第六話 サキュバス
太陽が真上に昇った頃にダンバートンに戻った二人は、その空気に軽い戸惑いを覚えた。
バンホールの道をふさいでいたオーガが倒されたという話はもう伝わっているのか、街は喜びに包まれ、平常時の活気に満ちている。だがその一方で誰もが複雑な表情をしていた。その理由は明白で、最後の魔物の大群との戦いで大勢の人が亡くなったためだ。
家族や旅の仲間、そういった関係者は皆消沈しており、他の者もそれらの人に気を遣ってか素直に喜びを表現できずにいる。そんな複雑な様相を呈していた。
「クリステルさんは聖堂にいるんだよね?」
「はい。留守にしているかもしれませんが、少し待てば帰ってくると思います」
セフィルとメルはそんな会話を交わしながら、人混みの中を歩いた。途中の雑貨屋や食料品店で旅に必要な物を買い、それ以上は寄り道せずに聖堂を目指す。すぐに聖堂にたどり着き、セフィルはその扉を静かに開けた。
真っ先に目に入ったのは、大きなステンドグラスだ。太陽の光に照らされ、神秘的な輝きを放っている。その光に照らされるように、桃色の髪の女が立っていた。
「聖堂へようこそ。……またお会いしましたね」
「あ、はい。お久しぶりです……ってほどでもないか」
「ふふ。そうですね。……無事なようで何よりです。貴方が行った後に魔物の大群の騒動があったので、正直もう生きてはいないと思っていました」
「あはは……。この通りぴんぴんしていますよ。……ちょっと危なかったけど」
そう言ってセフィルが苦笑する。クリステルは、そうですかとうなずいただけで視線をセフィルの隣へと移した。つまりはメルの方へ。
「おかえりなさい、メル。早かったですね」
「あ、た、ただいま……です……。あ、でも! 今日は聞きたいことがあって戻ってきただけです!」
「そうですか。それは残念です」
そうは言っているが、それほど残念がっているようには見えない。おそらくメルの言葉は予想の範囲内だったのだろう。次にクリステルはセフィルへと視線を戻し、
「メルの質問は、貴方と同じものですか?」
「はい。その……お時間大丈夫ですか?」
「はい。もちろんです」
うなずいたクリステルは、左手を自分の隣にある長椅子へと向ける。座れ、ということだろうか。セフィルがメルへと視線を向けると、笑顔で一度うなずいた。
セフィルとメルが座り、クリステルはさらにその隣へと座る。
「ではお話を伺いましょう」
「えっと……。サキュバスについてお聞きしたいんですけど……」
「…………」
ほとんど無表情のクリステルに変化があった。目を見開き、そのまま凍り付いている。数秒後にセフィルを見た時には、警戒の色がありありとあった。
「なぜ……それを私に聞くのですか?」
殺気すらも感じるその声に、今度はセフィルが驚いて目を瞠った。メルもクリステルがそんな感情を出すとは思っていなかったのか、隣で息を呑む気配が伝わってくる。思わず剣に手が伸びそうになるのを堪え、セフィルは固い声で返事をした。
「知り合いに聞いたんです。サキュバスがある情報を持っていて、サキュバスに関してはクリステルさんが詳しいって……」
「それだけですか?」
「え? あ、はい。そうです」
「本当に?」
「はい……。本当です」
クリステルがまっすぐにセフィルを見る。セフィルも目を逸らさずに、その視線を受け止めた。やがてクリステルが小さなため息をつき、表情を戻した。
「申し訳ございません。お気になさらないでください」
「は、はあ……」
「サキュバスのこと、でしたね」
クリステルが正面を、ステンドグラスを見る。その表情は相変わらずの無表情なのだが、どこか哀切を感じるものだった。クリステルが目を閉じる。
「サキュバスの何を聞きたいのでしょうか?」
「どこにいるかさえ教えてもらえれば、十分です」
「場所ですか。それならラビにいますよ」
セフィルが首を傾げると、クリステルも不思議そうに首を傾げた。だがすぐに得心がいったように一度だけうなずく。
