アッセ・スレッド(1)
――男の名は、アッセ・スレッド。
しがない村人夫婦の一人息子・アッセとして生を受け、本来であればそのまま村人として一生を終えるはずだった男。
両親からは多大な愛情を注がれ、村人たちとの関係も悪くない。
幼い頃から畑仕事を手伝い、特別貧しい思いをしたこともない。
そんなアッセに転機が訪れたのは、八歳の時。
アッセが八歳になった年、それまで見たことも聞いたこともなかった正体不明の魔物がアッセの村を襲った。
どこかの村が魔物に襲われる。それ自体は珍しいことではない。
アッセにとって不幸だったのはアッセの両親がその魔物に襲われ死んだこと。
魔物から逃げ遅れたアッセの母とその母を守るため魔物の前に立ち塞がったアッセの父。
魔物が過ぎ去った後、二人はアッセの家のすぐ目の前で無惨な骸となって発見された。
村が襲われたのは早朝。
普段は早起きなどしないのにその日に限ってたまたま早起きをしたアッセは、両親よりも一足先に畑へ向かっていたことで難を逃れていた。
アッセの両親が死んだことで問題となったのはアッセの扱い。
魔物の襲撃によって村は少なくない被害を受けた。
村にアッセを養う余裕はない。
しかし、アッセは八歳。それも男。もう数年もすれば立派な働き手となる。
そういった意見もあったが、結局は厄介払いという形でアッセは村から追い出された。
せめてもの情けにと持たされた、まだ八歳のアッセには不釣り合いな父の形見の大きな剣を両腕で抱き、行く当てもなくただただ道を進む毎日。
森に入って果実を採取しては近くを通りかかった魔物に怯え隠れ、浮浪児ゆえの小汚さから街道を進む他の通行人から邪険な扱いをされる日々。
両親の死を悲しんでいる暇はなく、されど毎朝毎夜には両親のことを思い出してしまう。
頬はこけ、足も腕もガリガリに、腹だけは大したものも食べていないというのにぷっくりと膨らんでいる。
なんとか生きるためにと行く先々で物乞いのような真似や盗みを働いたこともあった。
父の形見だった剣もだいぶ前に二束三文の金へと代え、腹の中。
生きるためならなんでもやった。
だが、それももう限界。
アッセが村を追い出されてから七百六十五日。
最後に盗みを働いた町から逃げるようにして辿り着いた先、小さな山の中、齢十歳にしてアッセはその生涯を終えようとしていた。
しかし、ここでまた転機が訪れる。
小さな山の中を通る小さな道の端、視界もかすれ、歩く気力すら湧かなくなって倒れていたアッセを拾い上げる者がいた。
アッセを拾い上げた者の名はコクーン・スレッド。
使い手の少ない希少魔法の一つ、操糸魔法の使い手であったコクーンは道端に倒れていた少年を拾い上げ、熱心に介抱した。
アッセは知る由もないが、このときコクーンはある事件によって嫁と息子を失ったばかり。すべてに絶望し、その小さな山で身を投げようとしていた。
それを引き留めたのがアッセ。
そしてアッセの命を繋ぎ止めたのがコクーン。
すべてを失いながらも生きようとした少年と、すべてを失い命を絶とうとした男。
奇妙な運命のめぐりあわせによって出会うことになった二人はその山に居を構え、その後長い時間を家族のように過ごすこととなる。
コクーンの技を教わり、操糸魔法のすべてを伝授された男アッセ。
アッセが二十六歳となったときアッセはスレッドの名を受け継ぎ、アッセ・スレッドとして生まれ変わった。
そしてさらに四年後、コクーン老衰。アッセの修行風景を見守りながら、安らかな顔で天に召された。
唯一の家族を失ったアッセは二十年過ごした小さな山を出る決意をする。
糸を生み出し、糸を操る操糸魔法。
強度も、太さも、長さも、粘性も、すべてが自由自在。
あらゆる糸を生み出しあらゆる糸を操る。
二十年かけて鍛え上げたその力があれば食には困らなかった。
ただ一つ残念だったのはアッセに道徳心が欠けていたこと。
素晴らしい力を持ち、それを自在に操ったアッセだったが、少年時代の苦い思い出とその後二十年に渡る世捨て人のような生活のせいで他人への興味や関心が一切なかった。
アッセ三十二歳の頃、初めは冒険者として活動をしていたアッセに次第と怪しい依頼が舞い込み始める。
その内容は誰かの暗殺だったり人攫いだったりと、大きな声では言えないようなものばかり。
