「存在」を望んだ少女 7
放課後。
私はどんよりした気分を払底すべく、いつもよりも大分早く体育館へ来ていた。帰りのホームルームが終わってすぐに来たせいか、体育館には私以外誰もいない。
ハーフラインから一気にドリブルをし、そのままレイアップ。
ポスッという若干情けない音を立ててゴールを通ったボールをリバウンドし、今度は逆サイドへ向かって走り出す。ハーフラインを越える直前で減速し、一瞬のタメのあとにスリーポイントシュートを放つ。
いつもは見るも無惨な結果に終わるのだが、今日は自分でも惚れ惚れするような軌跡を描いて、ゴールを通り抜けた。
「……やるじゃん」
「キャッ!?」
後からボソリと呟かれた言葉に、私は心臓が飛び跳ねるのを感じた。
振り返れば、二・三歩向こうに玲也が立っている。その眼は授業や昼食の時の面倒臭そうなものではなく、やる気の籠もった鋭い視線だった。
真正面からそれを見てしまい、自分の鼓動がさらに早くなるのを感じる。
だが、玲也はそんなこと意にも介さなかったのか、僅かに首を傾げて聞いてきた。
「名前、なんだっけ?」
「え? ああ、山本彩花……です」
「山本な。山本って、いつもこんなに早かったっけ? この時間はいつも俺一人のはずだったけど」
「今日はたまたま早く来たの。あの、邪魔だった……かな?」
僅かに俯きながら聞くと、玲也は薄い笑みを浮かべながら答えた。
「いや、いつも一人で退屈してる所だったんだ。1on1、やらないか」
「え、ええっ!? で、でも、私じゃ相手にもならないと思うんだけど……」
「良いから。ほら、俺がディフェンスで、お前がオフェンスな」
有無を言わさぬ口調でそう言いきり、彼はゴール下で転がったままのボールを取りに行った。ヒョイ、と手慣れた様子でボールを拾い、軽いテンポでドリブルをしながら戻ってくる。
それだけの間があったにも関わらず、私の思考はテンパったままで、一切の状況を把握できていなかった。
「どこから始める?」
「え、と……じゃあここで」
「オッケー。行ける?」
全然準備は整っていないけれど、私は反射的に頷いてしまった。途端、私に向かってパスが放られる。
悲しいかな、三年間かけて鍛えられてきた私の身体は、無意識のうちにボールへ反応してしまっていた。
一歩前に出ながら、ボールを受け取る。その時には、さっきまで動転していたことなど忘れて、完全にバスケモードへ思考が切り替わっていた。
玲也の重心は、僅かながら左へ寄っていた。バスケでは両手とも同じだけのプレイングが出来るように練習するものの、どうしたって利き腕の方が使いやすいことに変わりはない。
必然的に右手を使う人の方が多いため、それに対応するためだろう。
そこを、逆手に取る。
二歩目を右側へ出す。瞬間、玲也は私の動きに対応すべく、左足を同じように出していた。そのスピードはかなり速い。エースと謳われるのは、伊達じゃない。
だが、私はそこで身体の向きを一気に変えた。
ボールを左手に持ち替え、三歩目と同時に左側へドリブルを始める。
彼のスピードは速すぎる。あの勢いで動けば、さすがにこの切り替えにはついて来れないだろう。
そう思っていたから、私は彼の手に反応できなかった。
「えっ?」
気付けば、その手は私の手元にあったボールを弾き飛ばしていた。
(くっ……!)
リカバーすべく、手を伸ばす。が、既にボールはラインを越えていた。
「あ〜……負けちゃった」
「もう一回、やるぞ」
「えっ!?」
いつの間にかボールを持って戻ってきていた玲也が、そんな風に言う。ポン、とボールを手渡し、今度は彼がハーフラインの向こうに歩いていった。
「どうした? 早くやろう」
「う、うん……」
言葉通り、『早くしろよ』と目を向けてくる。本当に、バスケのことしか頭にないらしい。
息を整え、今度は私からボールを投げる。その瞬間から、彼は獣のような目付きに変わっていた。ゴクリ、と息を呑み、玲也の挙動を見つめる。
ボールを取った瞬間、彼の身体が一気に近付く。ドリブルをしているのは、彼から見て左。なら、右から抜きに来るはず。
そう考えて、右半身から止めにかかる。だが、彼の視線を見て、ゾクリと本能が叫んだ。
とっさに左側へ向く。同じタイミングで、玲也が左へ動いた。
もう少しでボールに触れる直前、彼の手が後ろへ下がる。
「やるじゃん、山本」
「……ありがと」
ニッと唇の端を吊り上げながら褒めてくれる彼へ、同じように微笑み返す。
彼の動きは、速い。ハッキリ言って、速すぎる。
男女の差はあるだろうが、それにしたって見えるのに反応できないとは驚いた。
単純にスピードがあるというのもあるし、緩急が非常に上手いのも関係している。それによって、ただでさえ速い動きがさらに速く見えているのだ。
ほら、行くぞ。
そんな風に、玲也の目が楽しそうに告げる。
私も深く息を吸い、力をいつでも発揮できるように身体を低く落とした。
何度かオフェンスとディフェンスを交代しながら1on1を繰り返していると、いつの間にか時間が経っていた。
まだ体育館には出てきていないものの、更衣室へ入っていく人の姿はちらほらと見えている。
