けたたましき雑音
今日中の更新、なんとか間に合いました!
キィェァ、キィァアと、けたたましい音が耳に届く。
音の発生源はおそらく進行方向数百メートル先、森の奥。
しかも、その発生源は少しずつ移動している。
森の中に反響しながら、段々と小さくなり、離れていく音。
まるで俺やテッドから遠ざかるようにして聞こえにくくなっていくことから、この音は三猿の鳴き声ではないかと思われる。
本当にこれが魔物の鳴き声だとして三種族のうちどの猿型魔物の声なのかはわからないが、幸いなことに聞こえている声は一つ。
つまり、敵は一体だけ。
そして音が遠ざかっていくように聴こえていることから敵は匂い袋から発せられる匂いを嫌がって俺たちから離れようとしていると推測できる。
敵は一体。
さらに、俺たちへ接近してくる様子はない。
そのことにひとまず安心する。
先ほど木の陰に敵らしき姿を発見してから体感で十分~十五分ほど。
やはり先ほどの茶色い何かの正体は猿だったのだろう。
あのとき俺たちのいた場所と猿がいたと思われる場所の距離は七十~八十メートルだった。
匂い袋の匂いは大体百メートル先まで届くという説明だったから、あの距離なら確実に匂いをかがせることに成功している。
茶色い何かが猿だったのなら、匂いをかいでしまった猿が俺の腰についている匂い袋から逃げようと必死に森の奥に向かっているということになる。
勿論、あのときの茶色い何かは猿ではなく、俺が木の陰に身を隠したあの場所から十分以上歩いたうちに本物の猿に出くわした可能性もある。
しかし、ここで重要なのは「もしあの場所で見たものが猿だったのなら」という点。
もしあの場所で見た茶色い何かが猿だったのなら、なぜ今になって鳴き声を上げはじめたのか。
そこが問題だ。
未だに聴こえ続けている鳴き声のような音は甲高く、特徴的。
茶色い何かを発見した直後は緊張していたし、心臓の音も大きかったため、猿が逃げる足音や鳴き声が聴こえなかったかもしれない。
だが、その緊張は十分以上前に解れた。
それに、この特徴的な音を十分以上ものあいだ聞き逃していたとは考えにくい。
もしもあのとき見た茶色い物体が猿だったのなら、つい数十秒前まで十分近く声を潜めて逃げていたのに今になって急に声を上げはじめたことになる。
ならばこの声には何か意味があるはず。
逃走中に仲間を発見し、その仲間に向けて「逃げろ!」と伝えていたり、俺たちを倒すための作戦でも伝えていたりするのかもしれない。
あるいは、猿同士にも縄張りのようなものがあり、逃走中の猿が他の猿の縄張りに無断で侵入したために文句を言われているのかもしれない。
いずれにせよ、声を上げている猿とは別にもう一体以上猿が増えた可能性が高い。
新たに増えた猿も逃走中の猿と同じように逃げてくれるのならいいが、もし逃げずに向かってきた場合は戦わなくてはいけなくなる。
一番厄介なのは複数体で襲ってこられた場合。
敵が二体以上いた場合、まず勝ち目はない。
逃げ切れるかどうかも怪しい。
なので、こちらに向かってくるとしても一体だけであってほしい。
できることなら、急に声を上げはじめたことに何の意味もないことや、先ほどの茶色い何かは見間違いかなにかで本当は逃走中の猿なんていなかった、今になってやっと一体目の猿と接近したということを切に願いたい。
作戦が上手く進行し、俺やテッドが一切危険な目に遭うことなくリカルドの街へ帰還できるように祈願したい。
そう強く願った。
……ただ、その願いはどこにも届かなかったらしい。
視界に映るは、こちらに向かって歩み寄ってきている猿一体。
耳に聴こえるは、視界に映っている猿のいる方角とは別の方向から発せられた鳴き声。
この時点で猿が近くに二体以上いることが確定した。
姿を見せない猿は接近してくるつもりがないのか、それとも何かの作戦なのか。
姿を見せている猿はこのままこちらに向かってくるのか、それとも匂い袋の匂いが届く距離まで近づいたら回れ右してくれるのか。
どうなるかはわからないが、二体以上を相手取る必要が出てくるかもしれない。
死ぬことになるかもしれない。
だが、それも想定内。
覚悟はできている。
色々な可能性を想像してきたのはこういったときのため。
これから自分がどのように動けばよいのかはすべて頭の中に入っている。
爆音を発生させるカスタネットとその爆音から耳を守るための耳当て、長さを変えられる可変式金属棒メルロや魔法玉なんかも用意してきた。
猿を視界から外さないよう注意しながら、ずっと首にかけていた耳当てをしっかりと装着する。
これを着けないとカスタネットを使用できない。
自ら聴覚を封じることになるが、俺の耳の代わりならテッドが担ってくれる。
聴覚が使用できなくなることに関しては何も問題ない。
耳当てを装着すると同時に、世界から音が消える。
つい一秒前まで聞こえていた甲高い鳴き声も、風が草木を揺らす音も、足元から聞こえるはずの地面や草を踏みしめた際の音も、すべてが聴こえなくなる。
世界が急に小さく寂しいものになってしまったかのような不思議な感覚。
購入後、何回か装着してみたが、この感覚には未だに慣れない。
俺の世界が縮小されてしまっても、その不足分をテッドが補ってくれる。
そうわかってはいるが、微妙な感覚のズレは平衡感覚に影響を及ぼす。
身体がバランスを崩し、少しふらつく。
そのふらつきを隙と捉えたのか、敵が物凄い勢いで距離を詰めてきた。
《三百、二百五十……どんどん接近してきている。こげ茶色の逆立った体毛、開きっぱなしの口、その口から垂れている長い舌、真っ赤な目。この特徴は、クレイジーモンキーだ》
『クレイジーモンキー。たしか、何をしてくるかわからない敵だったな』
《そうだ。そのクレイジーモンキーが走り寄ってきている》
すでに左手にはカスタネットを用意している。
あとはこれを叩くだけで爆音が飛び出て猿を撃退することができる……はずである。
ただし、これを使用するのはクレイジーモンキーとの距離が八十メートルを切ってから。
カスタネットは音を出す道具のため、使用すると敵味方双方に異変を知らせることになってしまう。
相手に余計な情報を与えてやる必要はない。
ゆえに、使用はクレイジーモンキーが匂い袋に反応して引き返さなかった場合に限る。
クレイジーモンキーとの距離は残り百八十……百二十……百十……。
そして、クレイジーモンキーとの距離がついに百メートルを切った。