第七話 再会
ラビを出ると、辺りはすっかり夜の静寂に包まれていた。どれぐらい気絶していたのかは分からないが、どうやら短い時間ではなかったらしい。
セフィルはラビの入り口で野宿することを決め、メルと交代しつつ睡眠をとった。
翌朝、早朝にラビを出てダンバートンへと向かう。昼前にはダンバートンにたどり着き、二人は聖堂の前にいた。
「それじゃあメル。クリステルさんによろしくね。私はすぐに出発できるように準備してくるから。北側の出入り口で落ち合おう」
「はい、分かりました」
露店のある広場へと歩いていくセフィルを見送って、メルは聖堂の扉をノックした。しばらく返事はなかったが、やがてばたばたと大勢の人が走ってくる音が聞こえてきた。続いて勢いよく扉が開かれる。姿を現したのは、小さな子供たちだった。
「あれ? メルお姉ちゃん?」
「びっくりした……。ただいま」
聖堂で保護されている子供たちだった。メルの顔を見てわずかに驚いた後、嬉しそうにぱっと笑顔を輝かせた。
「おかえり! メルお姉ちゃん!」
「クリステル様はいる?」
「いないよ、学校で大事なお話があるんだって!」
「そっか……」
クリステルは時折、学校や広場で神の教えを説いている。今回もきっとそれだろう。そうなると、最低でも三時間は戻ってこない。
「いつ頃お出かけになったの?」
「ついさっきだよ」
――今から三時間だと、ちょっと遅くなりすぎるかな……。
メルは小さくため息をついた。クリステルにラビでのことを報告しておきたかったが、それはできなさそうだ。
「じゃあ、伝言お願いできる?」
「うん」
「無事にラビから戻ってきました、とだけ伝えて」
「うん! 分かった!」
メルは笑顔で、よろしくねと言うと子供の頭を撫でた。嬉しそうに笑う子供たちに手を振り、その場を後にする。少し早いが、待ち合わせ場所に向かうことにした。
セフィルは食料品店で保存食と携帯食料を買い込み、雑貨屋で手軽にたき火を起こせるキャンプファイアキットを購入した。次に、昼食ぐらい温かいものをメルと一緒に食べようと思い、酒場に入った。
まだ昼だからか、酒場の中は閑散としていた。奥のカウンターには誰も座っておらず、六つあるテーブルも一つ使用されているだけだ。そこに座っているのは初老の男と若い男。口に食べ物を入れたままで、豪快に笑っている。
セフィルがカウンターへと向かうと、そこにいた店員が笑顔で言った。
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
「えっと……。お弁当みたいなものを作ってもらいたいのですけど、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫ですよ。少々お待ちくださいね」
店員がカウンターの奥にある扉の中へと消えていく。何かを伝える声がかすかに聞こえた後、すぐに戻ってきた。その手には飲み物のビンが握られている。
「どうぞ。これはサービスです」
店員はコップに飲み物を注ぐと、カウンターに置いた。
「お酒……じゃないですよね?」
セフィルが臭いをかぎながら聞くと、店員は首を振って、
「もちろん違いますよ。オレンジジュースです」
「ありがとうございます。頂きます」
セフィルはコップを手に取ると、ジュースを口に含んだ。甘酸っぱい、オレンジ特有の味が口内を満たし、柑橘系の香りが鼻をくすぐる。コップを置いて、店員に頭を下げた。
「ありがとうございます。とてもおいしいです」
「それはよかった」
店員が嬉しそうに言うと、ビンをセフィルの側に置いた。セフィルが首を傾げると、
「お代わりはご自由にどうぞ」
そう笑顔で言った店員は、だがすぐにその表情が強張った。セフィルは怪訝そうに眉をひそめ、だがすぐにその理由を察した。
背後から、強烈な酒の臭いが漂ってきた。同時に、大きな足音が近づいてくる。そして、
「姉ちゃん、一人で何やってんだ?」
初老の男がセフィルの隣に座った。かなり酒臭い。泥酔状態のようだ。
もう一人の男はどうしているのかと視線だけテーブルの方に向けると、セフィルに向かって手を合わせて何度も頭を下げていた。どうやらあちらの男は酔っていないようだが、この酔っぱらいを止めることはできなかったらしい。
