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クウソウドライブ  作者: 高空天麻
「心」を望んだ少年
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「心」を望んだ少年

 目が覚めると、そこは真っ白な空間だった。そんなファンタジーな展開が目の前で起きたといって信じてくれる人は何人くらいいるだろうか。

 安心して欲しい。俺もそんな事を言い出すヤツがいたら笑い飛ばすタイプの人間だ。……少なくとも、今この瞬間まではそうだった。


「どこだ、ここ……」


 あまりにも白すぎて、目がチカチカするのを通り越してめまいを感じる。途方に暮れそうになりながらも、360度グルッと見回す。すると、遠くに白以外の何かが見えた。

 思いっきり走りながら目を凝らす。すると、遠くに見えたそれは存外に近くにあってすぐに正体が知れた。

 そこにあったのは、真っ赤な三人掛けぐらいだろうか、かなり大きめのソファに、同じようにかなり大きめの薄型液晶テレビ。そして、そのソファにかなり行儀悪く腰掛けた男性。画面に魅入っているようで、こちらからは顔が全く見えない。


「あの、すいません!」


 どういう人物か、なんてわかる訳もないが、今は藁にもすがりたい気分だ。これでいきなり死亡エンドになったとしても、全く何もせずに餓死エンドよりは全然マシだろう。

 俺の言葉に、男の肩がびくりと動いて首がこちらを向く。思った以上に若い。十代後半か、二十代前半か……三十代には絶対届いてない。鋭い切れ長の目と、それとは全く不似合いのゆるんだ口元が印象に残る青年だった。

 こちらを見た青年の顔がぱっと明るくなる。振り向いた直後のとても退屈そうな表情と変化が激しく、一瞬絶句した俺の事など気もせずに、彼は口を開いた。


「おお、気がつかなかった!ごめんね、こっちの方を見てるのに夢中になってて君が迷い込んだのがわからなかったんだよ〜!!」


 テレビを指さしながらニッコリ微笑んでそう言う。よいしょ、と言いながらソファから立ち上がってこちらに駆け寄ってきた。


「まあま、座って座って!いやぁ、お客さんが来るのはいい事だね!特に、これまで来た事のない人と喋るのが一番の楽しみなんだよ〜!!」


 そういって、彼が指を鳴らす。すると、これまで何かのドラマを映していたテレビが融けるように消え去って、代わりにその場所に彼が座っていたのと同じようなソファが現れる。


(……!?)

「はは、やっぱり驚くよねぇ〜。みんなそうなんだよ。なんかこういう事やると逆に目を輝かせてくれる人もたまにいるけどさ」


 こちらの反応に楽しそうに笑いながら彼は再びソファに身を沈めた。座りなよ、と対面のソファを指さして言ってくる。


「あ、ありがとうございます……」


 一応礼を言って、俺も座る。すると、そんなに勢いを付けたつもりもないのに、かなり沈み込んだ。体勢を崩すくらいに。どうやらそれなりに良い物を使っているらしい。


「あの、それで聞きたい事があるんですけど……」

「うん、ちょっと待ってね。よいしょっと……」


 青年がもう一度指を鳴らすと、俺の手元に微妙に白っぽい茶色の液体が入ったカフェマグが現れる。彼もカラーリングの違うマグを手に取っていた。


「コーヒーの砂糖と牛乳多めで良いよね、確か。完全に一致できてるかはちょっとわからないから、ちょっとずつ飲んでね」


 そう言いながら、彼は自分のマグを口元に傾ける。恐る恐る口に持っていって中身を少し啜る。すると、俺好みの味が一寸違わず再現されていた。


「何で……?」


 戦慄の表情で尋ねる俺に、青年は自信満面に答える。


「ん、そりゃあ僕神様だし。そのくらいは朝飯前さ♪」


(……えぇ〜)


 もの凄い勢いで自分のテンションが下がるのを感じる。鏡を見れば、おそらく死んだ魚のような目をした俺がそこにいるだろう。

 それらしいヤツが神々しいオーラを放ちながらそれを言ったなら俺でもそれを信じるだろうが、こいつが言っても全く信じられない。ドヤ顔した見た目尊さ皆無のチャラい青年に、そんな事言われても全く信じられない。


「む、何だよその目は。僕の言葉信じてないだろ〜!」

「いや、ていうかあんたそれで神様のつもりなのか……? 人間っぽすぎて信じろっていう方が酷だと思うんだが」

「だよね〜。他の奴らにも言われるんだ。僕は神の中でも階級低いからさ〜、どうしても人間の部分が残っちゃうんだ。客は多いけど、対価が少ないからさぁ」

「対価……?」


 その一言に、俺の警戒心は一気に最大まで高まった。見た事のある本やマンガでその言葉が出てきたら、大概その後バッドエンドにしかならない。

 いきなり視線が鋭くなった事に気がついたのか、自称神様はそれまでのちゃらけた雰囲気を取り去った。


「さて、そうだね。君も何もないのにここに来た訳じゃないだろうし。そろそろ本題に入ろっか?」


 スッと目が細くなり、ニヤニヤ笑いが鋭くなる。これまでのふざけた感じは消え失せ、そこには神様の名にふさわしい威圧感に満ちていた。


「君の望みを教えてよ。それを一つ、たった一つだけだけど叶えてあげるよ」

「……対価、は?」


 自分の声が掠れているのに気がついた。それほどに、今の彼の言葉は嘘には聞こえない。音が力を持って、この場の全てをねじ伏せている様な気さえした。


「対価? 簡単なものだよ?」

「魂、とか大切な人、とか……?」


 恐る恐る聞く俺に、神様は少し驚いた様な顔をしてから突然大笑いしだした。


「あっははははははははは!! そっかそっか、それでそんなに固くなってたのか! だいじょーぶだいじょーぶ、僕はそんなめんどくさい物はいらないよ?」


 言って、彼は目元に浮かんだ涙を拭う。


「僕が君に望むのは、そんなにたいしたことじゃないさ」


 彼は再びにやついた様な笑顔になりながら、言葉をつなげた。


「僕は君の願いを一つだけ叶える。その代わり、僕に君の人生を見せて欲しいんだ」


 にやついた顔に戻ったせいか、うさんくささが爆発している。いや、それすらも狙っているのかもしれない。どうにも、こいつを信じるという選択肢自体が浮かばない。


「あんた、神様なんだろ? 俺の人生なんて見てどうするんだよ。普通すぎて退屈にもほどがあるぞ」

「いや、それは当人だからそう思うんだろうけどね。端から観察してると、これほど面白いモノもないんだ。人間よりずっと上位だと勘違いしている他の神達なんかよりも、ずっとずっと、ず〜っと、ね」