「そう言えば貴方はここの出身ではありませんでしたね……。ラビはダンバートンの北西にあるダンジョンです。主にスケルトン達が生息しているため、戦いに慣れた冒険者以外は近寄りもしません」
「スケルトン……」
セフィルは旅に出る直前のことを思い出した。アルビに生息しているはずのなかったメタルスケルトン。あんなものが何匹もいるということか。
「ラビのどこですか?」
そう聞いたのはメルだ。
「一番奥の部屋にいると思います」
「行きましょう! セフィさん!」
メルが勢いよく立ち上がった。セフィルが驚いてメルを見ると、まぶしいほどの笑顔をセフィルに向けていた。
「お兄さんの場所が分かるかもしれないんです! がんばりましょう!」
「メル……。うん! そうだね!」
セフィルも笑顔でうなずいた。あの時は一人きりで少し苦戦してしまったが、今はメルという頼りになる仲間がいる。きっと大丈夫だろう。
「ありがとうございました、クリステルさん」
クリステルに向き直って言うと、クリステルがわずかに微笑んだ……ような気がした。
「止めても無駄なようですね。お気をつけて。私はここでお二人の無事をお祈りしています」
「はい。ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
セフィルが丁寧に頭を下げ、メルは元気良く一礼した。
翌早朝に二人はダンバートンを出発した。前日はクリステルの厚意でそのまま聖堂に泊めてもらい、ポーションなどの治療薬もわけてもらった。本当に感謝してもしきれない。
太陽が真上に昇り、そしてわずかに傾いた頃。ようやくラビダンジョンにたどり着いた。アルビとは違い、ダンジョンの入り口は石造りの小さな建物になっていた。手入れされることがないためか、所々の隙間から草が生えている。二人はその建物に、わずかに躊躇しながらも踏み込んだ。
中は外見通りの小さな部屋だった。この部屋はアルビと似たような構造で、部屋の中央に女神像がある。
「さてと……。何を捧げようかな」
「外から小石でも拾ってきます?」
本気か冗談か分からないメルのそんな言葉。セフィルは苦笑して、さすがにそれはやめておこうと首を振った。
「何か用意すればよかったですね」
「うん……。どうしようか」
荷物から何かを探そうとして、それは目に入った。
部屋の隅に、かすかに光る何かがあった。吸い寄せられるように、セフィルは側へ向かい手に取った。小さな赤い玉。大きさは拳よりも一回り小さい程度。
「何ですか、それ?」
セフィルの拾ったものが気になるのか、メルが後ろからのぞき込んでくる。セフィルの手の中にある赤い玉を見て、小さな歓声を上げた。
「わ、きれいな玉ですね! 宝石みたい……」
「うん……。誰かの落とし物かな?」
見たところ、何の変哲もないただの玉だ。子供のおもちゃと言われても疑わないだろう。なぜそんなものがダンジョンの入り口にあるのかは分からないが。
「……これ、捧げようか」
「そうですね。それなら女神様も怒らないでしょうし」
「別に本当に女神様が持っていくわけじゃないけどね」
右手に赤い玉を持ち、女神像の前へ。メルはその左側に立ち、セフィルの左手をきゅっと握りしめた。
「ダンジョンに入るの、初めてです……」
「そっか。……じゃあ、いくね」
セフィルが右手を開いた。握られていた赤い玉が吸い込まれるように床に落ちていき、そして床に当たる軽い音が響いた直後、わずかな浮遊感を感じた。
気がつけば、二人が入ってきた出入り口は消滅していた。代わりに、女神像の裏に地下へと続く階段が出現している。無事にダンジョンの内部へと入れたようだ。
「な、なんだか不思議な感覚ですね……。ちょっと気持ち悪いです」
「あはは。私も最初は同じこと思ったよ。……あれ?」
視線を下に向けると、赤い玉はまだそこにあった。ダンジョンの内部へと入るために捧げたものはいずこかへと消えるはずで、それはどのダンジョンでも変わらないはずだ。それなのに、捧げたはずの赤い玉は落とした場所にしっかりと存在していた。