――まったく……。
酒場ではよくあることだが、真っ昼間からこんなことに遭遇するとは思わなかった。しかも自分が当事者という形で。
「なんでえなんでえ、べっぴんさんがいると思ったが、ガキじゃねえか!」
「はあ」
「最近のガキは礼儀がなってねえな! こういう時は……」
初老の男の言葉は聞き流す。いつの間にか店員は消えていた。首を巡らせて周囲を探すと、部屋の隅でこちらも頭を下げていた。酔っぱらいの相手は慣れていないのだろうか。
セフィルはため息をつくと、酔っぱらいに向かって笑顔で言った。
「ごめんなさい。私お酒は苦手なので、ちょっと離れてくれませんか?」
「ああっ? いい度胸だなおめえ、この剣が目に入らないとでも……」
男が緩慢な動作で、腰に差してあった剣の柄へと手を伸ばした。その時になってもセフィルは無言、相手の動きを注意深く観察する。やがて男が柄を握り、引き抜いた瞬間、
「……あれ?」
セフィルは剣を抜いた。男の剣をたたき落とし、それを足で若い男の方へと蹴る。次に酔っぱらいが事態を認識して暴れ出す前に、その喉元に剣を突きつけた。
「……はれ?」
男の間抜けな声が、静まりかえった店内に響く。少しして突きつけられた剣に気づき、
「うわあ!」
いすから転げ落ちた。そのまま壁際まで勢いよく後退り、セフィルを怯えた目で見た。
「……はあ」
セフィルはため息をつくと、剣を引いた。店員に視線を向けると、何度かうなずいてすぐに店の奥へと消えていく。
「さて、どうしましょうか?」
セフィルの笑顔から何を感じ取ったのか、初老の男がいきなり土下座した。
「す、すまんかった! 酔っていたんだ! 本当に悪かった!」
「酔っていたら何でもしていいわけじゃないですよ」
「そ、それはまあ……」
店員が奥の部屋から戻ってきた。その手には小さな箱が二つ。両方とも、かすかに湯気が立っている。
「お待たせしました」
店員はセフィルの目の前に箱を置くと、金額を提示した。セフィルは財布を取り出そうとして、
「……そうだ」
初老の男へと目を向けた。
「お弁当代、出してくれませんか? それで忘れますから」
「そ、それでいいのかっ? 分かった、払う!」
初老の男が若い男へと目配せすると、若い男が慌てて店員の元へと駆け寄った。お金が支払われるのをしっかり確認して、セフィルは弁当箱を手に取る。小さい箱だったが、また温かく、食欲を誘う香りが鼻をくすぐる。
「中身は……」
「あ、いいです、楽しみにしておきます」
店員に笑顔でそう告げ、頭を下げる。
「ありがとうございました」
店員も、どこか笑いを押し殺したような表情をしながら頭を下げた。
北門へと向かうと、すでにメルが待っていた。セフィルを見て、嬉しそうに満面の笑顔で手を振ってくる。少し恥ずかしい気もしたが、セフィルも手を振りかえした。
「お待たせ、メル。はいこれ」
セフィルが弁当箱を差し出すと、不思議そうに首を傾げた。
「何ですか、これ?」
「お弁当。最近ずっと冷たい食べ物だったから、たまには温かいものを食べようかなって。そこで食べよう」
「あ、はい!」
弁当、と聞いたメルは、喜んで弁当箱を受け取った。
二人は門の外に出ると、門のわきに設置されているベンチに腰掛けた。ここは街に近いため魔物が襲ってくることはほとんどないが、それでもわざわざ街から出て外で待つ人などほとんどいない。このベンチは使われることがないのか、ぼろぼろに錆び付いていた。
二人はそれを気にすることなく、小さな木箱を開けた。中に入っていたのは、分厚い豚カツとキャベツを挟んだサンドイッチだ。
「わ、おいしそう!」
メルは簡単な祈りの動作をすると、すぐにサンドイッチにかぶりついた。一瞬だけ目を見開き、すぐに幸せそうな表情にとってかわる。そんな様子がおかしくて、セフィルは微笑んだ。
セフィルもサンドイッチを頬張る。肉汁があふれ出てとてもおいしい。
二人はしばらく無言で食べ続けていたが、
「あ」
という部外者の言葉で動きを止めた。
門から幌馬車が一台出てくるところだった。その御者台に座っていたのは、紛れもなく酒場にいた初老の男だ。セフィルも男も、完全に動きを止めてしばらく固まっていた。
「セフィさん?」