 目の端に浮かんだ涙を拭いながら、彼は言う。それなりに必死に生きているこっちとしては腹が立つ発言でもあるのだが、それ以上に気になる部分もあった。


「他の神様? そういえば、さっきも言ってたな。あんた以外にもいるのか、神様ってヤツが」

「ん〜、いるよ? それぞれの分野で人間に力貸しては、ぼったくり同然に対価を奪ってる奴らが、わんさかと」

「タチ悪いな……。ちなみにどういう分野で?」

「一番力持ってるのが『叡智』かな。その次に『勇猛』か『好色』辺りが来てたと思うよ」


 その答えに思わず吹き出しそうになる。叡智、ようは知識だろうか。知識と力がトップに来るのは予想したとおりだったが、まさかエロ関連の神がそこまで上にいるとは思いもしなかった。


「エロは強し、なんだろうね」

「悔しいがその通りだろうな。お前は何なんだよ?」

「僕? 僕は簡単だよ。『空想』。君たちが思い描く、でも叶える事が出来ない、そんな願いを叶える何でも屋みたいなポジションさ」


 そう笑いながら言うが、彼としては知識なんかよりも青年の方が圧倒的に強い力を持っている様な気がしてならない。何せ、『空想』を司るのだ。この地上に人間は約六十億人存在するという。それら一人一人が抱く『空想』を全て叶えられるというのだ。きちんと対価を要求すれば、どんな分野を司っていようが勝てそうもない様に思うのだが。


「お前、何でそんな対価で満足してる訳?」

「はは、それも結構言われるよ。でもさ、対価を要求して莫大な力を手に入れたからって、それで何になる? 他の神にはバカにされるけどさ、少なくとも他の奴らみたいに力を手に入れては殺し合って楽しんでるよりも僕としてはこの生活の方が楽しいのさ」


 そう言って微笑む青年は、嘘をついている様には見えなかった。誠に不本意だが、信じるに足る……とまでは行かなくとも信じないという選択肢が失せるくらいには。

 その雰囲気を見て取ったのか、神様(自称)はフニャリとゆるんだ笑みに戻って、もう一度言う。


「さて、じゃあ心の準備はもういいかな?」


 小さく頷き、俺は心の底に眠るたった一つの、人に話す事自体がはばかられるような願いを告げる。


「       、         」


「ふぅん……。ああ、やっぱり人間は面白いなぁ、生きててよかったって、こう言う時に思うよ」


 くすくす笑って、彼は両手を広げた。


「さあ、じゃあ契約を結ぼう。僕が君の願いを叶える代わりに、僕は君の人生をのぞく。願わくは、君の望みが僕にも君にも素晴らしいひとときを与える事を……」


 言葉と同時、両手に黒と白の光が輝いて世界を包み始める。あまりのまぶしさに目をつぶると、そのまま世界が暗転し、地面がゆがんで立っているのか倒れているのか、それさえわからなくなっていく。


「……さあ、それでは新しい人生をお楽しみに☆」


 その言葉とともに、俺の日常は幕を閉じた。




 好きな子がいる。

 小学校三年生の時に、一緒のクラスになってからずっと同じクラスで、ずっとずっとそばにいた少女。高校もなぜか同じで、それを知った時に平静を装いながらも心の中で思いっきりガッツポーズをしていた。

 告白するようなチャンスなら、いくらでもあった。例えば体育祭のリレーで一位をとって褒められた時、例えば同じ高校に進学することが決まった時。上げようと思えばいくらでも出てくる。幼馴染で、よく一緒に遊んでいたのだから、二人になった時に言う事だっててきたはずだった。


 じゃあ、なぜ言わなかったのか?


理由を問われれば、とっさに答える事なんてできやしない。でも多分、言う勇気がなかっただけなんじゃないだろうか。自分の好意が相手に向いているのは確かだけれど、相手が自分の事をどう思っているかなんてはっきりと言う事は出来ない。

断られてしまったらどうしよう、彼女のことが好きだけど彼女がこちらを好きでなかったら……確実に今の心地よい関係は崩れ去ってしまう。そう考えるだけで、体がまるで石になってしまったように動かなくなるのだ。


 そんな高校生としてはごく普通な、しかし当の本人からすると世界にも匹敵するような大問題を抱えながら、日々を過ごしていた。


 そんなある日、自称神様を名乗るアイツに出会った。一つだけなら、何でも望みを叶えると囁く、ふざけているような笑みを常に浮かべた、アイツに。

 他人に、しかも神様と名乗るどこからどう見ても妖しいヤツの力を借りる、なんて普段の俺だったら絶対にしなかっただろう。

 でも、あの時はなぜかそんな気分にならなかった。

 ……自分でも、今の状況にうんざりしていたんだ。動くべきだとわかっているのに、動かずに今の心地よさにずるずると浸っている事に。


 そうして、俺は一つの願いを呟き、力を手に入れた。

 その先にどんな未来が待っているのか、そんな事を想像する事すらせずに。





ケータイのアラームに導かれて目を覚ますと、いつも通りの自分の部屋の天井が見えた。

体を起こして、辺りを見回す。変わったところは特にない。少し雑然としている、自分の部屋だ。

所詮夢だったのか……。そう思った途端、全身に違和感が走った。昨夜までは一度も感じたことのないような妙な力が体の奥底から湧き上がってくる。正体を探るべく、目を閉じて深呼吸をしていると、頭の中で声が響いた。


『ああ、繋がったみたいだねぇ……。ちなみに先に言っておくけど、この声は君に力を渡す際に録音してるから、質問を受け付けることはできないよ。……さて、じゃあまずはその力の使い方を教えていこうか』


そんな声。それは、間違いなくあのムカつくニヤケ面の神様のもので。


「夢じゃ、なかったのか……」


思わず、そう呟いた。壁に体をもたせかけ、ズルズルとベッドの上に崩れ落ちる。自分は何かとんでもないものに触れてしまったんじゃないだろうか、そんな思考がじわじわと頭の中に広がっていく。

普通という範囲の外にあるモノに手を出してしまった、そんな感じが体に蛇のように絡みついて離れない。


『やめておくかい?』


そのタイミングで再びアイツの声が響いた。そこには、少し嫌味の聞いた声音が混じっている。


『怖じ気付くのは悪くないよ。むしろ、それがヒトとして正しい反応さ。普通でない何かに触れた時、本能はそれを拒絶する。それが普通だ。……どうする? やめておくかい?』


体が震えるのがわかる。怖い。

しかし、それは未知に対する恐怖じゃない。それも多少はあるかもしれないが、この震えは可能性が失われることへの恐怖だ。目の前に開かれた、これまでとは全く違う未来が見えるかもしれないのに、その可能性が奪われることが恐ろしい。

グッと腹に力を込めて立ち上がった。

もうすでに普通ではない領域に足を踏み入れてしまったのだ。どうせなら、行けるところまで行き切ってしまおう。そんな風に考えながら、手を強く握る。


『決めたようだね。それじゃあ、まずは力を起動するところから始めようか。掌を上に向けて、リラックスしながらそこに意識を集中させるんだ。そうすれば、君に上げた力が望みに引っ張られて目覚めるから』