そろそろ、この二人だけの練習も終わりにした方が良いだろう。彼の方も同じように考えていたようだ。
「山本、次で終わりにしよう」
「うん!」
最後は、私がディフェンスだった。
再び玲也の身体が無茶苦茶なスピードで動き出す。
が、少しずつ身体が慣れてきたのか、さっきよりは見えた。彼の進行方向へと身体を動かし、手でボールを叩き落とそうとする。
だが、その瞬間足がズルリと滑った。
床に落ちた汗のせいか、それとも激しい運動に足が追い着かなかったのか……。そんな風に考える余裕はあるのに、どうしてか身体が動かない。
体育館の床がゆっくりと近付いてくる。このままいったら、確実に頭を打つだろう。それがわかっているのに、手はそれ以上にゆっくりとしか動いてくれない。
だが、そこでガクンといきなり身体の動きが止まった。
後ろから、ガッシリとした温もりを感じる。意識がそれを理解する前に、身体が熱を持った。
「おい、大丈夫か?」
背中の方から声が聞こえてきた。振り向けば、相変わらず鋭い表情のままな玲也が立っている。
……とどのつまり、彼に抱き留められているというわけだ。
理解した途端、顔まで真っ赤になった。
「わ、わっ!? ご、ゴメン!」
強者ならこの状況を楽しめるのかもしれないが、あいにくと私はそこまで強かな心を持っているわけではない。慌てて腕の中から抜け出そうとした。
が、こういう時に慌てると、良いことはない。
突然立ち上がろうとしたせいか、右足に強烈な痛みが走る。攣った、と理解した時にはもう遅く、何をすることも出来ないまま再び後ろへ倒れ込んだ。
「……本当に大丈夫なのか?」
「……ゴメン、ちょっと無理っぽい」
ビクビクと不気味に震えている足を見て理解してくれたのか、玲也は小さく息を吐きながら肩を貸してくれた。
「攣るまでやるなよ……」
「ゴメン、本当にゴメン……」
同じように小さな声で答えて、壁際まで歩いていく。
運動した直後だからか、彼の身体がひどく熱い。私の身体も同じようなものかも知れないな、なんてどこかのんきに考えた途端、全身の熱量が意識化に上ってきた。
幸い、壁まではそれほど距離もなく、異変を察知したチームメイトが駆け寄ってきてくれたため、それほど長い間密着するようなことにはならなかった。
それはそれで嬉しいような、残念なような、、妙な気分になるから不思議なものだ。
壁を背に座り込み、「氷を持ってくる」と言って走っていったチームメイトを見送ってから、玲也がポツリと言う。
「楽しかった。ありがとうな」
「え?」
言葉の意味がわからず、私は間の抜けた声を上げながら彼の方を向いた。
そこには、ゲーム中の鋭い目とも、普段のボーッとした表情とも違う、柔らかく優しい笑みが浮かべられていた。
彼に微笑みかけられたのは、これが初めてだ。あまりにも不意打ちだったその微笑に、私は自分の顔が火を噴くんじゃないかと錯覚した。
「楽しかったから、またやろう。今度は攣らない程度に、な?」
「……うん!」
「ストレッチ、ちゃんとしとけよ」と言い残して、彼は男子が集まり始めている向こう側のコートへ戻っていった。
男子に混じって基礎トレーニングを始めたその表情は既に鷹の如き鋭さを秘めており、先ほど見せてくれた優しさの残滓は全くない。
幻だったんじゃないかと思うほどの豹変っぷりだったが、あれが夢でもなんでもない現実だったということは、身体の熱と、まだ若干ピクついている足が証明してくれる。
(私、玲也君と1on1やってたんだ……)
そんな風に思い返した途端、再び顔が赤くなる。
よくもまあ男子とバスケなんてしたものだ。それも、憧れの人と。
実際に触られてはいないものの、際どいポイントは何度もあった。
(いや、待って……)
触らせた方が、相手にさらなるインパクトを与えられたのでは……?
(……私は痴女か)
ファールを装って触らせるとか、ディフェンスミスと見せかけて触れさせるとか、色々とパターンは思いついたものの、それらを全て心内ゴミ箱に放り込み、デリートする。
そんなことを実際にやろうものなら、気まずくて二度と彼に話しかけられなくなる。
そんなぶっ飛んだ方法に、頼る気にはなれない。
「彩花、氷持ってきたよ〜……って、どうかしたの? 顔真っ赤だけど……」
「な、なんでもないよ! ありがとうね」
膝の裏に氷を当てながら、少しずつマッサージをしていく。幸い、少し時間が経ったからか、不気味な震えは収まっていた。
それよりも、顔の熱気の方がとんでもないことになっている。火であぶられているみたいに、熱い。
「彩花、実は熱があるんじゃ……」
「大丈夫だって! ほら、練習行こう。遅れちゃうよ!」
訝しげな顔でこちらを見てくるチームメイトにそう言って、私は思いっきり立ち上がった。
右足に若干の痛みが走るけれど、再び攣りそうな気配はない。
これなら、行けそうだ。
「良いけど……無茶はダメだよ?」
「うん、ありがと」
本心から心配してくれているのだろう彼女に微笑んで、私はコートの中へ戻った。
……ところで、あの子も顔が赤くなっていたけれど、大丈夫なんだろうか?