ここにいることの証明
フィナンシェの持っている匂い袋は魔物が嫌がる匂いを発している。
三猿ほど強い魔物ならその匂いに抗って接近してくることも可能みたいだが、三猿は日中に殲滅した。
作戦後に新しく誕生したり討ち漏らしていたりということもあるかもしれないが、その場合でもその数は十体に満たないだろう。
そして、たった十体なら森の深部を悠々と利用できる。
三猿同士で縄張り争いをする必要がなく、外に居場所を求める理由がないのだから、今このダンジョンに猿たちがいたとしてもこんな森の浅い部分に来ることはない。
つまり、匂い袋があれば魔物は寄ってこない。
「襲われる心配がないならテッドをノエルに紹介しても大丈夫か」
「うん、大丈夫だと思うよ」
ノエルにテッドの存在を認めさせられるだけではない。
魔物に襲われる心配がないということは、交代で仮眠をとることも可能ということ。
眠気に耐える必要がなくなり、寝不足による身体機能や思考力の低下を防ぐこともできる。
これは大きい。
「ちょっと。さっきから話題に出ているテッドって何よ? 誰かの名前?」
俺とフィナンシェの話がまとまるのを待っていたのだろう。
話が一区切りついたところでノエルが口を挟んできた。
ちょうどいい。
「ノエル。今から言うことを最後までちゃんと聞いてくれ」
話の腰を折られないようにそう前置きをしてから語りかける。
「これからスライムをかばんの外に出す。テッドというのはそのスライムの名前だ」
スライムと口にしても話を中断されない。
一応、最後まで聞いてくれるみたいだな。
「ノエルも聞いたことがあると思うが、スライムに近づくと本能的な拒否反応が起きる。そして、このかばんはその反応を引き起こさないようにする力を持っている。つまり、テッドがかばんから出てきてしまうとノエルの身体にもその拒否反応がでることになる。くれぐれも発狂して大きな声を上げたり暴れたりしないように注意してくれ」
「ふん、そんなみっともない真似、死んでもしないわよ」
言うべきことは言ったと思うが、どこまで信じてくれただろうか。
「じゃあ、心の準備ができたら言ってくれ」
「準備なんていらないわ。早く出しなさい」
出せるもんなら出してみなさい、とでも言わんばかりの口調。
いま伝えた内容はすべて事実なのだが、本当にわかっているのだろうか。
心の準備もなしにテッドの魔力に当てられたらカード化してしまうかもしれないんだぞ?
あれだけ長々と説明したんだから、「もしかして本当にスライムが入っているのかもしれない」と少しくらいは思ってくれてるといいんだが。
「本当に、出てきてもらうぞ」
「いいから早く出しなさいよ」
「わかった」
もう少し説得してからの方がいい気もするが、まぁいいか。
眠いし、早くテッドの存在を認めさせてしまおう。
《テッド、かばんから出てきてくれ》
『いいのか?』
《ああ、大丈夫だ。聞いていたと思うが、これからノエルにお前を紹介する》
これでよし。
あとはテッドがかばんから出てきてノエルがその存在を確認すればこの話は終わる。
もしかしたらスライムを見たノエルが取り乱してしまうかもしれないが、その対処はフィナンシェに任せてある。
俺のすることはもうないはずだ。
テッドが出口に向かってかばんの中を上へ移動していく感触を背中に感じながら、もう仕事は終わった、これで少し休めると思っていたそのとき――
「え、ちょっと、これってあのときの? じゃあ、あの魔力はコイツじゃなくてスライムの?」
と、ノエルのうろたえるような声が聞こえてきた。
その後すぐに「ま、ままま待ちなさい! 出さなくていいわ。信じる、いえ、信じたからもうかばんから出さなくていいわよっ。スライムがいるのはわかったから、そのスライムを早く止めなさい!」と必死に早口でまくしたてられたが、時すでに遅し。
《テッド、もう出なくても大丈夫らしいぞ。かばんの底に戻ってくれ》
俺がそう伝えようとしたときには、テッドはすでにかばんから出てきてしまっていた。
「ひっ。こ、ここ、この魔力、あああアンタの魔力じゃなかったのね!?」
テッドの魔力に触れ、その場に尻もちでもついたのか、随分と下の方から聞こえてくる声。
ノエルの声は小声だが、勢いがすごい。
その言葉からは今にも泣き出しそうな様子と本気の怯えが伝わってきた。
「だから何度も言っただろ。スライムが入ってるって。……改めて紹介する。見えてるかわからないが、コイツがテッドだ」
俺の右肩の上に移動してきたテッドを紹介するため、しゃがみ込む。
おそらくこのあたりにノエルの顔があると思うんだが、ちゃんと高さは合っているだろうか。もう少ししゃがんだ方がいいか?
「ちょっと! 近づけないでよ! い、いやっ!」
強い拒絶の意思。
テッドを目視したのか、魔力に耐えられなくなったのか。
一際強い語感の悲鳴を最後に何も言わなくなったノエル。
身体を縮こまらせて小刻みにぶるぶると震えているような気配がするから意識は失っていないと思うが、大丈夫だろうか?
《テッド》
『もうかばんの中だ』
《そうか》
かばんに戻ってくれと伝えようしたときにはすでにかばんの中。
相変わらず気遣いのできるスライムだ。
……遠慮する仲でもないと思ってくれているのか、俺にはまったく気を遣ってくれないが。
「ノエル、大丈夫か?」
「……だ、だいじょぅぶよ」
消え入りそうな声だが、本人が大丈夫というのならそれ以上追及しない方がいいだろうな。
俺が口を出すとややこしいことになりそうだし、当初の予定通りノエルのことはフィナンシェに任せよう。
というか、テッドがかばんから出ようとしたときのノエルのあの反応。
あれはおそらく、俺を起こすために部屋までやってきたときのことを思い出していたのだろう。
あのとき、ノエルはテッドの魔力を俺の魔力だと勘違いしてしまった。
だから俺に突っかかってきた。
要するに、ノエルはテッドの魔力から感じる得体の知れない恐怖をすでに体感していたのだから、そのときの感覚が実はスライムに近づいたために生じたものだったと教えるだけでテッドの存在を信じさせることができたのかもしれない。
今となっては後の祭りか。
俺たちはそのことに気がつかなかったし、結局はテッドを見せることでスライムがいることの証明をしてしまった。
その結果ノエルは動けない状態になってしまったが、魔物に襲われる心配はない。
俺たちを襲ってきた女やその仲間に追われている様子もなし。
ノエルも動けなくなったことだし、しばらくはこの場を動くこともないだろう。
これでようやく安心して休める。
そう考え、木にもたれかかりながら地面に座り込む。
フィナンシェがノエルをフォローしているすぐ近くで、これで少し休めると気を抜いた直後、『何か近づいてくるぞ。かなり速い』というテッドからの念話が飛んできた。
前話のラスト『何かが近づいてくるぞ』までを今話の前半で収め、後半は何かが近づいてきた後のことを描写するつもりだったのに、そこへたどり着くまでに予想の倍の文字数を必要としてしまった……。