言われた通りに、一度身体から力を抜いて深呼吸をし、腕を突き出して掌を上に向けながら目を閉じる。息を、深く吸って、深く吐いてを繰り返しながら、ひたすら脳裏にあの子を思い浮かべる。

髪型も、瞳も、唇も、体付きも、いつも着ている制服も、全く労せずに思い浮かぶ。ずっと前から好きで、昔から一緒にいるのだから、その程度は容易い。

意識が集束するにつれ、体の奥底から力が湧き上がり、


ドクン、と拍動のような音を立てて、俺の手の中に光が生まれた。


「これが……?」

『おめでとう。それが、僕の力と君の望みが合わさったことで生まれた力だ。あとはそれを、望みの対象に向けて、一言唱えるだけで力が発動する』


もったいぶるように一呼吸置いて、彼は告げる。


『ドライブ……とね』

「空想の加速(ドライブ)……ね」


何で英語なんだよ、と思わず突っ込みそうになるが何せ相手は神様(自称)だ。その程度のことは突っ込む方がバカらしいと言えるだろう。


『さて、今言うべきはこんな所だろう。……それでは良い人生を』


そう言って、何を聞く暇も与えないまま声は消えた。同時に、手の中の光も音も形もなく消え失せる。

静寂の中で、ようやっと俺の思考は状況をわかりやすく整理するために動き始めた。とは言え、わかったことといえばただ二つ。

一つは、彼が夢だと思っていたモノは夢ではなかった、ということ。

もう一つは、彼は自分の望みを叶える力を手に入れた、ということ。

その代償に、あの神様はこれから一生俺の人生を好きな時に覗けるようになったらしい。が……


「……やっぱいくらなんでも釣り合ってないように思えるんだけどなぁ」


こちらが求めたモノと、あちらが求めたモノが、等価になっているとはどうしても思えないのだ。こちらが自分の望みを叶えてもらうならば、少なくともこちらもあちらの願いを叶えてやらなければならないはず。

それが等価交換、のはずだ。


「いやまてよ?」


もし、この取引がアイツにとってはそれだけの価値があるのだとすれば、どうだろうか。もしそうだとすれば、契約は完成する。こちらもあちらも、自分が持っているもので取引をしているのだから。

だが、もしそうだとするならば。


「アイツは一体……?」


しかし、思考はそこで途切れた。部屋のドアが、ドンドン! という音を立てて叩かれたからだ。


「お兄ちゃん、起きてる~?」

「あ、ああ。起きてるぞ」

「ん~、ならいいや~」

「おう、ありがとう」


妹が、部屋から出てこないのを心配してくれたらしい。時計を見れば、確かに少しやばい時間だった。急いで着替えて部屋を出て、階段を降りていく。

気付くと、心臓がいつの間にか高鳴っていた。

もしかすると、本当に自分の願いが叶うかもしれない。そう考えるだけで、いつの間にか準備をする手が早まっていた。

結局、いつもより少し早めに家を出る。逸る足を抑えて歩いていくと、駅に続く十字路であの子が待っていた。


「おはよう、優也。今日は珍しく早いんだね」

「はよーさん、優香。たまにはいいだろ?」


いつもこうだといいのに、そう悪戯っぽい笑顔で言う優香を見るだけで心が軽くなるのだから、相当な重症だ。医者にかかれば、無言で首を横に振られるだろう。

先生の悪口や、くだらない冗談を言い合いながら駅までの道を歩いていくと、何気ない口調で優香は言った。


「そういえばさ、美希と勇太やっぱり別れたって」

「……いつ聞いたんだ?」

「昨日の夜。美希からメールがあったの」


そっか、と言って深く息を吐く。美希も、勇太も、中学校時代からの友達だ。優也と優香のように、美希と勇太もまた小さい頃からずっと仲が良くて、ツーペア四人でよく遊んでいた。

奥手気味の優也に対して、勇太は正に勇ましく、彼は美希に中学二年の夏に告白して付き合うことになった。

よく勇太に、「優香のことが好きなら、きちんと言わないと損するぞ?」と言われていた。

二人とも、見ているこちらがうんざりするほどに仲が良く、十八になったら結婚したい、とまで言っていた。だが、勇太は卒業したら海外の大学に行きたいと言い出して、地元に残ることを決めていた美希と衝突するようになってしまった。

二人の溝は少しづつ広がっていき、別れようという話が出たのが一週間ほど前だっただろうか。勇太も美希もボロボロで、一年ほど前までの仲睦まじい恋人二人は見る影もなかった。

どうにか二人の意見をすり合わせられないか、と俺も動いたものの結局できることは何もなかった。それは隣の優香も同じで、力になれないことを本気で悔しがっていた。

恋する気持ちがどれだけ強くとも、どれだけ愛する人と一緒にいたいと願っていても、うまくいくとは限らない。


(この、俺の想いだって……)


胸の辺りがズキン、と痛んだ。わかっていることを再認識させられただけなのに、不安と恐怖が心の中で渦巻いて、重石のように俺の心にのしかかってくる。

親友たちが傷ついているのに、自分のことしか考えられない心の狭さにさえ、嫌気が差す。

でも、それを表に出すわけにはいかない。

「……とりあえず、放課後にでも勇太に話を聞いてみる。美希の方は頼んでもい

いか?」

「うん。……まあできても話聞くくらいのものだけど」

「それでもいい。とにかく泥を吐けるだけ吐かせてやってくれ」

「わかった」


答えを聞いて優也は改札を通り抜けながら携帯を取り出す。目的は、言うまでもなく勇太へのメール。

『放課後、話がしたいから時間を空けといてもらってもいいか?』

 そうメッセージを送ったら、電車を降りてからの道の途中で『OK。なるべく空けておくけど、早めにしてくれると嬉しい』と返信がきた。

美希の方も応じてくれたらしく、優香はいつもより張り切っているようだった。


「美希、何て?」

「放課後に会うことになった。色々と話してくるよ」

「そっちは頼んだ」

「任せて」


小さく微笑んで、優香が握った拳をこちらに突き出してくる。それにトン、と自分の拳を当てて、優也も口元を緩めた。

この力は、少なくとも今日は使えそうにないな。そんなことを考えながら。




学校が終わると、優也はすぐに校門を出て電車に飛び乗った。

二つ向こうの駅で降りて、目と鼻の先にある大型スーパーのフードコートにはいると、勇太はこちらに気付いて手を振ってきた。振り返し、適当にいくつか食べる物を買ってからその向かいに座る。