セフィルは首を傾げながらも赤い玉を拾う。少し不気味に感じたが、どうしても捨てる気にはなれなかった。
「持っていこう……」
セフィルはそれをバッグに入れると、物珍しそうに辺りを見回すメルを呼んで、階段を下りていった。
ラビはアルビとは比較にならないほど、キアよりもさらに広かった。何度も小さな部屋を通り抜け、何度も何もない行き止まりに突き当たる。小さな部屋には毎回五匹ほどのスケルトンが待機しており、何度も戦うはめになった。
最初にスケルトンを見た時、正直セフィルは最深部にたどり着くまでにかなりの消耗を強いられるだろうと判断していた。だが、そんな心配は杞憂に終わった。
アルビのスケルトンが特別だったのか、ラビのスケルトンは単純な動作しかせず、簡単に倒すことができた。また、複数のスケルトンに襲われた時もメルの矢が的確に周囲のスケルトンを射抜き、たとえ倒しきれなくても注意を逸らしてくれたおかげで、安心して目の前の敵に集中することができた。
地下二階に下りると、赤く変色したレッドスケルトンが現れるようになった。炎の力を宿したスケルトンだ。だがこれも一階のスケルトンと同じく、さほど苦労せずに倒すことができた。
だが、三階に下りたところで状況は一変した。三階はメタルスケルトンが生息しており、その鋼鉄化したスケルトンを倒すために時間を要するようになった。メルの矢も鋼鉄の骨には通じず、意識を逸らすことはできても倒すことができない。
それでも同時に出現するのが多くても三匹までだったため、そこまでの苦労はしなかった。まず最初の一匹を不意打ちで仕留め、他の二匹にアイスボルトを当てる。動きが鈍っている間にもう一匹を始末し、最後の一匹は相手の動きをしっかりと見極め処理する。メルはその間のサポート役だ。
だが、最深部にたどり着いた時、その戦い方は通用しなくなった。
「……五匹、か」
「多いですね……」
二人がのぞき見ている部屋には、五匹のメタルスケルトンがいた。その奥は今までとは違う巨大な扉。あそこがサキュバスのいる最深部だろう。この五匹を倒せば、サキュバスと会えるということになる。
「どうしましょう?」
メルが小声で聞いてくる。セフィルはしばらく考え、やがて首を振った。
「中級魔法は魔力の流れで気づかれる可能性が高いし、今までの戦法で行こう。それで二匹は倒せるから」
「残りの三匹はどうします?」
「……私ががんばって倒すよ。大丈夫、動きは単純だから、落ち着いてやれば三匹同時でもいける」
「分かりました……。できるだけサポートします。でも、無理しないでくださいね」
「うん。ありがとう」
セフィルは剣を握る手に力を込めた。落ち着くために大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。そして一気に部屋の中に飛び込んだ。
「……え?」
だが、そこにいるはずの倒すべき相手はいなかった。部屋にあるのは、倒すべき相手だったもの。メタルスケルトンたちは、床に倒れ動かなくなっていた。
「セフィさん、どうかしたんですか?」
メルも異変に気づき、部屋の中に入ってくる。すでに倒れているメタルスケルトンを見て、息を呑んだ。すぐにセフィルへと視線を送ってくるが、セフィルには首を振ることしかできない。
「骨がばらばらになったりはしてないし切断面もないから、魔法か何かで倒されたのだとは思うけど……」
「わたしたちが話し合っている間に、ですか? 大きな音を立てることもなく? 無理ですよ。きっと初めから倒れていて、わたしたちが勘違いしちゃったんです」
「……うん、そうだよね」
うなずいたが、セフィルには誰かが倒したとしか思えなかった。そしてその疑惑は、目の前の扉を見て確信へと変わった。
巨大な扉は、ほんのわずかに開かれていた。小さな動物が通れる程度だったが、先ほどまでは確かに完全に閉ざされていたはずだ。
――もしかして……。サキュバスが、これを?