メルの声で我に返ったセフィルは、男に対して冷たい笑顔を浮かべた。隣のメルが驚いて息を呑んだが、セフィルは気にしない。
「また会いましたね」
「あ、ああ……」
男も頬を引きつらせ、視線をさまよわせている。まさかまた会うとは思ってもみなかったのだろう。
「ま、まだ怒ってるのか?」
「怒ってないと思います?」
「だよな……」
意気消沈したように男がうなだれる。セフィルはそんな男の様子と馬車を交互に見ていた。
「一つ聞いていいですか?」
「何だ?」
「今からどちらへ?」
セフィルの質問に、男は北への道をまっすぐに指さした。
「ティルコネイルだ。行商にな」
男の答えに、セフィルは、やっぱりと小さくうなずいた。隣のメルはいまいち意味が分からずにセフィルと男を交互に見ている。
「じゃあ、ちょっと相談なのですが」
「なんだ?」
「私たちも乗せていってくれませんか?」
いつもの笑顔でそう言うと、男は少し驚いて、だがすぐに笑顔で快諾した。
馬車の中では、若い男が荷物を確認していた。セフィルとメルを快く迎え入れ、荷物を隅に押しやって二人が座れるスペースを作ってくれる。セフィルが礼を言うと、若い男は照れたように笑った。
「二人で行商をしてるんですか?」
そう聞いたのはメルだ。若い男が首を振って否定する。
「いや、仲間がいるよ。今回はどちらかと言うと配達なんだ。ティルコネイルの村長さんの家にね」
「ダンカンさんの?」
「ん? 知ってるのか?」
セフィルのつぶやきに、御者台にいる初老の男が反応した。
「まあ、私はティルコネイル出身ですし」
「なんだ、そうなのか。じゃあ道に迷う心配はないな!」
本気か冗談か、初老の男が豪快に笑った。
――大丈夫かな……。
そんな男の様子に、セフィルは頬を引きつらせた。
ティルコネイルに向かう途中、馬車の中でセフィルは男たちからいろいろな話を聞いた。
最近、魔物の動きが活発化していること。ティルナノイという楽園についての噂が流れ始めたこと。曰く、そこは苦しいことやつらいことがない楽園とのことだ。その噂を信じ、各地で旅立った者も多くいたらしい。最終的に、所詮は噂と結論づけて戻ってくるらしいが。
本来、商人から情報を買うならばこちらも有益な情報を提供しなければならない。だが今回は、二人がセフィルに負い目を感じているためか、無償で教えてもらうことができた。
ダンバートンを出て二日後。早朝にティルコネイルにたどり着いた。
セフィルとメルが乗った馬車はティルコネイルの南口から村に入り、農作業などの仕事へと向かう人々とすれ違っていく。その表情は千差万別で、眠たそうに目をこすっている者もいれば、やる気に満ちあふれている者もいた。
「あれ? セフィ?」
馬車とすれ違った村人の男が、セフィルに気がついた。慌てて馬車を追いかけてくる。
「ただいま。あとおはようございます」
「ああ、おかえり。……って、それはいいんだ! セルクが帰ってきてるぞ!」
「それを聞いて帰ってきたんだよ。どこにいるの?」
「今は村長さんの家にいるはずだ。荷物が届き次第出発するらしいから、急げ!」
男はそこまで言うと、追いかけてくるのをやめた。笑顔で手を振り、がんばれよと叫ぶ。
「ありがとう!」
セフィルも手を振り、そう返した。
その後も、セフィルに気づいた村人は同じようなことを教えてくれた。皆、どこか嬉しそうな笑顔でセフィルを迎えてくれた。
村の様子を眺めながらそれらの会話を聞いていたメルは、わずかに微笑んで言った。
「とてもいいところですね。皆さん優しそうですし」
「でしょ? メルもきっと気に入ると思うよ」
故郷を誉められ、セフィルは嬉しそうに笑った。やはり生まれ育った村を誉められると嬉しいものだ。メルもそんなセフィルの様子を見て、どこか遠いところを見るように目を細めた。
馬車は村長であるダンカンの家の前で止まった。どうやら配達先がダンカンの家らしい。
「お疲れさん。これで酒場での一件は水に流してくれよ」
「分かりました。でも次あったら、今度は許しませんよ?」
「分かっているさ」
初老の男が豪快に笑い、馬車の中からは若い男の忍び笑いが聞こえてきた。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「ありがとうございました」
