所は、オンサシビレ草の群生地。
人魔界でオンサシビレ草と呼ばれていたその草はこの世界でもオンサシビレ草と呼ばれている。
そして、音の大きさに比例した強さの麻痺毒を生成しながら音の発生源に向かって飛んでいくというその特性も――まったく同じだった。