「よ、久しぶり。元気か?」

「一週間ぶりかな。というか、その質問は俺がしたいよ」

「そっか……そうだな。悪い、ずいぶんと心配かけて」

「全くだ。心配かけやがって」


冗談めかして言い、二人で笑う。

髪を染めたり、制服を着崩したりは全くしていない優也と、髪を茶色に染め、学ランを着崩した勇太は、かなり対称的だった。好みも、性格も、全くと言っていいほどに正反対。

なのに、いやだからこそなのだろうか、会ったその日から彼ら二人は他の誰よりも仲良くなった。一度キレたら止まらない勇太だが、優也ならそこに割って入って彼を制止することができた。悩んでいて行動できないことが多い優也だが、勇太ならその優柔不断な背中を押すことができた。

一番付き合いが長いのは優香だが、俺を一番理解してくれているのは勇太だ。迷う事なくそう言える自信がある。


「別れるんだって?」

「ああ。というか、実際はもう別れた。今は、これが一番だろうからな」


唇の端を吊り上げる、少しカッコつけたいつもの笑顔で彼は言う。そこには一片の暗さも感じ取れない。

昔からこういうヤツだ。いつだって明るくて、なんでもスパッと決断できる。一度暴れ出したら止まらないが、誰かのために全力で怒る事ができる、そんな眩しいヤツ。


「もう決めたんだな?」

「おう。あいつとも二人っきりで何度も話しての結果だからな。これ以上の選択は思い浮かばなかった」


悪いなホント、そう言って勇太は頭を下げてくるが、謝られることなんてどこにもなかった。彼らは、彼らの関係を彼らで決めただけなのだから。


「謝ること、ないだろ。二人が納得してるなら、俺たちは何も言わないよ」

「スマン」

「だから、謝るなって」

「んじゃ、ありがとうな」

「ん、それなら受け取ってやる」


そんなことを言って、二人でニヤリと笑い合う。安心して吐息を吐き出すと、勇太は机の上のメロンソーダに手を伸ばしながら、聞いてきた。


「そういえば、お前と優香はどうなんだよ?」


優也の笑みが固まった。それはほんの一瞬だけだったのだが、親友の前では隠しきれる訳もない。そして、彼も見逃す気は毛頭ないようだった。

表情に心配の色を浮かべながら、勇太はソーダを口に含む。優也は手の中のハンバーガーを一口かじってから、ポツリと呟いた。


「無理だよ、俺には……」


そんな言葉に、勇太の目が細められる。


「お前がそれで納得できる、っていうならいいけどよ……。でも一応言っておくぞ?」


ソーダを机に戻し、瞳に真剣な光を宿して親友は告げる。


「行動しない者に、幸福はやってこないぞ?」


その言葉は、彼が悩んでいる時にいつも勇太がかけてくれる言葉だった。

悩んで動けないよりは、動いて失敗してしまえ。うまくいったらそれはラッキーだ。そんな風に。頼もしい笑みを浮かべながら。


「……ああ、そうだな」


何度も聞いているはずなのに、その言葉は色褪せない。

行動しなければ、何も変わりはしない。それは痛いほどにわかっている。


「わかっては、いるんだ……」


それでも、恐怖は拭えない。

もしも、失敗したら。もしもダメだったら。もし……。

そんな否定形ばかりが、頭を埋め尽くして一歩も前に踏み出せない。

今までだったら、勇太の言葉で踏み出すことができた。高校で別れてしまっても、彼の言葉を思い出すだけで、前に進んでいけた。


なのに、これだけは進めない。


視線を落とす優也を、勇太はハンバーガーをかじりながら、何も言わずに見守っていた。

自分が伝えられることはすでに伝えた。なら、考えるのも、行動するのも優也だ。彼自身が決めるべきことだ。これ以上干渉することには、何の意味もない。

もちろん、助けられるならば全力で助けるが、この二人に関してはほとんど手を出す必要すらないように思う。

ただ一歩。優也が踏み込むことができれば。


(お前が一歩踏み出せば、きっとアイツも……)


数年間見ていれば、嫌でもわかることがある。何度それを目の当たりにして、イラついたり心配してきたことか。


「頑張れ、優也」


そう、彼はうつむいたままの親友に聞こえないくらいの声で呟いた。





「行動、か……」


心なしか重い体を動かしながら、優也は息を吐いた。

勇太の行動力が羨ましい。どんな障害にも臆せずに向かっていける、その勇気がとても妬ましかった。

彼はいつだって、雄哉にとっての目標だった。

彼にはできて、俺にはできない。

その事実に、たまらなく悔しくなる。


本当に、そうなのか?


不意に、そんな声が頭の中で響いた。

本当に俺にはできないのか? 本当にそうなのか?


その声に、弱気な心は答える。

……だってそうじゃないか。アイツはとっくに自分の想いを伝えて、大事な人と一緒になっていたじゃないか。それなのに、俺は未だにこうして悩んでいることしかできていない。


確かに今まではそうだったかもしれない。でも、今は違う。


力を、手に入れただろう?


そんな言葉に、俺は目を見開いた。同時、手の中に思い出したように光が現れる。

あのふざけた神様はこう言った。望む対象に向けて唱えるだけで、もう力は発動すると。

つまり、ここで一度唱えてみる価値はあるのではないか。彼の望みを叶えるために生み出された力であるなら、誤作動を起こすことはおそらくないはずだ。


そんな叶え方でいいのか!?

そう心は叫ぶ。

力をもらって、それに頼るなんて方法でいいのか!?


だが、その声も虚しく、手中の輝きはさらに力を増す。

……そう言って、何も変わらないのはもう嫌だ。でも、失敗するのは最悪だ。

なら使おう。

卑怯と言われても、臆病と言われても関係ない。


そんなことよりも、ずっとずっと大事なことがあるのだから……!


心は定まった。

光を、祈るように顔の前に掲げ、目を閉じる。思い浮かぶのは優香との思い出ばかり。辛いことも、楽しいことも、いろんなことを分かち合って生きてきたのだから、当然かもしれない。

でも、それだけじゃもう足りない。

もっと一緒にいたい、もっとそばで見ていたい、もっと触れ合いたい、もっと話をしたい、もっともっともっと……。

そんな、独占欲や口にするのも憚られるようなドロドロとした感情が、渦を巻いて溢れ出す。その度に、光はさらに輝きを増した。

目を開き、口を動かす。

……さあ、行こうか。


「ドライブ」


カチリ、と歯車が噛み合うような音が響き渡った。手のひらの光が、フッと消え失せる。


同時、世界が変貌した。


別に、暗闇の中に神々しい天使が出現したとか、目の前に血に飢えた化け物が現れたとか、そんな目に見えてわかりやすい変化があったわけではない。路地は相変わらず少し頼りない電灯が照らしているだけで、何も変わらないまま、静寂を保っている。