セフィルとメルが頭を下げ、初老の男は、また声かけろよと親指を立てた。少し不気味なウィンクをされたが、それは二人そろって無視した。
村長の家の前に立ち、セフィルはノックしようとして、
「…………」
「……セフィさん?」
そのまま固まった。
――本当に……お兄ちゃんがいるのかな……。
ここまで何も考えなかったが、会って何を言えばいいのだろうか。言いたいことは山ほどあるのだが、まず何を言うべきかが分からない。それ以前に、自分は兄の顔が分かるだろうか。
目を強く閉じて考えていると、手が温かいものに触れた。我に返ってそちらを見ると、メルが微笑んでセフィルの手を握っていた。
「……ありがとう」
セフィルが言うと、メルは顔を真っ赤にしてうつむいた。
セフィルは小さく深呼吸するとゆっくりと扉をノックした。
中でばたばたと誰かが走る音。そして扉が開かれる。現れたのは、家主であるダンカン……。
ではなく。
青年だった。
「待ってたぞ……。……?」
黒いシャツにズボンというラフな格好の青年は、眠たそうに目をこすりながらそう言っていたが、セフィルの顔を見て怪訝そうに眉をひそめた。そしてめまぐるしく表情が変化する。まずは唖然とし、何かを思い出すように目が細められ、最後に目を見開き驚愕の表情を作る。
「セフィ……なのか……?」
青年がやっとその言葉を絞り出した、その瞬間。
セフィルの拳が青年の左頬を貫いた。
その突然のことに、メルは何も反応できなかった。
出てきた青年の反応から察するに、この人がセフィルの兄なのだろう。ならばセフィルはどうするか。心配そうにセフィルを見つめた瞬間に、メルは恐怖で身をすくめていた。
セフィルの表情は、先ほどとは全く違うものだった。怒り。それも激怒していることが分かるほど、セフィルのこめかみは震え、頬が引きつっている。そして止める間もなく、セフィルは青年の顔を思い切り殴っていた。
青年は家の中へ、背後のタンスへと激突し、その上の人形などが追い打ちをかけるかのように降ってくる。青年はそれを払いのけると、引きつった笑顔でセフィルを見た。
「その、なんだ……。怒るのは分かるけど、いきなり殴るのは……」
「…………」
セフィルは無言。笑顔は浮かべているのだが、目が笑っていない。それが逆に、とても怖い。そして、ゆっくりと剣を抜いた。
「そ、それはだめですよセフィさん! 絶対にダメです!」
メルは慌ててセフィルから剣を奪い取り、青年とセフィルの間に立った。セフィルを見て、何度も首を振る。それでもセフィルの表情は変わらない。
「……ねえ、メル」
「な、なんですか?」
セフィルがゆっくりと、とても優しげな微笑みを浮かべた。
「ごめんね、驚かせて」
「い、いえ……」
「すぐに終わらせるから、その剣返して?」
「だからダメですってば!」
ここまで怒っているセフィルも珍しい。というより初めて見た。振り返ると、青年は茫然自失とセフィルを見つめている。やがて、青年が小さくため息をついて口を開いた。
「セフィル。……その……。ごめんな」
それを聞いたセフィルはしばらく黙り込んでいたが、やがて、
「謝るなら……最初から黙って出ていかないでよ……」
震える声でそう返した。そしてその場に座り込むと、小さく嗚咽する声が聞こえた。
「ありがとう、メル……。もう大丈夫」
セフィルは心配そうに見てくるメルに微笑みかけ、そう言った。
今いる場所は、ダンカンの家の小さな部屋だ。その部屋にいすを四つ置き、セフィルとメルが隣同士で、その向かい側に青年と、どこか困った表情のダンカンが座っている。
あの後、ダンカンが慌てて家の奥から出てきた。座り込んで泣いているセフィルと、同じように座り込んで戸惑っている青年を見て、だいたいの事情は把握したらしい。とりあえず家の奥の小さな部屋に三人を招き入れると、いすに座らせてホットミルクを配った。
メルはその時に簡単な自己紹介をし、ダンカンもそれに応じていた。いつも以上に大人びて見えた。おそらく、セフィルがこんな状態だから自分がしっかりしなければと考えたのだろう。そう思うと、申し訳なくて、それ以上に恥ずかしくて顔が真っ赤になる。
向かい側に座る青年は、ホットミルクの入ったカップを手に持ったまま、一口も口をつけていなかった。ちらちらとセフィルを盗み見ている。
