記憶の欠落
モラード国の予想では現在の三猿の数は六十~八十ほど。
森に入ってから三猿たちの活動域に到達するまでにかかる時間は四時間くらい。
ただし、この国の兵士がダンジョンを調査してからそれなりの日数が経過している。
その間に、三猿がその数の増加に合わせて活動域も拡げているとしたら二~三時間後には会敵する可能性もある。
そして今、俺はまともに物を握れない。
『いけるか?』
《いや、持つことはできるが手が震える。戦闘になったらと思うと少し厳しいな》
右手の擦り傷が思ったよりも深刻で、メルロを握ると手が震えてしまう。
少しの手元のズレが生死に直結するかもしれない場面に出くわす可能性もあるのに、そんなときに手が震えているなんてシャレにならない。
血はあまり出ていないから血によって手が滑る可能性は少ない。
今もただ掴んでいるだけなら何の問題もない。
だが、激しく動く必要が出てきたときに手の震えが原因で手に持った物がすっぽ抜けてしまう可能性はある。
痛みに関しては暫くすれば手の感覚が麻痺して気にならなくなるだろうからどうでもいい。
ただ、震えはどうしようもない。
痛みを感じるせいで震えているのなら、感覚が麻痺してくれば震えもおさまるかもしれない。
そうは思うが震えと痛みに何の関係性もない場合もある。
その場合は感覚が麻痺することによって余計に手元の状態がわからなくなる危険性が発生する。
実際には手の震えは止まっていないにもかかわらず、痛みがないから震えもないだろうなどと思い込みでもしてしまったら右手の動きに致命的な狂いが生じる可能性もある。
メルロもカスタネットもどちらも手を使って利用する道具であるし、それ以外でも手を使う場面はたくさんある。
二~三時間以内に手の震えが止まってくれればいいのだが……。
そういえば、メタルロッドという名前が長いからという理由でメタルロッドのことをメルロと呼ぶようにしたが、よく考えるとメタルロッドもカスタネットも名前の長さは変わらない。
どうしてカスタネットの方には略称をつけようと思わなかったのだろうか。
カスタネットという名称は長いと感じなかったのか?
……いや、違うな。
メタルロッドという名を聞いたときになんとなく、メルロという呼称が浮かんだような気がする。
だからメルロという名をつけたのだ。
メルロ――なにか聞き覚えのあるような気もするが、一体なんだったか。
どこで聞いたのか、あるいは目にしたのか。
………………思い出せないな。
なんとなく、馴染みのある名だった気もするんだが。
馴染みがあるような気がするのに思いだせない。
平常ではありえないことだな。
もしかしてこれも“世界渡り”の影響だろうか。
記憶を欠落するような原因、他に心当たりがない。
ただ忘れているだけなのか、それとも完全に失ってしまったのか。
それはわからないが、世界三大禁忌の一つとして数えられるくらいだ。
“世界渡り”をしてしまったせいで記憶が失われていたとしても、なんら不思議ではない。
問題は、俺自身そのことに全く気付いていなかったこと。
今まで気づいていなかっただけで他にも忘れていることがあるかもしれない。
そう思うと急に怖くなってきたな。
以前、“世界渡り”のせいで俺の人格が変容しているかもしれないと危惧を抱いたこともある。
もしも人格だけでなく記憶にも影響が及んでいるとなると、今の俺は人魔界にいた頃の俺とは全く別人のようになってしまっている可能性もある。
昨日一昨日と、人魔界にいた頃のことについてテッドと語り合ったときはそのように感じなかったが、それだって俺たちがその変化や欠落に気づけなかっただけかもしれない。
もしかしてテッドも何か変化しているのだろうか?
そう思って右肩に乗っているテッドを見てみても何か変わったようには感じられない。
そもそも、この世界に来てからかなりの日数が経過しているのにその間まったく違和感がなかったのだ。
もしテッドに何か変化があったとしても、そうすぐ気づけるものでもないか。
『そろそろ二キロではないか?』
テッドの言葉に意識が引き戻される。
懐中時計を見ると作戦開始から三十分しか経過していない。
少しペースが速すぎたか。
足元や周囲への注意はおろそかにしていなかったが、どのくらい歩いたかは意識していなかった。
作戦では一時間で二キロのペースで進むことになっていたのに少し進みすぎてしまったな。
たしか、今朝方に兵士から渡されたこの匂い袋が魔物の嫌がる匂いを発していて、これを持たされた俺たち三十二人が歩調を合わせて森の中心へと向かうことによって三猿が森の外へと逃げる可能性を激減させるとか言っていたっけか。
腰につけた匂い袋からは何の匂いも感じられないからすっかり忘れていた。
魔物が嫌がる、と言っても、嗅覚を持っていないテッドには何の効果もないみたいだし。
俺たち三十二人が歩調を合わせることには包囲の穴を小さくするということや誰かが突出してしまいそこに魔物が集まってしまう可能性を減らすためということの他にも、包囲の円を徐々に狭めていくことで魔物を森の中心へ集めるという意図もあったというのに一人だけ進みすぎてしまった。
進む速度が定められている理由をしっかりと理解できていなかったようだ。
一時間で二キロまで進んでよい、ではなく、一時間で二キロ進む。
この違いは大きい。
一時間かけて二キロ進めと言われているのだからそうしなくてはいけない。
結果的にはそれが俺とテッドの生存率を上げることにもつながる。
反省しないとな。
これがもし三猿の活動域付近での出来事だったなら包囲の円から突出してしまった俺とテッドは三猿たちから集中攻撃されていたかもしれない。
俺のせいで円が崩れ、作戦が台無しになっていた可能性もある。
このミスを犯したのが森の外縁付近でよかった。
とりあえず、ここで三十分ほど休憩してから歩調を合わせるようにすればまだ修正がきく。
その後は一時間に二キロのペースで歩くことを意識しないとな。
というか、油断しすぎている。
作戦と関係のないことに意識をとられすぎだ。
記憶のことなんかは気になりはするが、そんなものは生き残った後で考えればいい。
今は目の前のことに集中しなくては今度は右手の怪我程度ではすまないかもしれない。
命を落としかねない状況に身を置いていることを強く意識しろ。
俺たちがいるのはダンジョンの中。
もう、いつ三猿と遭遇してもおかしくないのだから。