一抹の不安を覚えるが、それを振り払うかのようにセフィルは首を振った。
「それじゃあ、開けるね」
「はい」
扉に近づいたセフィルがそう言うと、緊張のにじんだ声が返ってきた。メルも、もしかするとこの先のサキュバスがスケルトンを倒したのかも、とは思っているのかもしれない。
セフィルは巨大な扉をゆっくりと開け、周囲を警戒しつつその中へと入った。メルもそれに続く。
その部屋は今までのものよりもかなり広かった。奥へと続く扉がかすかにしか見えないほどだ。天井では豪奢なシャンデリアが薄暗い部屋を照らし出している。だが、天井とは対照的に床には何もない。本当にただ広いだけの空間だ。
その空間の中央に、一人の女が立っていた。長い銀髪に、コウモリをイメージしそうな黒い衣。右手には剣を持っている。
「ようこそ、私の部屋へ」
女が口を開いた。セフィルたちをまっすぐと見て、妖艶な微笑を浮かべている。
「本来、女性の方など相手にもしたくないのだけど……。あなた達は特別よ」
くすくすと、楽しそうに笑う女。その体からは、今まで感じたこともないほどの強大な魔力が常に発されている。セフィルの魔法の師、カティアのような安らぎを覚える魔力ではなく、不安を煽られる禍々しい魔力だ。目の前に、しかもかなり距離が開いている場所に立っているだけのはずなのに、息が詰まりそうなほどだ。
「セフィ、さん……」
メルのか細い声。セフィルは返事をすることすらできない。
「そちらからは何もないの?」
女がかわいく首を傾げて聞いてくる。セフィルは小さく深呼吸すると、言った。
「あなたが、サキュバス?」
「ええ、そうよ」
「あなたに聞きたいことがあって来ました。できれば……戦いたくありません」
「あらあら、それは残念ね」
言葉とは裏腹に、表情から笑顔が消えることはない。それが返って不気味だ。
「そうね、私もあなたに聞きたいことがあるわ」
予想外の言葉に、セフィルとメルは顔を見合わせた。黙って相手の方へと視線を戻す。
「できれば、セフィと二人で話をしたいのだけれど」
メルとサキュバスの視線を受けながら、セフィルはしばらく考える。相手は何を考えているのだろうか。メルをこのまま部屋の外に出しても安全だろうか。もしかすると、部屋の前にスケルトンが大勢待機していて、出てきたメルを襲うかもしれない。
「一応言っておくけど、スケルトンを待機させているとかそんなことはないわよ」
「……証拠はあるの?」
「もちろんないわ」
平然と言ってのける。セフィルは小さくため息をつくと、メルへと向き直った。
「メル。あのサキュバスと二人で話をしてみるよ」
「え……! そんな、ダメです! 危ないですよ!」
「大丈夫……だと思う。メルは外で待ってて。何かあったら大声で呼んでね」
メルはしばらくセフィルを心配そうに見つめていたが、やがて小さくため息をついた。何を言っても無駄だと察したのだろう。メルは黙って部屋の扉へと歩いていく。
「……セフィさんも、危なくなったら呼んでくださいね」
「うん。ありがとう、メル」
笑顔で言うと、メルは微笑を返して部屋の外へと出た。扉が閉まるのを待ってから、セフィルはサキュバスへと向き直る。
「これでいいの?」
「ええ、ありがとう」
どこか楽しそうに笑うサキュバス。
「では改めて、お久しぶりね。セフィ」
「……会ったことなんてなかったと思うけど。どうして私の名前を知ってるの?」
「あらあら、つれないわねえ」
サキュバスが寂しそうな笑顔を見せた。そして。
その頭髪が金色へと変わっていき、顔の骨格すら音を立てて変化していく。あまりに唐突にその変化が始まったので、セフィルは何もできずに唖然としていた。
やがて変化が終わる。そこに立っていたのは、
「……わた、し……?」
「うふふ……。お久しぶりね、もう一人の私」