セフィルは小さくため息をつくと、静かに言った。
「久しぶりだね、お兄ちゃん」
「う……。あ、ああ……そうだな……」
セフィルの兄、セルクはセフィルと視線を合わせようとしない、合いそうになると、すぐに明後日の方向へと向いてしまう。どうやら罪悪感ぐらいはあるらしい。
それにしても。
「まさかお兄ちゃんを探して旅に出て、そのすぐ後に戻ってるなんて思わなかったよ……」
頭痛を堪えるように渋面を浮かべるセフィルに、セルクは、それは俺もだと反論する。
「妹の顔を見るために戻ってきたら、まさか自分を探して旅に出ていたとは思わなかったよ。今日お前が来なかったら、諦めて出発するところだ」
「どこに?」
「…………」
セルクが押し黙った。何も言わないとばかりに顔を背け、口を閉ざす。
――変わってないね……。
一緒に暮らしていた時の記憶はもう曖昧だが、いつも自分を気にかけてくれていたのは覚えている。友達とケンカをした時も、すぐに現れて仲裁してくれたほどだ。いつもセルクは、自分を危険な目に遭わせまいと必死になってくれていた。
それは今でも同じなのだろう。
「お兄ちゃん、教えてほしいことがあるの」
「…………」
セルクは無言。表情も完全に消されている。
「ミレシアンって、なに?」
「……っ!」
セルクが目を見開いた。セフィルをまじまじと見つめ、次にダンカンを見る。ダンカンがうなずくと、諦めたように首を振った。
「簡単に言うと、異世界から召喚された人間だ。俺は一年前、女神モリアンによって召喚された。そしてまだ幼いからという理由で、さらに過去へ飛ばされたんだ。そしてセフィル。お前の両親に拾われた」
両親、と聞いてセフィルの胸が少し痛んだ。もう一人の自分のことを話しておくべきだろうか。だがセフィルの考えがまとまる前に、セルクは話を続けた。
「女神は助けを求めている。そして俺は、これから女神を助けに行く。俺一人でだ」
念を押すように、一人という部分を強調した。
「セフィ。お前にはこの村で幸せに暮らしてほしい。俺のことはもう忘れろ」
「……いやだ」
「セフィ……。お前には家族が、この村の人たちがいるだろう。進んで危険に首を突っ込む必要はないよ」
「お兄ちゃんも、家族だよ!」
「俺とは血が繋がってないだろう。お前の両親はちゃんとしたティルコネイルの一員だ。だからお前も……」
「私だって繋がってないよ!」
セルクがぽかんと口を開けた。何をばかなと苦笑して、隣のダンカンを見て硬直する。ダンカンは目を大きく見開き、口を間抜けに開けていた。
「セフィ……なぜそれを……」
「やっぱり、本当なんだね。正直、半信半疑だったんだけど」
「う、うむ……」
セルクもこれは初耳だったようで、困惑を隠せずにセフィルとダンカンを交互に見ている。ダンカンは誰とも視線を合わせようとせず、手に持ったカップにずっと視線を落としていた。
どれぐらいの時間が経過しただろうか。沈黙に耐えられなくなったのか、やがてダンカンが口を開いて、ぽつぽつと語りだした。
「セフィル。確かに君も、拾われた子だ。まだ生まれて間もなかったであろう君を、ずっと子供ができなかった夫婦が雪山で拾ったのだ。毛布にくるまれただけの姿で、短い手紙だけが添えられていたそうだよ」
「手紙?」
そう聞いたのはセルクだ。セフィルは黙って話を聞いている。
「うむ。この子をお願いします、という内容と、名前と生年月日が書かれているだけのものだ。……雪山にはティルコネイルを通らなければ入れないのに、親らしい人は誰も見かけていなかった」
「……そっか……」
エルミアが話していたことは、どうやら本当だったらしい。ということは、やはり自分は人間ではないということだろうか。そのことをここで言うつもりはなかったが、セフィルは心の中で何か暗い感情が沸き立つのを感じていた。
しばらく重苦しい沈黙が流れていたが、セルクがそれを破った。
「とりあえず話は分かった。でも、それでもお前を連れて行くわけにはいかない。父さんも母さんも、お前を自分の子供として愛していた。一緒に暮らしていた俺が保証する」
「うむ。それは間違いない」
ダンカンもうなずいて言った。
――どっちの味方なの?
