致命的なミス
見渡す限りの緑の森。
生い茂った葉が昇り始めた日の光に照らされ、徐々にその色を濃く、鮮やかにしていく。
森特有の清涼な空気が朝の涼しさと相まって神秘的な雰囲気を醸し出す。
懐かしい感じだ。
人魔界にいた頃は朝から森に行くことも多かった。
この身体に染み渡るような少し湿った冷たい空気が懐かしい。
青臭い匂いと土の匂いはまさに森の香り。
葉に残っている夜露が白い靄がかかったように光り輝いている姿なんて久しく見ていなかった気がする。
こっちの世界に来る前の日常にちょっとだけ戻れた気分だ。
それにしても、魔物を生み出す禍々しいダンジョンなのに神秘的、か。
矛盾をはらんでいそうで矛盾していないようにも思えるその不思議な感覚がどこかおかしい。
微妙に黄色がかった白い光によって段々と森の全容が明らかになっていく。
全容といっても俺から見えるのは森のほんの一端だけだが。
『間に合ったか』
「ああ、なんとかな」
なんとか朝日が昇り始めるまでに作戦開始地点に辿り着くことができた。
あと一~二分ほど待てば森の中の見通しも少しは良くなる。
そうなったら作戦開始だな。
身体は少し火照っているがこれから動き回ることを考えるとむしろ好都合。
呼吸も多少乱れてしまっているが、森の外周から三猿の活動域付近までの魔物はこの国の兵士たちによってあらかた倒し尽くされている。
夜のうちに新たに誕生した魔物もいるかもしれないが、数はそんなに多くないはず。
魔物と遭遇するまでにはこの呼吸の乱れも落ち着くことだろう。
もちろん、魔物と出会わないですむのならそれが一番いい。
森の中、数メートル先の地面まで見るようになってきた。
そろそろか。
「さて、じゃあ作戦開始といくか」
『うむ』
ダララの森改め、ダララのダンジョン。
そのダンジョンに作戦遂行のため足を踏み入れる。
踏みしめた地面は、予想していた通りの感触を足の裏に返してきた。
地面の表層、手のひら一枚分くらいの厚みの土はやわらかく、その下の地面は固い。
ところどころに隆起し露出している木の根は存外しなやかで弾力がある。
木以外の植物は想像していたより少ない。
草なんかも少ないため非常に歩きやすい。
『まるで散歩だな』
《そうだな。だが油断はするなよ。異変があったらすぐに教えてくれ》
『任せろ』
魔物はおらず、足元にさえ注意しておけば大した苦労もなく歩き続けられる。
テッドの言う通り、本当に散歩みたいだ。
思わず気が抜けてしまう。
《こうしていると人魔界にいた頃を思い出すな》
『また向こうの話か』
《またってほどでもないだろ》
『何を言っている。一昨日の夕飯後からずっと向こうの話ばかりだぞ。さすがに付き合いきれん』
俺は思ったことを伝えただけだったんだが、そうか。
テッドは人魔界のことを語り合うことに疲れていたのか。
俺としてはまだまだ話し足りない気分だが仕方ない。
しばらくはテッドに人魔界の話題を振るのはやめておこう。
《フィナンシェは作戦が終わったら美味しいものを食べに行こうと言っていたが、テッドは何か食いたいものはあるか?》
『美味しいものなら何でも食ってみたい。逆に、草や土なんかはもう食いたくないな』
《それはなんとも、舌が肥えてしまったな》
『こちらに来てから食に困ることがなくなったからな』
《俺もそうだな。もう人魔界での食事には戻れそうにない》
『そうか』
《嬉しい悲鳴だよ、ほんと》
『全くだ』
早速、人魔界での食事の話題に触れてしまったが、今のは不可抗力だろう。
そもそもそういった方向に話題を持っていったのはテッドだ。
やはり食のこととなると熱意が違うな。
念話によって伝わってくる思念は淡々としているのに食に対するこだわりだけは感じられる。
まぁ、まともな食事を食べられるようになってから日が浅いせいでそこまで深くこだわりきれてないみたいだが。
とりあえず、テッドは美味いものなら何でもよさそうだな。
それにしても、逆に草や土なんかはもう食べられない、か。
この世界に来てからは最初の数日以外ずっと満足の行く食事を続けてきたからな。
草や土、ほこりなんかの味はもう不味く感じられてしまうということなんだろう。
《そういえば……》
『右足をもう少し上げろ』
「え? うぉっと!」
言われたときにはもう遅い。
突き出ていた木の根に足がひっかかり、バランスを崩す。
倒れ込んだ拍子に右手のひらをすりむいてしまった。
痛い。
《悪い。完全に油断していた》
『足元にも注意がいかないとは、気を抜きすぎだ』
本当にその通りだ。
テッドに偉そうに「油断するなよ」なんて言っておいてこのザマ。
油断していたのは俺の方だった。
森の中という人魔界で慣れ親しんでいた環境とテッドとの会話が俺を油断へと導いたのだろう。
ここは人魔界の森じゃない。
ダンジョンなんだ。
それをもう一度自覚しなくてはいけない。
テッドとの会話もできるだけしない方がいいな。
いざというときに反応が遅れる。
《テッド、ここからは会話はナシだ。伝える必要のあるときだけ念話を飛ばしてくれ》
『わかった』
右手に布を巻き、浄化魔法を重ね掛けしたがまだ痛む。
ジンジンという微妙に鋭い痛みが右手の動きを阻害する。
やってしまったな……。
治癒魔法つかいは近くにいないし、この傷を治すことはできない。
俺は弱い。
ゆえに、少しの怪我でもかなりの命取りになってしまう。
こういった事態に陥らないよう注意しておくべきだったのに失敗してしまった。
まずい。とは思うが、どうしようもない。
この傷を負ったまま作戦を遂行するしかない。
もしかしたら、血の匂いのせいで猿に居場所を悟られてしまうかもしれないな。
そうなると逃げ切りは困難か。
猿に発見されやすく、逃げ切りにくくなったということは戦いになる可能性が高くなったということ。
改めて、自分の不注意が招いた怪我が致命的に思えてきた。
これは、本当にまずいかもしれない。