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  作者: 上田 桃子
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対決

夫は、相変わらず坂下朋子と連絡を取りあっていた。

話の中で、坂下朋子の出張に合わせて会う相談をしているのを聞いた時

私の中で覚悟が決まった。

坂下朋子に直接会おう。

会って、夫との不倫を止めるように言おう。

坂下朋子の仕事場は分かっていた。

夫は不倫発覚後も、坂下朋子にプレゼントを贈った事があった。

でも会うこともままならない、もちろん自宅にも送れない。

そこで、職場に宛てて送った控えを密かに持っていた。

差し出し人は女性の名前になっていて、思わず笑った。

本当に滑稽だ。

坂下朋子は役所の出先機関で働いていた。

保育士だ。

そう言えば、夫に送ってきていた不倫発覚前のメールには、子ども達がお昼寝していて、一息ついているタイミングのものがいくつかあった。

私も仕事しながらの子育てだったから、子どもは保育園に行っていた。

保育園の先生にはお世話になったし、相談にものってもらった。

保育士にもいろいろな人がいる。

坂下朋子の職場に直接行くと決めたが、もちろんアポなしだから、本人不在という事もあるだろう。

無駄足かもしれない。

でも会えるまで何度でも足を運ぶつもりだった。

最後の賭けだった。

自分で、決行の日と定めた日、私は午後半休をとった。

仕事帰りなので、スーツ姿だったが、仕事モードのほうが、冷静に話せると思った。

向かう前に、駅のトイレで念入りに化粧直しをした。

くたびれた、やつれた顔で会うのだけは避けたかった。

表面上だけでも、あなた方の不倫は私にダメージを与えてないと、見せたかった。

でも、すぐに無駄な事だと思った。

きっと私が喚きちらし、泣きさけび、夫に不倫を止めるよう懇願した姿は、夫の口から坂下朋子に伝わって、二人の格好の話題になっていた事だろう。


私の職場の最寄り駅から、坂下朋子の仕事場の最寄り駅は小一時間ほどかかった。

電車の中で、彼女に話す内容を何回も、反芻していた。

冷静に、無駄なく、分かりやすく、まるでプレゼンの前のようだった。

自分の怒りや悔しさを伝えるのが、目的ではない。

正義を振りかざして責めるつもりもない。

言ってわかる相手であれば、最初から不倫なんてしないだろう。

わたしの目的は、今後、夫と一切の連絡を取らないように申し伝える事。

もし、夫から連絡があっても応じないこと。

私は坂下朋子が私の申し入れに応じざるを得ない一手を用意していた。

駅に着いた。

都心から1時間程なのに、のどかな風景が広がっていた。

坂下朋子の職場に着いた。

閉庁間近だったので、人の気配はほとんどなかった。

まばらに職員の働く姿が、窓越しに見えた。

カウンターで、坂下朋子の所在を聞くと、奥の事務所にいるだろうとの事であった。

役所の出張所なので、各部門ごとに小さな事務所を長屋のように構えているようだった。

私は教えてもらった部屋のドアをノックした。

中から「はぁーい」と声がした。

続けて「どうぞ、お入り下さーい」と語尾を伸ばした張りのある声がした。

私はドアを開けた。

部屋の中に背の高い女性が立っていた。

わたしは直感的に、坂下朋子だと思った。

夫のメールの中に、坂下朋子の容姿を愛おしむような、からかうような記述があったからだ。

私は相手の目を真っ直ぐ見て、声をかけた。

「坂下朋子さんですね。私、杉山和夫の妻です。

今日は、坂下さんにお願いがあって参りました。

お約束してないのに、申し訳ありません」

奇襲は仕掛けた方が、絶対に有利だ。

準備が違う。

果たして、坂下朋子は、私の勢いに呑まれるように事務所の隣のさらに小さな会議室に私を招き入れた。

どういう勤務体系か分からないが、その時間、その事務所には坂下朋子しかいなかった。

初めて会う、夫の不倫相手は、私の思い描く、典型的な保育士の姿をしていた。

坂下朋子に初めて会った私の印象は、『毛玉のついた靴下を履いてる人』

目の前にいる人と、夫に送ってきたメールがどうにも結びつかなかった。

最初はぎこちなく私と対峙していたが、彼女のホームグランドである余裕からか、段々と冷静に対応するようになった。

それに、よくしゃべる。

聞いていない事まで、話していた。

「仕事と介護の合間に、あの人(夫の事はこう呼んでいた)の事が、生活の中の彩りだった」

「お互い、家庭を壊すつもりはなかった」

「35年前と同じ事を繰り返すなんて、自分でも呆れている」

「これからも夫との生活は大事にしたい」

「あの人は、奥様の事愛してますよ。あんな調子で不器用だからわかりにくいかもしれないけど」

夫の私への感情まで、分析してくれた。

笑える。

彼女の、一言一言に反論したかったが、止めた。

時間の無駄だ。

言っても伝わらないだろう。

ひとしきり彼女の話を聞いてから、私は今後一切、連絡を取らないよう、そして夫から連絡があっても応じないよう言った。

そして、私の次の一手を伝えた。

「もし、今後、あなたが夫と連絡を取ったり、関係を持ったら、役所へ通報します。

職員の不倫なんて、罰則の対象にはならないかもしれませんが、あなたは、明らかに勤務時間中に夫にメールしてきてますよね。

何回も。

それを止めるよう、あなたの上司に申し入れます。

もちろん、あなたの上司の連絡先は分かりませんから、部署宛のメールになります。」

役所は、ホームページに部署のメールアドレスが載っている。

そこに出せば、何人が目にするだろう。

そのアドレスへの通報を示唆したのだ。

もちろん、自分の名前も出すと告げた。

匿名では取りあってもらえないだろう。

大げさだが、人に斬りつけるのだから、返り血を浴びる覚悟はできていた。

通報すると言ったとたん、彼女の態度が一変した。

ふてくされたように、「私、脅迫されているみたいですね。分かりました。もう連絡とりません。でも、どうやって証明します?」

言葉の語尾が上がっていた。

脅迫でも何でも、どう取られてもいい。

私は、彼女に向かって、「坂下さん、私は本気ですよ」

と言い残して、その場を後にした。

人は怒りの感情を押し込めると、低い声になるものだ。

きっと、私の声は低い声になっていたであろう。

帰り道、ひどく疲れていたが、奇妙な充実感があった。


坂下朋子を訪問してから、一ヶ月が経った。

相変わらず、密かに夫を監視しているが、兆候は見えない。

坂下朋子も、あと数年で定年退職する公務員の立場を汚したくなかったのかもしれない。

夫の事は、自分の職と引き換えにするほどの事はなかったのだろう。

やっと、静かな生活が戻ってきつつある。

夫は死ぬまで、私に強く出れないだろう。

最近、ふと気付いた事がある。

私はなぜ、こんなにも、怒り、追求し、調査し、考えたのか。

不倫が発覚してから今日まで、夫の事ばかり考えていたような気がする。

時には殺したいくらい憎んだ。

でも、夫に感情をかき乱されたのは事実だ。

私はいつの間にか、夫を深く愛していたのだろうと思う。

35年間かけて少しづつ。

だから、もがいたし、苦しんだ。

何だか、少し気持ちが楽になった。

これからも、俗に言う、『不倫のフラッシュバック』はあるだろう。

実際には、まだ何も解決していないかもしれない。

夫はまだ、不倫熱から覚めていないかもしれない。

でも、それでもいいと思う。

私は夫をあきらめないのだから。

そして、これからも愛していくのだから。

それが、私の業だ。


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