間一髪
三猿は素早いという情報に嘘偽りなし。
十秒もしないうちに三百メートル以上あった距離が残り百メートルになってしまった。
クレイジーモンキーが地を駆け、ぐんぐん迫ってくる。
ここら一帯は数百メートル先が見通せるほど木が少ない。
だからか、三猿は木の上を移動することが得意と聞いていたが今のところは木に登るような素振りは見せていない。
視界が開けていて、木に登られることもない。
おかげで、素早く移動している敵の姿を見失わないでいられる。
邪魔な木や草を避けながらもほぼ一直前にこちらに突っ込んでくるクレイジーモンキーの姿はよく見える。
相手との距離、九十、八十。
クレージーモンキーが匂い袋の匂いを嫌がって後退していく様子はない。
こちらまでの百メートルを切っても、なおも構わず突っ込んでくる。
……仕方ない。カスタネットを鳴らすか。
背に腹は代えられない。
作戦に悪影響を及ぼす危険もあるが、自分たちの命が優先。
カスタネットを使用し、爆音を轟かせる。
そう思い、カスタネットを持った左手に力を込めようとした瞬間。
『待て』
落ち着いた様子のテッドの声が頭に響いた。
テッドの指示に従うことは癖になっている。
反射的に、左手の動きが止まる。
《どうした、テッド!?》
俺が止まっても相手は待ってくれない。
一瞬で敵との距離が残り三十メートルほどまで近づいた。
テッドの思惑はわからないがカスタネットを使用するのがダメなら、と、右手に握っているメルロに魔力を込める。
メルロの長さは魔力を込めることで調整が可能。
正確には、魔力を込めると柄が伸び、魔力を抜くと柄が縮む。
手動でも長さを変えることはできるが、魔力を利用した方が早い。
魔力を込めたことで一瞬で柄が最長の百二十センチまで伸びる。
先端を少し前方の地面に接触するかしないかくらいの高さで浮かせていた長さ三十センチだったメルロが一瞬で百二十センチまで伸び、地面とぶつかる。
その反動とメルロが伸びた長さの分、身体が後方へと勢いよく突き飛ばされる。
メルロに魔力を込める直前見えたのは、わずか八メートルほど前方にて今にも爪を振り下ろさんばかりの体勢で腕を振りかぶっているクレイジーモンキーの姿。
そして魔力を込めた直後、クレイジーモンキーとの距離は一メートルも離れていなかった。
伸びるメルロ。
振り下ろされる爪。
後ろへ吹き飛ぶ俺。
後方へと飛ばされる最中、眼前にクレイジーモンキーの爪が振り下ろされた。
勢いよく虚空を切り裂いた爪。
爪が通過した際に発生した風が顔まで届く。
着地と同時に汗が出る。
間一髪。
そんな言葉が頭をよぎった。
しかし、未だ脅威は去っていない。
クレイジーモンキーとの距離は五メートルも離れていないし、次はメルロが通用しないかもしれない。
今の回避は相手がメルロのことを知らなかったからこそ成功したにすぎない。
クレイジーモンキーと俺では動きの速さが違う。
この十数秒で、俺の方が圧倒的に遅いことが判明した。
メルロを掴まれたり、メルロで距離を稼ぐことを織り込み済みで行動されたら回避のしようがない。
今のでメルロのことを知られた分、状況は少しだけ不利に傾いたと思っておいた方がいい。
敵がいつ動いても反応できるよう油断なく前方を見据える。
周辺の足元の様子はすでに確認済み。
数時間前のように何かに躓くようなヘマはしない。
メルロの長さを九十センチに調整。
左手に持っていたカスタネットをいったん腰につけた硬貨袋の中にしまい、メルロを両手持ちに持ち替える。
《土壁の魔法玉を用意しておいてくれ》
『承知した』
いくらテッドが最弱のスライムといえど、魔法玉を持つくらいのことはできる。
テッドにかばんから土壁の魔法玉を出すよう指示し、そのまま待機していてもらう。