セフィルがそこに立っていた。いつの間にか服も変化しており、セフィルと同じものになっている。最早外見だけで見分けることは不可能だ。
「な、なに……? あなたは、何なの……っ?」
「私は貴方。貴方の『力』。貴方の『光』。貴方の『闇』。貴方が人間らしく振る舞うために、貴方が生まれた時に切り離された存在。エルミア、とでも名乗りましょうか。どう? 分かった?」
「ちょっと待って……。分からないよ。ううん、それよりも……」
先の言葉に聞き逃せない部分があった。嘘であってほしいと信じたいもの。
「人間らしくって、どういうこと……?」
「貴方はそんなことも覚えていないの? まあ仕方ないのでしょうけど」
エルミアと名乗った女が、自分が近づいてくる。そして五歩ほど離れた位置で立ち止まった。
「貴方は、人間じゃないのよ」
エルミアが剣を振った。右上から左下へ。セフィルは反射的にそれを受け止めると、慌てて相手の胴を蹴り飛ばした。
「っ……!」
同時に顔をしかめるセフィル。地に膝をつき、左手で腹部を押さえる。相手を蹴ったのと同時に、強烈な痛みがセフィルを襲った。
「どう、して……。何をしたのっ?」
「私が受けたダメージは貴方にそのまま返るのよ。私は貴方だから」
「そんな……」
「もちろんその逆も然り。でも私は痛みを感じないから、実質あなたが一方的に痛いだけね」
くすくすと楽しげに笑う、自分と同じ姿の『何か』。それが、剣を持ったままゆっくりと近づいてくる。楽しそうに、ゆっくりと、不気味な笑顔を浮かべて。
「ぁ……」
まだ負けたわけではない。それなのに、セフィルはもう戦意を喪失していた。相手の威圧感が、魔力が、その不気味さが、セフィルの心を完全に折った。
「戦わないの? それなら、外のあの子に代わりをお願いしようかしら」
その言葉で、セフィルははっと我に返った。唇を噛み、立ち上がって剣を構える。
――私が負けたら、メルは……。
こんな化け物と戦わせるわけにはいかない。自分一人で、倒さなければ……。
セフィルは大きく息を吸って、ゆっくりとそれを吐いた。覚悟を決めると、自分へと向かっていった。
戦いはすぐに終わった。いや、戦いとはとても言えない。ただただ一方的だった。
セフィルの振った剣は、確かにエルミアの体を深く斬った。だが相手は顔色一つ変えず、逆に自分の方が強烈な激痛に襲われた。そのまま、また地に膝をつけてしまう。
その後は一方的だ。エルミアは無抵抗なセフィルを蹴り飛ばし、殴りつけ、殺さない程度に斬りつける。その繰り返し。そして、セフィルが動かなくなったところでそれは終わった。
「まだまだ、貴方に任せることはできないわね」
うつぶせに倒れたセフィルへ冷たく言い放つ。その時になっても、エルミアの表情は変わらない。楽しげな微笑のままだ。
セフィルは至る所から血を流し、倒れ伏して動かない。荒い呼吸だけがセフィルにまだ意識があることを教えていた。
「ねえ、聞いてる?」
楽しそうに笑いながら、エルミアはセフィルの髪を鷲掴みにした。ぐいと引っ張り、自分の視線に無理矢理合わせる。
「ぅぁ……」
「もう満身創痍という感じね。少しは強くなったって聞いたのに、残念だわ」
ため息混じりにつぶやくと、そのまましばらくセフィルを眺めていた。セフィルの方は、体が言うことを聞かず、何もできない。
「ねえ、セフィ?」
エルミアがセフィルの耳元へと口を近づける。そして、
「貴方、今のうちに死んでおく?」
「……!」
セフィルの表情がさっと青ざめた。エルミアはくすくすと笑いながら続ける。
「だって、こんなに弱いのなら旅を続けていても仕方ないでしょう? 私なら楽に殺してあげるけど、魔物相手だと死の間際まで苦しめられ、痛めつけられるわよ?」
だから、今のうちに殺してあげてもいいけど?