それらの依頼はギルドを介さず、アッセ本人に直接持ち込まれた。
他人などどうでもよいアッセはすべての依頼を黙々とこなしていく。
気付けばアッセは裏では名の知れた人物となり、【操糸】の通り名で呼ばれるようになっていた。
当然、【操糸】なんて通り名ではアッセの素性はバレバレ。
少し調べれば、操糸魔法を使いこなす冒険者アッセと【操糸】が同一人物であることは誰でも簡単に知ることができた。
正体を隠すことなく裏の仕事を続けたアッセのもとには連日連夜、兵士やアッセのカード化を狙う暗殺者たちがやって来るようになった。
それらすべてを追い返すアッセ。
アッセは自身に一つの決まり事を課していた。
『仕事以外では人命を奪わない』
実際には、仕事でもアッセが行うのは標的のカード化まで。その後、カード化された人物を殺すかどうかは依頼人の手に委ねられていたためアッセは直接人殺しをしたことはないのだが、とにかく、仕事以外では人命を奪わない。
それだけがアッセの信条だった。
襲っては襲われ、襲われては追い返して。
来る日も来る日も代わり映えのしない日々。
自身が後ろ暗いことをしているという自覚もなく、ただ淡々と仕事をこなしていく。
その生活に変化が起きたのはアッセ三十四歳半ばのこと。
アッセの前に、一人の女が現れた。
よく手入れされていることが一目でわかる亜麻色の綺麗な長髪。
決して整っているわけではないのにどこか惹きつけられてしまう、愛嬌のある無邪気な笑顔。
シンプルながらも仕立ての良いドレスはおよそ庶民が着られるようなものではない。
しかし、どう見てもただの村娘とは違う、どこかの令嬢にしか見えないその娘が、アッセにはどことなく母に似ているように感じられた。
亜麻色の髪と明るい笑顔。
母と似ているのはその二点だけ。
他は似ても似つかない。
そう思いながらも母親の面影を感じさせてくれた――たまたま訪れたとある国の王都で見かけた――その一人の女性のことが、アッセの頭から離れなかった。
王都を離れ、拠点としている町へ戻ってからも度々その女のことを思い出すアッセ。
両親を失ってから二十六年、第二の父コクーンを失ってから四年と少し。
長いこと他人へ関心を持つことがなかったアッセに生まれた、小さな変化。
その小さな変化が、アッセの今後を左右することとなる。
一年後。
アッセ三十五歳、三度目の転機。
いつものように仕事をこなしていくアッセ。
五年間、淀みなく迅速かつ正確な仕事を続けてきたアッセの動きが、初めて止まった。
アッセが動きを止めたのはある人攫いの依頼。
指定された時刻、指定された場所に現れる女を攫ってきてほしいという、これまでに何度も行ったことのある何の変哲もない依頼。
珍しいことは何もない。普段通り標的を攫うだけ。
そう考えていたアッセの前に現れたのは、あのとき王都で見たあの女。
見紛うはずもない。
母親似の雰囲気を持つその女が、アッセの標的だった。
女を見て少し逡巡したものの、依頼を実行することにしたアッセ。
素早く攫った女を予め用意していた隠れ家へと連れ込み、声が出せないよう糸で口を塞いだ。
この時点ですでに、アッセは普段通りではなかった。
普段通りのアッセなら、女を攫った後、人目のない路地裏にでも入った段階で女をカード化している。隠れ家まで生身の人間を連れてくることはない。
普段通りのアッセなら、相手に声を出させたくない場合、糸で口を塞ぐのではなく喉を潰している。
依頼人からもカード化した状態での受け渡しを希望されている。
すべてにおいて計算外。
母親似の女を傷つけたくないからこその行動であったが、アッセ自身は自分の行動の意味がわかっていなかった。否、アッセは心というものをよく理解していなかった。
なぜ女をカード化できないのか、なぜ女を攫うことに躊躇したのか。その原因がわからず、一つの部屋の中、床に転がした女を監視しながら自身の胸中に渦巻く謎の感情の正体がなんなのか、ただそのことだけを考えていた。
すみません。アッセの話は今回で終わると思っていたのですがこのアッセ・スレッドという男なかなかの曲者でして。要するに、次回に続きます。(なんか昨日もこんなようなあとがき書いた覚えが……)