だが、優也の全身は言いようのない変質に硬直していた。体を震えが何度も走り、彼は呼吸を荒くしながら何度もあたりを見回した。

本能が警告を発していた。

頭の中で朝と同じように、触れるべきじゃなかったと後悔しながらも、しかしどこか冷静に彼の思考は受け止めていた。

意識を集中させてみるが、あの光は手の中に現れない。ということは、力がきちんと発動したのだと思われる。だが、どこを探しても、何を見ても、明確な変化はどこにも見てとれない。


「……いや、あるじゃないか。確認する方法が」


小さく呟いて、彼は右手をポケットに突っ込んで携帯を取り出す。ボタンを一つ押しただけで、目当ての番号は表示された。一瞬だけ怯えるように指が震えたが、構わずに通話ボタンを押す。

耳元で数回コール音が鳴る。いやがおうにも鼓動が早まり、呼吸が無意識のうちにさらに早くなっていく。


『もしもし、優也?』

「おう。……って名前表示されてるよな?」

『えへへ、クセでかな~』

「まあいいけど。美希は?」

『明日、朝早いって言ってたから、もう帰ったよ。優也に、心配してくれてありがとうって伝えてって』

「そっか……。どうだった?」

『きちんと吹っ切れてるみたいだったよ。いつもの美希って感じ』

「なら、大丈夫そうだな。勇太もそんな感じだったから、二人で納得いくまで話し合ったんだろ」


 あの二人は、その場の勢いで別れ話をするようなことはしない。勇太も美希も、見た目はかなり軽いものの、その実かなり深いところまで考えて行動している。二人ともが納得して別れたのなら、他人が口を挟む余地はないだろう。


「俺らにできるのは、またみんなで笑って遊べる場を作るくらいだよ」

『そだね。……あのさ、優也』

「ん?」


 優香の声のトーンが変わった。突然の変化に驚いたのを悟られないように答えると、電話越しで悩むように間が空いた。


「優香?」

『ん〜……。やっぱいいや。明日登校する時に言うね』

「?? おう、それじゃあまた明日な」

『うん、おやすみ』


 電話を切って腕を下ろすと、全身が熱を帯びている事を自覚した。心臓が、ブレザーの上からでもわかるほどに強く脈打っている。

 明日の話がなんなのかと思っている部分もある。が、それ以上に俺の心を揺り動かしているのは、


(優香、かわいすぎるだろ……!)


 今まで自分の気持ちに素直に向き合っていなかった反動もあってか、ほんのちょっとした事でもとろけそうな気分になる。例えば、俺の名を呼ぶ時の少し特殊なイントネーションが、言葉を発した後のちょっとした息づかいが、本当に些細な事なのに、ただそれだけで心が乱されてしまう。

 にもかかわらず、その動揺さえもが心地よい。


「重症だなぁ、俺……」


 呟いて、苦笑を零した。

 夜風が火照った身体を通って冷やしていくのが心地よい。それでも、心はすぐに冷めそうもなかった。

 今日は良い夢が見れるかな、なんて考えながら、俺は心なしか軽やかに家路を歩いていった。




 結論、熟睡なんて出来ません。

 目を閉じて少しすると、すぐに優香が瞼の裏に現れるのだ。どれだけ溜め込んでたんだよ、と思ってしまうほどに。夢とも妄想ともつかない光景を夢に見ては飛び起きて、を繰り返していたせいで疲労が余り抜けないままに登校する事になった。

 こんな状況も、全てアイツは見ているのかと考えると、確かにそれはそれで面白いような気もする。見られる側としては、まったく心地の良いものではないが。

 大欠伸を何度かしながら歩いていくと、いつもの十字路で優香が立っていた。見るだけで心が弾むのが、何となく悔しくてならない。


「はよーさん、優香。悪いな、待たせちゃって」

「んっ、全然待ってないよ」


 せめてもの意地で、この感情を悟られないように普段の口調を意識しながら言うと、彼女は照れるようにはにかみながらそう答えた。それがまた一層かわいくて、心臓が一際強く脈打つ。


「優也、顔赤いよ。風邪気味なの?」

「え? い、いや……。何でだろうな、暑くもないけど……」


 理由はわかっているのだが、わからないフリをしながら首元を緩めて風を送り込む。優香は心配するようにこちらを見ていたが、じーっと見つめられているといろいろな意味でやばいので、「ほら、行こうぜ!」と、誤魔化すように言って歩き出した。


「待って!」


 その時、俺の右手が柔らかい感触に包まれ、その場につなぎ止められた。

 振り返ると、そこには顔だけでなく首まで真っ赤にした、しかし強い光を瞳に宿した優香がいた。


「突然でごめん……。でも、これを言わなきゃ、私このまま先に進めなくなっちゃう。だから、言うね。どんな返事でも、良いから」


 頬を林檎のように染め、少し潤んだ目でこちらを見上げて、彼女は言った。


「優也の事が大好きです。私と付き合ってもらえませんか……?」


「え……?」


 そんな突然の展開に、思考が完全に置いてけぼりになった。何を言われたのかがわからない。言葉として認識はしているのに、それを理解するのにはかなりの時を必要とした。


「あ、あのね。ずっと前から気にはしてたの。優也を見るだけでドキドキして、なのにとても幸せな気分になるんだ。それが何なのか全然わからなかったんだけど、昨日美希と話をして、ようやっとわかったの」


 顔を真っ赤にしたまま、照れたように微笑んで、優香はもう一度言った。


「私は、優也の事が大好きです」


 もう、疑念が混じる余地はなかった。

 気付いたら、俺は目の前の少女を抱きしめていた。これが夢でない事を確かめるように、強く。


「ふぇ、えええ?」


 急に抱きしめられた優香は、突然の事に対処できないのか訳のわからない事を呟いていたが、やがておずおずとこちらの背に腕を回した。それさえもが愛しくて、両手にさらに力を込める。


「優也……痛い……」

「ん。……ごめん、もう少しこのままでいさせて」

「んっ……」


 それから数分ほどが経ってから、俺はようやっと彼女を離した。ボーッとした表情の優香に、緩く微笑んで答える。


「俺も、優香の事が大好きです」


 その言葉に、優香の表情がパァッと輝いた。釣られるように俺も笑みを深め、右手を差し出す。


「それじゃ……これから改めてよろしく」

「うん、よろしく……」


 優香の手が重ねられ、柔らかく握り合う。その手の温もりも、嬉しそうな笑顔も、手から伝わってくる静かな脈拍も、目の前の少女の全てが愛おしくて。俺はもう一度優香を抱きしめた。