右肩の重みが少し増して頭の横の空間が少し窮屈になったような感覚はあるが動くことに支障はない。
逃走する隙を窺い、鋭い視線をクレイジーモンキーに向ける。
クレイジーモンキーは爪を振り下ろしたあと、なぜか追撃してこない。
十秒、二十秒……と相手を見つめる。
そして、三十秒。
ついに相手が動いた。
走るクレイジーモンキー。
その動きは先ほど接近してきたときよりも速い。
「へ?」
自分の口から、驚くほど間抜けな声が漏れた。
クレイジーモンキーの動きに反応しきれず、ほぼ棒立ち。
敵の動きに合わせて行動できるように気を張っていたため一歩身体を引くことはできたが、それ以上動くことができなかった。
予想外の速さ。
そして、予想外の動きに反応が遅れた俺。
俺が己の目を疑う中、そんな俺を置き去りにしてクレイジーモンキーが走り去っていく。
あとに残されたのはその場に呆然と立ち尽くす俺と俺の肩に乗ったテッドの一人と一匹。
こちらに背を向けて走るクレイジーモンキーの姿はどんどん小さくなっていく。
何かの作戦か。
そう思い、十分ほど警戒を続けたが、クレイジーモンキーが戻ってくることはなかった。
「はぁー、なんとかなったみたいだな」
脅威が去ったことを確認し、安堵の息が漏れる。
どうやら敵はテッドの魔力に怯えて逃げ去ったらしい。
仲間にもその怯えを伝えていったのか、もう一体以上いたはずの猿も姿を現さない。
張り詰めていた空気が弛緩し、身体に少しの疲労が降りてくる。
まるで何かにのしかかられているかのように身体が少し重く、だるい。
こんなことがあと何回か続く可能性があるのか……。
今回はなんとかなったが、ギリギリだった。
敵が姿を見せてからは時間にして一分もなかったと思うが、それでもかなり神経を擦り減らした。
メルロを伸ばすのが少しでも遅れていたら死んでいた。
テッドにカスタネットの使用を邪魔されるという予想外の出来事があったが、カスタネットが使用できなくなったという状況は事前にシミュレートしていた。
概ね、作戦開始前に想像していた通りの行動をとることができたと思う。
メルロの先端が地面とぶつかった際の反動とそれによって飛ばされた際にメルロが手からすっぽ抜けないように強く握ったせいで右手の傷が少し開いたが、それ以外には怪我もしていない。
ようやく落ち着いてきていた痛みが再発したのは辛いが、このくらいの痛みならまだ我慢できる。
それよりも、どうしてテッドがカスタネットの使用を止めてきたのかが気になる。
《テッド、さっきの『待て』はどういうことだ?》
あれさえなければもっと簡単にあの場を切り抜けられていた。
場合によってはクレイジーモンキーを倒せていた可能性もある。
『すぐ後ろの木の根元を見ろ。オンサシビレ草だ。そこら中にあるぞ』
淡々と告げてくるテッド。
テッドの指示した木の根元には先の尖った二又の草が一本。
さらによく見ると、周囲にも似たような草がいくつも散見された。
《これは……本当にオンサシビレ草だな。お前が気付いてくれなきゃやばかったな。ありがとうテッド、助かった》
オンサシビレ草は麻痺毒を持った毒草。
大きな音に反応して飛んでくるという性質を持ち、この草が刺さると最低でも一時間は動けなくなる。
さらに、音の大きさに比例して毒が強くなっていくという性質も持つ。
カスタネットから出る爆音によって生じる毒は相当な強さの毒になるはず。
しかもこの付近に複数本ある。
もしカスタネットを使用していたら大量の強毒持ちの草に全身を刺され死んでいたかもしれない。
テッドのおかげで助かった。
それにしても、人魔界に生息していたオンサシビレ草がどうしてこんなところにあるんだろうか?