エルミアは言い終わると、セフィルの言葉を聞くために自分の耳をセフィルの口元へ近づけた。
セフィルはしばらく何も言えなかったが、やがて消え入りそうな声で、
「いや……。死にたく、ない……」
「うふふ。そう。素直ね」
エルミアは満足そうにうなずくと、手を離した。再び倒れたセフィルを見下ろし、その頬に手で触れる。
「お兄様ならティルコネイルに戻っているわ。ダンバートンでゆっくり休んで向かっても十分間に合うわよ」
「……どう……して……」
「さあ? 気まぐれかしら」
くるくるとその場で踊るエルミア。しばらくそのまま踊り続けていたが、やがて踊るのをやめて再びセフィルに向き直った。
「それじゃあ私は行くけど、何か聞いておきたいことはあるかしら? 次にいつ会うか分からないから今のうちよ?」
エルミアの表情をうかがうが、その笑顔からは何も読みとることはできない。微細の変化すらなく、常に同じ笑顔だ。気味が悪いぐらいに。
セフィルは痛みをこらえ、何とか体を起こそうとする。だが、
「あら、起きるのはだめよ」
エルミアが自分の剣で自分自身の腕を刺した。
「ぎっ……ぁ……」
同じ箇所が激痛に襲われる。再び地面に倒れ、うずくまるセフィル。エルミアはその様子を見て満足げにうなずいただけだ。
「話を戻すけど、質問は?」
エルミアの問いに、セフィルは荒い息を繰り返しながらも何とかエルミアの方を見た。視界がぼやけているが、意識は妙にはっきりとしている。それ故に痛みもいつも通りに感じているわけだが。
「私は……何なの……?」
とてもか細い声だったが、エルミアはしっかりと聞き取ったようだ。
「今はまだ答えられないわね。そうね……。人間ではないわ」
「じゃあ……魔族……?」
「いいえ、魔族でもない。言っておくけどハーフでもないわよ。貴方には、人間と魔族の血なんて、ただの一滴も流れていないから」
「……っ!」
ショックを隠そうともしないセフィルを見て、期待通りの反応だったのか嬉しそうにその場で一回転。そのまま踵を返すと、奥の女神像の間へと歩いていく。
「ま……! っ……」
呼び止めようとしたが、体を襲う激痛で声が続かない。
エルミアは女神像の部屋の前で振り返ると、またセフィルの方を見た。
「強くなりなさい、セフィル。強くなって、もう一度私の前に来なさい。その時こそ……」
殺してあげるから。
背筋が凍るような気がした。強烈な殺気にセフィルの顔が強張るが、すぐにその殺気は消えてしまう。そして気がついた時には、エルミアの姿はなくなっていた。
「……痛い……」
体を丸め、痛みをこらえる。動く気力も体力もないので、メルが待ちくたびれて部屋をのぞいてくれるのを待たなければならない。どれぐらい待てばいいだろうか。
そう考え始めて数分後、意外と早く部屋の扉は開かれた。おそるおそるといった様子で開いていく扉の音は、すぐに勢いよく開かれる音に変わった。
「セフィさん!」
メルの声。慌てたような足音が近づいてきて、すぐにセフィルの視界にメルの足が入った。続いて顔。今にも泣きそうな顔をしている。
「大丈夫ですかっ? とにかく安全なところへ……って、動けませんよね。ど、どうしよう……」
慌てふためくメルの姿。それを見て、セフィルは逆に落ち着きを取り戻した。
「メル……」
「あ、はい!」
「とりあえず……そこの扉を閉めて……。そうしたら魔物は……入ってこないはずだから……」
「はい!」
大急ぎでメルが扉へと向かい、そして扉の閉まる音が聞こえた。そしてすぐに戻ってくる。
「つ、次は何かありますかっ?」
「えっと……。たき火を起こして……。あとは、適当に……」
「セフィさん……? セフィさん!」
「ごめんね……。もう、限界なの……。ちょっと……休ませて……」
自分を呼ぶメルの声がまだ聞こえていたが、そこでセフィルは意識を繋ぎ止められなくなった。深い闇の中へ、セフィルの意識は沈んでいった。
何も見えない闇の中、その歌声は聞こえてきた。
体も動かせず、何も見えず、ただ聞くことしかできない歌声。ただそれでも、聞いているだけで不思議と落ち着いてくる。