「……ねえ、優也」

「ん……?」

「その……してよ」

「え?」


 途中を聞き取れずに聞き返すと、優香は顔を夕日のように赤くしたまま、こちらを向いて目を閉じた。

 その意味がわからないほど子供ではない。破れそうなほどに高鳴る鼓動を感じながら、その薄桃色の唇へと近付く。

 そうして、二人の距離がゼロになった。

 これ以上ないほどに、幸せだった。




 それから、いつの間にか時が過ぎていった。

 俺と優香が付き合い始めたという情報は、一瞬で様々な方面へ広がり、多くの人間から祝福と暖かい冷やかしを、一部の過激派(主に優香の熱狂的なファン)から襲撃を受けた。

 一番面倒だったのが親だ。小さい頃から俺たちの仲が良い分当然親同士も仲が良く、付き合い始めた翌日に我が家で二家族による宴会が開かれたほどだ。

 俺たち二人はいわゆる両片思いだったらしく、優香の父は「ようやっと結ばれたか」と安心したように呟いて、嬉しそうに酒を飲んでいた。「ちょ、お父さん!?」と優香が涙目で止めようとしたが、場をさらに盛り上げただけで特に効果はなかった。

 酒の肴に弄られる事に耐えながら、俺たち二人は「早く終われ、早く終われ、早く終われ……!」と祈るしかなかった。

 勇太は「やれやれやっとだな」と言って苦笑し、美希は「優香を泣かしたら許さないわよ?」と針を刺してから、二人ともおめでとうと自分の事のように喜んでくれた。

 二人は別れてからも相変わらず仲が良く、むしろ付き合っている時よりもいちゃつきまくっていた。


 男女として結ばれたのは、それから三ヶ月後。クリスマスの夜だった。

 計ったように両家が旅行に出かけ、俺と優香だけが家に残されたのだ。二十三日から二十六日までいないというのだから、あからさまにもほどがある。しかし、優香はそうなる事を知っていたのか、随分と前から準備していたらしい。

 二十五日の夜にミニスカサンタの優香がトロンとした瞳でこちらに迫ってきた時、俺の理性は完璧に崩壊した。まるで夢のような一夜だったが、決して夢じゃない事は俺の部屋のベッドシーツに染み付いた真っ赤な跡が証明している。

 優香は必死に落とそうと奮闘していたようだが、漂白しても手洗いしてもなぜかそのシミだけは落ちず、涙目で格闘している彼女を必死になだめて結局そのままになっている。


 俺たちの仲は、ずっと順調だった。

 互いに小さい頃から知っているので、お互いの良いところも悪いところも、得意な事も苦手な事もわかり合っている。好きな物も、嫌いな物も知っているし、いろいろな事を二人でずっと経験してきた。

 多少のすれ違いはあっても、大きな諍いは殆どなかった。俺自身、そんな小さなケンカはこれまでも何度もあったのでそれほど危機感は抱いていなかったし、何より優香も楽しそうに笑っていた。


 だから、俺は大事な事をいつの間にか忘れてしまっていた。

 だから、俺は大切な物に気付く事が出来なかった。

 いつだって、答えはそこにあったはずなのに。




「優香……?」


 ある夜、ふと目を覚ますと隣で寝ていたはずの優香がいなくなっていた。いつも彼女が寝ている場所はすでに冷たくなっている。ある程度時間が経っているらしい。


(……アレの周期か? いや、まだもうちょい先だよな。……風呂かね)


 あくびをしながらベッドから降りると、ベランダ側の窓が開いている事に気付いた。満月のせいか、外はかなり明るい。閉めようと手を伸ばしたところで、俺はそれを見た。


 西に傾き始めた満月を静かに見つめる、美しい少女を。


 普通だったら、彼女が優香だと一瞬で気付けたはずだった。なのに、気付けなかった。それほどに、普段の彼女とあまりにも違いすぎた。

 月光の下に立つ少女は物憂げな色に沈んでいる。ただボンヤリと月を眺めるその瞳は虚ろで、眼前の円を本当に見ているのかどうかさえ怪しい。その柔らかい頬には、一筋の線がくっきりと刻まれていた。


(泣いてる……?)


 初めて見るそんな表情を、俺は吸い込まれるような感覚さえ覚えながらただじっと見つめていた。

 綺麗だった。ゾッとするほどに美しかった。この子が本当に俺の彼女なのかと信じ切れないほどに、月下の優香は美しかった。

 だが、同時にそれは俺が知らない少女だった。

 彼女が泣いた事は一度なんかじゃないし、それを慰めてきたのはいつだって俺だった。嬉し涙も、悲し涙も、その全てを俺は見てきたはずだった。

 でも、あんな表情は見た事がない。あんな涙を俺は知らない。


 じゃあ、俺はアイツの何を知っているんだろう?


 そんな疑問が頭に浮かぶ。

 その問いに、答えはすぐさまいくらでも浮かんできた。アイツは俺の幼なじみで、今は彼女で、笑うととてもかわいくて、泣き虫で、友達思いで、甘い物が大好きで……。


(でも、アレは知らない)


 その一言に、俺は足下がぐらつくような感じを覚えた。今まで信じていた物が、全部壊れていくような気さえした。


「風邪ひくぞ、そんなカッコじゃ」


 思考を表に出さないようにしながら、声をかけて薄い毛布を肩からかけてやる。それに優香は「……ありがと」と小さく呟いただけで、こちらの顔を見ようとはしなかった。


「どうかしたのか?」


 隣に立って、手すりに上半身をもたれかけながら尋ねる。いつも彼女は尋ねればつっかえながらでも答えてくれるから。

 ……いつもなら、そうだった。


「……わかんない」


 答えは、そんなそっけない物だった。


「何かいやな事でもあったのか?」

「ううん」

「じゃあ、俺が何かしでかしてたか?」

「ううん」

「なら……」

「わかんないよ」


 優香がこちらを向いた。虚ろな瞳のまま、わずかにためらうような素振りを見せてから小さな声で言う。


「……私は幸せだよ。勇太も美希もいるし、学校だって楽しい。何より、私には優也がいる。優也に告白した時のまま優也の事が大好きだし、もっとずっと傍にいたいって思い続けてる」


 でもね、と視線を落として、見知らぬ少女は続けた。


「心の中で声がするの。『それは、本当の気持ちなの?』って。優也が好きになればなるほど、どんどんその声が大きくなっていくの……」


 ……辛いよ、優也。


 そう、彼女は言った。それに、俺は足下が消えて、どこまでも落ちていく気がした。


 堪えきれずに涙をこぼす優香を抱きしめて、何度もごめんと呟いた。何に対してかはわからないが、それでも言わずにいられなかった。

 十中八九、彼女を苦しめているのは俺の望んだ力だから。

 俺があのにやけ面の神様に願ったのは、『優香の心をこちらに向ける』こと。それに対応した力を発動させ、俺は優香と付き合う事になった。……優香の気持ちなんてまるで関係ないままに。

 力によって強引に上書きされた彼女は、これまでの心と付け加えられた心とがせめぎ合って少しずつ消耗していたのではないだろうか。彼女が聞いていた心の声は、彼女自身の元々の心だと推測できる。