旅に送り出した張本人の一人の言葉に、セフィルはわずかに苛立った。だが、それを責めても仕方がない。
「それは疑ってないよ。お父さんもお母さんも、私にとっては大切な人だったから。でもそれは、お兄ちゃんもだよ。私にとってはお兄ちゃんも、大切な家族なの」
「う……」
困りつつも、半分嬉しいといった表情でセルクは言葉に詰まっていた。
だが。
「……悪い」
「え?」
一瞬何を言われたか分からず聞き返そうとして、次の瞬間にはセフィルの意識は闇に沈んだ。
メルの目の前で、一瞬でセフィルとの距離を詰めたセルクが、その首元に手刀を振り下ろした。セフィルはそのまま気を失い、倒れてしまう。セルクはその体を受け止め、悲しげに眉尻を下げた。
「ごめん。それでもやっぱり、お前を巻き込みたくはないんだ」
セルクがセフィルを壁際にもたれかけさせた。そして小声で、
「気持ちだけ受け取っておくよ。ありがとう」
小さな声だったが、メルは聞き取ることができた。その悲しげな口調からセルクの気持ちが伝わり、メルは何も言えない。
セルクは立ち上がって振り返り、メルを見た。寂しげな笑顔を見せ、そっとメルの頭に手を乗せる。
「嫌なところを見せちゃったな。セフィルのこと、よろしく頼むよ」
「…………」
メルは何も言えない。セルクは苦笑して、出口へと向かう。
「行くのか?」
ダンカンが声をかけると、セルクは振り返らずに言った。
「うん。ちょっと世界を救ってくるよ」
まるで近くに木の実を取りに行くような、そんな軽い調子だった。
セフィルは自宅で目を覚ました。最初に天井が目に入り、体を起こすと見慣れた、しかし懐かしい自宅の様子が確認できる。窓の外は暗く、いつの間にか夜になっているらしい。
「……私、何してたっけ……?」
目を閉じ、曖昧になっている記憶を思い出そうとする。そして、すぐにセルクから何かされたことを思い出した。何をされたかは分からないが、意識を失ったのだからまた手刀でも打ち込まれたのだろう。
「……お兄ちゃん……」
結局、止めることもついていくこともできなかった。自分の不甲斐なさに腹が立つ。
「あ、セフィさん!」
声をかけられ、セフィルは我に返った。メルが紙袋を抱えて扉を開けたところだった。メルは破顔一笑すると、紙袋を側のテーブルに置き、セフィルへと駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか? 気分はどうですか?」
「ん……。大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」
「いえ、気にしないでください」
メルはテーブルへと戻ると、紙袋からリンゴを取り出した。小さなナイフも取り出して、皮をむき始める。しょりしょりと心地よい音が室内を満たした。
「結局、逃げられちゃったか……」
セフィルがそうつぶやくと、メルは複雑そうな表情をした。
「あの……セフィさん……」
「ん? なに?」
メルはリンゴの皮をむきながら、セフィルをちらちらと見ている。言おうかどうか迷っているようで、何度も口を開けたり閉じたりしていた。
「……? どうしたの?」
もう一度聞くと、メルは意を決したように深呼吸。そして、
「ラビでの一件以来、セフィさんちょっとおかしいですよ」
「……へ?」
「何て言うか、心ここにあらずっていうか……ずっといらいらしてるというか……」
それを聞いて、セフィルはエルミアとのことを思い出した。そしてそれを思い出している時、自分はいつも不安になったり腹立たしくなったりしていたような気もする。思えば、セルクと話をしていた時も、ずっと苛立ちを抑えていた。
「セフィさん、何か悩んでるんですか? わたしにも……言えないことですか?」
上目遣いにそう聞いてくる。その瞳は、涙で潤んでいた。
セフィルは激しい自己嫌悪に襲われた。自分は何をやっていたのだろう。大切な仲間のメルに心配をかけて、やっと再会できた兄に八つ当たりして……。
――……情けない……。
セフィルは大きくため息をついた。
「はい、どうぞ」
気がつくと、小皿を差し出されていた。小皿にはリンゴが丁寧に盛られている。セフィルは礼を言って受け取ると、一つ口に入れた。
