別れ
この章で完結です。
第二章 別れ
気づいたらそこにいた。
見渡す限り白の世界。人も、建物も、空も、地面も、何もない。自分の身体がここに存在しているのかさえ分からない。ただ意識だけがそこに存在し、ふわふわと浮いていた。
夢のまどろみに近いそれは、ひどく曖昧で意識をはっきり保つことができない。なんなのだこれは。当り前で、一番の疑問だけが頭に現れる。
そこに突如声が響いた。どこからともなく聞こえるそれは幻聴と切り捨てることもできるが、不思議とそうは思わなかった。どこまでも不安定なこの真っ白な世界で、この声だけははっきりと耳に届いた。
『あなたの心残り、叶えてあげましょう』
水のように澄んだその声。それが呼び覚ますのは、あの日交わした大事な友との約束。ふやけた思考が徐々に覚醒し、はっきりと、親友二人の姿が脳裏に蘇る。
『一日です。その一日が終われば、その日のあなたのことは他人の記憶には残りません』
なにをいっている?
『夜が明けるその時まで。この残された最後の時間を、悔いのないよう過ごしなさい』
声が離れていく。目に映る白が、じわじわと侵食するように黒に染まる。そうして、そうして……。
*
「確かこの近くに住んでるおっちゃんがいたよな。すげぇ意気投合しちまって。それで毎回帰るの遅れたんだっけ」
「“おはようおじさん”のことですね。元気なお人で時折お裾分けと言ってみかんを分けていただいたこともありました」
「そうそう。今もこの辺りに住んでんのかな」
談笑する二人の声で、私は現実に戻された。その当時のことを思い出しながら、同時にこれからのことに頭を巡らせる。この一夜限りの奇跡は私にとって救いであり、唯一の心残りと言えるものだった。だから、できるだけ長く、最後の一瞬までこいつらと共に居たい。この思い出の場所で。
だが、時間は決して無限ではない。現実は、いつだって厳しいものだ。
駅のホームまで戻ってくると、タイミングが良いことに終電が発車するアナウンスが駅構内に響いた。この目の前の電車が三雪峠から出る正真正銘、最後の電車となる。大きな音を振りまきながら、ここではない新たな場所に歩む鉄の箱。
今まで幾度と聞き慣れた音のはずだった。あの頃はほぼ毎日、耳にした心地よい音が今では寂しく、怖くかった。タイムオーバー。時間切れ。
二人はこの電車に乗って帰るのだろうか。いや、帰るに決まっている。明日からまた、それぞれの生活が控えている。レージは家に帰れば奥さんと子どもが笑顔で待っているのだ。ゴッチだって結婚はしてないものの、実家のお袋さんのことがある。できるならこいつらとこの場所で終わりを迎えたかったが、仕方ない。ここでお別れの言葉を……。
――しかし、口がうまく動かなかった。何か言葉にしようとしても、舌がもつれて言葉にならない。なにをやっている。ちゃんとしろ。歯を食いしばろうとするが力すら入らない。
理由? 聞くまでもなかった。まだ、こいつらと一緒にいたいからだ。
震えさえ出てきて、つい、こわくなって目を閉じた。視覚が閉ざされ、音のみが私に現実を知らせる。
今、目を開けたら。もう電車に乗っているのだろうか、二人は。
私を置いて、違う場所に行ってしまう。
忘れられてしまう。
そんなのはいやだ。
私を、一人にしないでくれ。
それは私のわがまま。
分かっている。
けれど。
けれど。
……行かないでくれ。
――がたんっ。
はっきりと、聞こえてしまった。ドアの閉まる無機質な音が。
つんざくような音を立て、空気が揺れる。がたんっごとんっとゆっくりと、最後の電車は歩み始める。やがてスピードに乗ったのか、音が遠くへ、遠くへ行ってしまい、遂には完全に消え去った。
どっと、汗が噴き出る。場を支配している沈黙に底知れない恐怖と寂しさを覚えた。ぎゅっと瞑っていた目の力を少しずつ緩めていき、深呼吸。手に汗を滲ませながら、目を恐る恐る開く。差し込む月光。
その淡い光の中に、親友二人の姿が変わらずそこにあった。
「……」
一瞬の静寂が私達三人を包む。
明るく、とぼけたようにゴッチは言った。
「……あーあ、終電行っちまったな」
「……そうですねぇ。急いでいたのに間に合いませんでした」
「……全く、無駄なエネルギー使っちまった。省エネ思考の名に恥じる」
ノリを三人と合わせながら、私は口元が緩むのを抑えられなかった。二人も同じ気持ちだと知って嬉しいのだ、私は。この思い出の場所で、最後の時まで親友と過ごせるのなら、これほど幸せな終わり方などあるだろうか。