 それが意味するのはすなわち……。


(俺が、優香を傷付けてる……)


 届かないと思っていても、望まずにはいられなかった。足りないとわかっていても、願わずにはいられなかった。だから、俺はズルをした。

 そんな自分の弱さが、彼女を傷付けるとは考えもせずに。


 今も、俺は弱虫なままに自分が傷付く事から逃げている。なのに、優香は『違う、優也のせいじゃないよ』と否定して、俺が謝る事にさえ顔を歪めていた。

 まったくもって違わないのに。最初から最後まで俺のせいなのに。俺がばからしい願いを叶えたせいで、君はそんなに傷付いているのに。


(……どうすればいいんだ)


 最善手はわかっている。今すぐに力を解除して、優香に全てを話す事だ。それが最高最速最善の一手。それがわかっているのだから、今こうして悩んでいるのは決して優香のためではない。始めから終わりまで、自分のために過ぎない。

 どうすれば、自分が一番傷付かずに済むのか。どうすれば、俺は一番辛くないのか。どうすれば、どうすれば、どうすれば……。

 そんな思考だけが頭を埋め尽くしていく。そんな自分の汚さに吐きそうなほどの嫌悪を感じながらも、思考は留まることなく演算を繰り返していた。


「ホント、ごめん……」


 そんな中、俺に出来るのは痛みに嘆く大切な人を抱きしめるだけだった。

 ……その痛みさえ、俺のせいだというのに。




 そうして、何もしないままに一週間が過ぎた。

 あの満月の夜以降、優香は精神的に疲弊していった。まるで心の声に抗うように俺に抱きつき、内の空白を埋めようとするかのように毎夜俺を求めるようになった。

 欲望をむさぼり尽くし、疲弊と快楽の果てに涙を浮かべて寝付く姿はまるで小さな子供だった。

 口数は減り、かつての明るさはどこかへ隠れてしまっている。毎夜の行為と心痛のせいで、目の下にはかなり濃いくまができてしまっていた。痩せた頬と相まって、その表情からは生気が感じられない。

 俺も、この一週間で五キロ減っていた。優香も多分同じくらい、いやもっと減っているかもしれない。


「どうすりゃ、いいんだろうな……」


 ベッドの上で、壁にもたれかかりながら呟いた。もう、何度も繰り返した問いかけ。永遠に答えが出ないんじゃないかとさえ思う質問。

 目を閉じて横になると、鋭い香りが鼻を通る。俺の臭いと優香の匂いと、交わった時に生まれる獣のような臭気。以前ならそれだけで昂ぶる物を感じたのに、今は冷ややかな思いだけが脳裏をよぎっていく。

 答えそのものはわかっているのに、どうしてもそれを受け入れられずに悩み居続けている自分の弱さに俺自身疲れ切っていた。目を閉じてもドロリとした浅い眠りに誘われるだけで、回復からはほど遠い状態にある。

 いい加減、悩むのにももう飽きてきた。だが、それでも傷付きたくはない。

 そんな腐りきった思考に沈んでいると、枕元の携帯が震えた。見れば、勇太からのメールだった。


『よう、何か面倒な事になってるみたいだな?』


 そんな、短いながらもこちらの事を理解しきった文に、思わず涙がこぼれそうになった。


『悪い、ちょっと面倒な話なんだが、聞いてもらって良いか?』

『おうよ、どんと来いってんだ』

『神様に出会ったんだ。空想を司る神様に』

『……本気か?』

『ああ、本気だ』

『……ほほう、んで?』

『願いを叶えてもらった。俺のこれからの人生を見せる事を対価にして』

『……対価安すぎじゃないか? 何を願ったんだよ?』

『それは俺も思ったけどな……。 笑うなよ?』

『笑わねぇよ』

『優香の思いをこっちに向けて欲しい、って』

『……すまん、かなり笑った(爆)』

『知ってる。今の返信だけやたらと遅かったからな(怒) それで、願いは叶ったんだ。ただ、そのせいで優香を傷付けてる』

『悪いって。そんな怒るな。 んで?』

『……どうすりゃいいんだろうな?』

『つうかよ、そうやって聞いてくる時点でお前の中でもう答えが出てるんだろ? だったらその通りに動けばいいんじゃないのか?』


「……それはわかってるんだよ。でも……」


 そう小さく呟いて、俯いた。

 答えなんてとうの昔に出ている。でも、それ以外の方法はないのか? 誰も傷付かなくて良いような、そんな方法は何か……。

 そんな思考に釘を刺すように、まだ返信していないのに再度着信音が鳴り響いた。


『誰も傷付かない方法を、とか考えてるなら筋違いだぞ。現に今、優香は傷付いているんだから』


 知らぬ間に拳を握っていた。

 そこにさえ思考が行かない自分自身を、思いっきり殴ってやりたかった。

 今、こうしている間にも優香は傷付いているというのに。


『勇太。……俺ら、別れるかも』


 その文を打つ指に、もう迷いはなかった。

 震えてこそいるものの、もう心は決まっていた。


『そしたら、俺がガッツリ慰めてやるよ』

『頼む。ちょっと行ってくるわ』

『行ってこい。悔いを残すなよ』


「悔いを残すな……か」


 その文を口の中で呟く。外に行くための服に着替えてから、もう一度携帯を開いた。

 今度の用途は、メールじゃない。


「もしもし、優香か? あのな……」


 決戦の合図だ。




「久しぶりだな、ここに来るのも……」


 俺がいるのは、家から十分ほどの所にある公園だった。当然、優香の家からも近いので、良くここで夜遅くなるまで遊んでいたものだ。

 あの時は本当に楽しかった。優香と一緒に遊んでいるだけで、何もかもが輝いて見えていた。それは中学の時も変わらなかったのに。

 いつからだろう、優香への思いが変化していったのは。


「……勇太と美希が付き合い始めた時、か」


 あの二人が、俺と優香の関係よりもさらに深い関係になっていくのを見て、羨ましくなったのが大きい。羨ましいけど、俺には告白するだけの勇気もなかった。そうしているうちに、いつの間にか思いだけが大きくなっていって。

 そんな時にあの神様に会った。

 そうして、ズルをした。

 そうして、自分からチャンスを取りこぼした。


「っとにバカみてぇ……」

「何が?」


 振り返ると、そこに優香が来ていた。


「悪いな、急に呼び出して。大丈夫か?」

「うん。どのみち、後でそっちに行こうと思ってたし。……懐かしいなぁ」


 表情を和らげて公園を見渡す彼女の視線を追う。

 忘れるわけもない。今でも、昨日の事のように思い出せる。一通り見回したあとで、聞いてきた。


「それで、どうしたの?」


 深呼吸をして、俺は優香の前に立った。心は決めたのに、いざ言い出そうとすると難しい。


(告白の時に、この想いをするべきだったな……)