だが、その歌声は人間のものではなく。
獣のそれだった。
「……ぅ」
セフィルはうっすらと目を開けた。豪奢なシャンデリアの光が真っ先に飛び込んでくる。何度か目を瞬かせ光に慣らせると、ゆっくりと体を起こした。
セフィルの側には、ダンジョンの出口となる女神像があった。さらにその奥にはたき火の明かりが見え、その前で座っている人影も見える。小さな影は、うとうとと船をこいでいた。
「メル……?」
確認しようと立ち上がろうとして、セフィルは顔をしかめた。まだ体中が痛い。どうやら気を失ってからまだあまり時間が経っていないらしい。痛みに耐えながらも、セフィルはしっかりと立ち上がって影に近づいた。
果たして、弓を抱えたまま眠るメルがそこにいた。
「メル?」
メルの肩を揺らす。するとすぐに目を開き、虚ろな視線をセフィルへと向けてきた。数秒セフィルの顔を見つめていたが、やがてその目を大きく見開いた。
「セフィ……さん……?」
「うん。おはよう、メル……って、わっ!」
メルがセフィルの胸へと飛び込んできた。涙を隠そうともせずに、セフィルにしがみついてくる。そのままの体勢のまま、
「よかった、もうだめなんじゃないかって、ずっと怖くて……!」
嗚咽混じりのメルの言葉。その言葉を聞いた途端、セフィルは胸が締め付けられるように苦しくなった。きっとメルは、自分の家族が死んでしまった時と重ね合わせてしまったのだろう。
――心配、させちゃった……。
セフィルはメルをそっと抱き寄せると、メルが落ち着くまでその背を何度も撫でてやった。
「もう一人のセフィさん、ですか?」
泣きやんだメルは、照れくさそうに笑って何度も謝っていた。そのまますぐに、照れ隠しのつもりなのか食事の準備を始めてしまう。それなりに空腹感はあったので止めることはしなかった。そして、食事をしながらエルミアの話を伝えた時の第一声がそれだった。
「戦っている相手の姿を真似する魔物がいると聞いたことがありますが、それでしょうか?」
「んー……。魔物とは違うと思うけど……」
自分が人間ではない、と言われたことはメルには話していない。どうしても話すことはできなかった。もし話してしまったら、自分を恐れて逃げてしまうのではないか、そう思ってしまうのだ。
――いつの間にか、メルに依存しちゃってるな……。
このままではいけないと思うが、メルのおかげで旅が心細くないのも事実だ。一緒にいてその笑顔を見ていると、体の内側が温かくなってくる。できれば、もう少しだけ一緒に旅がしたい。
――だから、今はまだ話さなくてもいいよね……。
「セフィさん? どうかしたんですか?」
メルの声でセフィルは我に返った。慌てて首を振り、何でもないと笑顔で言う。その反応をどう解釈したのか、メルは眉尻を下げて、
「無理しないでくださいね。わたしなら大丈夫なので、もう少し休んでください」
「ううん、平気。気にしないで」
本当はまだ少し体は痛かったが、一時を思えばかなり楽になった。このままダンバートンに戻るぐらいなら大丈夫だろう。
「それでね、メル。この後のことなんだけど」
「あ、はい。ティルコネイルに行くんですよね?」
「うん。少し山を登ることになるから、一度ダンバートンに準備に戻るよ」
「はい。ティルコネイル、楽しみだな……」
「そうなの?」
今の時期に何かあったかと記憶を探ってみるが、この時期は特に祭りといったものもなく、普段通りの静かな村のはずだ。何を楽しみにしているのかと首を傾げると、メルは少し照れたように微笑んだ。
「セフィさんの生まれ育ったところなんですよね。一度見てみたかったんです」
生まれ育ったところ。その言葉を聞いて、セフィルは少し胸が苦しくなった。やはり話すべきかと逡巡するが、メルの反応を想像するだけで体が震えてくる。やはり、言えない。
「セフィさん?」
メルが心配そうにセフィルの顔をのぞき込んでくる。セフィルは小さく首を振って、何でもないよとだけ返した。
それだけしか、できなかった。