ゆっくりと租借して、呑み込む。続けてもう一つ。
最後の一つを食べ終え、セフィルは小皿をメルに返した。
「……メル、時間ある?」
「え? もちろんありますよ」
メルが不思議そうに首を傾げる。セフィルは微笑むと、
「じゃあ、メルに話しておきたいことがあるの」
もう迷いはなかった。
「人間でも魔族でもない、ですか……」
セフィルの話を聞き終えたメルは、しばらく目を閉じて考え込んでいた。その思考の邪魔をしないように、セフィルは窓の外へと視線を向ける。もう人通りも完全になくなっており、民家からは明かりすら漏れていない。みんな眠っているのだろうか。
やがて、メルが口を開いた。
「エルフとか、ジャイアントとか、じゃないですよね?」
「……どちらかに見える?」
「……いえ、見えません……」
苦笑して聞き返すセフィルに、耳まで真っ赤になってうつむくメル。それを見て、素直にかわいいと思った。
「エルミアのこともあるし、正直私自身、自分が得体の知れない化け物みたいでね。……それをメルに話したら、嫌われるかなって」
「そ、そんなことないですよ!」
メルは驚いて顔を上げた。何度も首を振り、セフィルの手を取る。
「もしセフィさんが魔族でも、それ以上の化け物でも、セフィさんはセフィさんです! わたしは、何があっても一緒にいます!」
「メル……ありがとう……」
思わず目頭が熱くなる。泣きそうになるのを堪えながら、セフィルは笑顔で言った。
悩む必要はなかった。メルは、こんな自分でも変わらず慕ってくれている。なら、せめて揺らがないよう強くなろう。そう心に決めて、セフィルは微笑んだ。
その日の夜はメルと一緒に眠った。家にベッドが一つしかなかったので仕方がない。メルの話ではダンカンの家に泊まる予定だったらしいが、話が長くなりすぎて夜遅くになってしまっていた。こんな遅い時間に行くのも失礼だろうということで、一緒に寝ることになったのだ。
翌朝、日の出とともに目を覚ますと、セフィルはメルを起こさないようにそっとベッドから抜け出した。家を出て、朝の空気を体に取り入れる。それだけでしっかりと目が覚めた。
「おはよう、セフィ」
声のした方を見ると、ダンカンが笑顔で立っていた。どうやら散歩の途中らしい。セフィルも笑顔で挨拶を返す。
「おはようございます」
「うむ。これを先に渡しておくよ」
ダンカンはそう言うと、長方形の紙を差し出してきた。黒地に様々な色で見知らぬ文字が書かれている。見たこともない紙だ。
「これは……?」
「それをバンホールにあるバリダンジョンに捧げなさい。そうすれば、セルクに会うことができる」
セフィルが目を瞠ると、ダンカンは薄く微笑んだ。
「これぐらいはさせてくれ。……ただし、命の保証はできない。いいね?」
「はい……。ありがとうございます」
セフィルは深く頭を下げると、旅の支度のために家へと急いで戻った。
家の中へと消えたセフィルを見送り、ダンカンは踵を返した。
自宅に入り、目の前の男を見る。黒衣の男。
「これでいいんだね? クロス」
クロスは一度だけうなずくと、ダンカンの手に小さな袋を握らせた。そして何も言わずに家を出ていく。久しぶりに会ったというのに、『これをセフィルに』という言葉以外聞けなかった。
ダンカンは袋の中身を確認し、苦笑した。
「こんなものを渡すのなら、自分で渡せばいいものを……。まったく」
ダンカンは金塊をテーブルに置くと、再び家を出ていった。
「まったく、世話の焼けるやつだ……」
クロスはそう言いつつ、ティルコネイルの道を歩く。クロスはセルクのことはよく知らないが、妹を巻き込もうとはしないだろうと思い、あらかじめセルクを追う手段を用意しておいた。使わないにこしたことはなかったのだが、予想通りの展開になっていたらしい。
「まあ、この後はお前次第だ。セフィル」
去り際にセフィルの家を見る。中からは賑やかな笑い声が漏れ聞こえてくる。メルと何かを話しているのだろうか。とても楽しそうな笑い声だ。
「……後悔は、してないさ」
クロスはそうつぶやくと、誰にも見られないように、静かに村を立ち去った。