 心中で自重しながら、強張る唇を動かして言う。


「……大事な話があるんだ」


 そう切り出した瞬間、優香の表情が悲しげに歪む。


「別れ話?」

「違う。……事によっちゃ、もっと酷いかもしれない」


 首を小さく横に振り、続ける。


「俺は、お前に一つだけ言っていなかった事がある」


 優香の表情がいぶかしげに歪んだ。


「今から話す事は、全部本当だ。どんなに突飛でも、どんなにバカらしいと思っていても、それは全部本当の事だ。それを理解していて欲しい。……良いか?」


 彼女が頷くのを確認してから、俺は重い口を開いて語り始めた。

 それは、とある恋の物語。

 それは、とある後悔の話。

 始めから終わりまで、留まることなく余すことなく、全てをさらけ出していく。好きだと思っていながらもそれを言う事が出来なかった事、そんなある日神様と名乗る存在に出会いある力をもらった事、その力を使って優香の心を無理矢理にこちらへ向けた事……。

 話せば話すほどに、自分がどれだけ自分の事しか考えていなかったのかを痛感させられる。優香の事を大事だと言いながら、優香の気持ちなんて一瞬たりとも考えてない。

 呆れを通り越して、笑いが込み上げてきそうだった。

 話が話だけに、笑う事なんて出来そうにもなかったが。


「これが……俺のした事だ」


 そういって、話を締めくくった。

 目の前の少女は、悲しみと怒りの入り混じった暗く沈んだ表情に染まっている。


(本当、俺は一体何がしたかったんだろうな……)


 内心で息を吐いた。こんな表情をさせたかったんじゃないのに。もっと近くで彼女の笑っている顔を見ていたいと思っていただけなのに。


 ズルをするから、こうなる。


「今の話、どこまで本当なの……?」

「全部、さ」

「でも……」

「信じられない?」


 コクリ、と首を縦に振る優香を見て、場違いにも笑ってしまいそうになる。信じられないのも当然だ。こんな話を聞かされて、何もないのに信じるようなヤツがいたら、俺だってそいつをおかしいと思うだろう。

 だから、その話が真実だという証拠も用意している。


「じゃあ、これを見てくれ」


 左手を彼女の前に突き出し、少し意識を集中させる。すると、淡い白の光を放つ球が掌に現れた。

 それは白い、どこまでも真っ白な欲望の欠片。それを愛おしむように二、三度手の中で転がす。一瞬だけ、未練のような何かが脳をよぎるも、目の前の少女を見てあっさりと砕け散った。


「ドライブ、ストップ」


 呟いたと同時、バキリと何かが砕ける音が響き、その瞬間手の中の光が幾千・幾万の細片となって消滅した。

 それは、神様に教えてもらった呪文。

 俺が望んだ力の一切を手放すための言霊。

 これで、優香を惹いていた力も消滅した。ここで俺が出来る事はただ一つ。優香がどうするかを、何も言わずに受け入れる事だけ。


「もしかして、今のが……神様の力……?」

「……ああ」

「今ので……私の心を……?」

「……そうだ」


 酷いよ。


 そう呟いた優香の目は虚ろで、表情は言いようのない感情に歪んでいた。


「私、優也の事本当に好きだったんだよ? ずっと前から好きで、好きだったからキスとか……初めても優也としたのに……全部、ニセモノだったってこと……?」


 何も言えず、ただ彼女を見つめているだけの俺を、優香は憎悪さえ込められた視線で睨み付けていた。


「最ッ低……ッ!」


 初めて投げかけられたその感情に、俺はどうしてか驚くよりも、初めて見る物への興味が勝っていた。


(コイツも、こんな顔するんだ……)

「……ごめん」

「……もう話しかけてきたりしないで。メールも、電話もしてこないで……」

「……ああ」


 泣きそうな声で言い捨てて、優香は逃げるように走り去った。俺は、手を伸ばす事も出来ないままに、一人ポツンと取り残されていた。どこに行く気も起きず、何をする気にもならないで、ただ近くにあったベンチにもたれ込む。


 終わった。

 そんな感じが、頭の中を侵蝕していた。

 目を閉じれば今でも彼女と過ごした日々が簡単に蘇る。でも、それは今までよりもどこか遠い気がした。もう、二度と戻れない事がわかってしまったから。


「よう、終わったか」


 視線を上げると、そこにはいつも通り少しにやけた表情の勇太が立っていた。


「どうよ、振られた気分は?」

「ああ……」


 少し考えるように視線を逸らし、フッと微笑んで答えた。


「悪くはない……かな。まあ、あのまま嘘吐いているよりはよっぽどね。ただ、アイツは……」

「ああ、安心しろ。あっちは今美希が行ってくれてる。お前が今行っても逆効果だろうからな……。まあ、とりあえずなんか食いに行こうぜ。もっぺんアタックかけるのか、別の子にするのか、その辺も含めてそれからだ」


 ニヤ、と唇の端に笑みを浮かべて、勇太は公園の外に出て行った。

 後を追おうとして振り向くと、夕日の中に輝く公園で子供が二人遊んでいた。

 女の子の方が元気に走り回り、男の子がそれを「待ってよ!」と叫びながらそれを追いかけている。


 アレって、俺と……?


 信じられないように目を見開き、一度瞬きをするとその二人は消えてしまった。足音も、姿も、楽しそうな声も、一瞬で。

 幻だったのだろうか。そんな考えがふと頭をよぎるが、ゆるゆると首を振ってそれを追い払う。今それを考えても何もならない。考えるべきは、これからの事だ。

 もう一度、縋るように目をやる。でも、そこには誰もいない。

 もう、誰も。


「……さようなら」


 何に対してか、誰に向けてか、それもわからないままに呟いて、俺はその場を後にする。



 そうして、俺の初恋は終わった。




「ふぅん……。こんな道を選ぶのかぁ、やっぱ人間は面白いなぁ」


 言って、青年は微笑んだ。

 机に置かれていたグラスを手にとって、一気にその中身をあおる。実際、彼には飲食の一切が必要ないものだが、その習慣は気に入っていた。

 特にこの、ブドウを発酵させた飲料(ワイン、だっただろうか)は彼のお気に入りだ。


「これまで何百人、何千人とみてきたけれど……何でみんな全然別の道を選べるんだろうなぁ。僕には理解できないよ」


 そういう青年の微笑には、若干の羨望が混じっている。それに気付かないまま、彼はぐぐっと背伸びをした。


「さてさて、この子はもう僕の力を返してしまったし……もうこれ以上は見れないな。また別の子を……」


 と、そこで彼は後ろに立った気配に気付き振り向く。

 そこに立っているのは、見知らぬ少女。

 その子に、青年は心からの笑みを浮かべ、こう言った。


「ようこそ、僕の世界へ。さあ、君の望みを教えてよ。その代わり……」




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