「昔よく釣りした池があったろ。あそこにでも行くか」
「いいですねー。暗いですから落ちないように注意してくださいよ」
「お前がそれを言うのか。鴨に餌やるのに夢中になりすぎて落っこちてただろ」
「それを言うならあなたもでしょう。というか全員落ちたことありますからね」
ホームを出て、改札口。その脇に設置されたゴミ箱に三人の飲み干したジュースがレージ、ゴッチ、私の順に投げられ、吸い込まれていった。カランと乾いた音が響き、私は二人の間に立ち、歩く。
こうして歩く私達はまるで、あの頃に戻ったかのようだった。昔の馬鹿な私達三人の姿が、今と重なる。
最後の一夜を存分に過ごそう。悔いのないように。この最果ての駅で。
●エピローグ・翌日
小鳥がさえずる明朝。日差しはそれほど厳しくなく、木々から漏れる細かな光が三雪峠駅に降り注ぐ。
ペンキが禿げた屋根はみずぼらしく古臭い。駅としての役目を昨日果たし終えたそれは静かに変わらず、そこに佇む。
その改札口のすぐ近く。関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアがゆっくりと軋んだ音を立てて開いた。
現れたのは髭の濃い中年男性。駅員の制服を身にまとっているその人の目には疲れと悲哀の色が混じっている。朝早くからこの駅の掃除と書類整理を頼まれたその男は、つい、独り言をこぼしてしまった。
「ついに廃駅か。お疲れさん」
どこに向けられたわけでもないその言葉に、返ってくる言葉があった。
「おはよう! 駅長さんよ。最後のお勤めかい」
はっとして意識するでもなく声のする方を向く。その声の主は男も見覚えのある相手だった。
「もう駅長ではありません、ただの駅員ですよ“おはようおじさん”」
「はっはっ、そう呼ばれたのは何年ぶりだろうなぁ」
頭の白髪を揺らして快活に笑うその姿は、駅員がこの三雪峠駅の駅長だった頃の雰囲気と変わりない。
「お元気そうでなによりです」
「元気なものか。この駅の最後の姿を見届けたかったんだが、昨日はちと病院に行っておってな」
「っと、それはお大事になさってください」
駅員は老人を支えようとするが、老人の方は振り払った。どうやら性格も変わりないようで、お年寄り扱いは嫌いらしい。
「誰か昨日はここ使ってたんか」
「いえいえ」
それについては即答できた。昔、自分が駅長だったところが廃駅となるのだ。すでに気になって調べていた。
「最後の日だというのに、利用客はゼロでしたよ。寂しいものですねぇ」
「……十年前の、あのガキどもなら来ると思ったんだがな」
「あぁあの高校生三人ですか。いやでも、それは無理ですよ」
何、と聞いてくるしわがれた声。改めて見てみると、記憶に残る若々しい黒髪は今は白のほうが多く、ぴんと張っていた背中は、今ではエビのように曲がっている。顔も年相応の皺だらけであった。
もうあの頃とは違う。変わりゆく、人と場所。
「三人とも亡くなったらしいですから。私もほんの三年前くらいに知ったんですけど」
何気なく発したその言葉。駅員は知ってから三年の月日があるが、目の前の老人にとってはそうではない。「……そうか」と短く零し、俯く。
「……早死にしおって、馬鹿もんが」
そう落ち込む気持ちは痛いほど分かった。この人には孫がおらず、十年前の高校生達を実の孫のように接していたからだ。駅員はかける言葉も見つからず、最後の仕事である駅構内の掃除を続けようとゴミ箱に向かう。
「あれ」
そこを覗くと、あったのは三つの空き缶。当たり前だがどれも飲み干されている。
「昨日の朝に見たとき空っぽだったんだけどなぁ」
駅の利用客ではない誰かが入れたのか。特に気に留めることでもないのに、不思議と気になった。真実を知るすべはないので、どうしようもないのだが。
三つの空き缶をゴミ袋に入れる。コーヒー、コーラ、烏龍茶。その三種類の空き缶を見て、駅員は例の高校生三人を思い浮かべた。
「……いや、まさかな」
小さく呟かれたその言葉は風に流された。
木の葉が互いにこすれ合い音を奏で、駅員の制服がぱたぱたと揺れる。急に吹いたその風に手で目元を隠した。
その時、駅員は指の合間から見た気がした。
学生服に身を包み、仲良し気に下校する、あの三人の姿を。
前章で述べましたが、テーマは変わるものと変わらないものを主軸に書きました。主人公達にとってのそれは、言わずとも分かると思います。




