「存在」を望んだ少女 9
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「お疲れ様〜」
「お疲れ〜」
口々にそう言い合いながら、私達は更衣室に入った。
今日もハードな練習だった。その証拠に足は震えそうになっているし、体はベッドに転がったらもうそのまま寝てしまいそうなほどに重い。
手早くタオルを取り出して、全身の汗をくまなく拭おうとする。けれど、運動着をぐっしょり濡らしてなお体に張り付いたままの水滴は、予想以上に量が多い。
これなら、一回全部脱いでシャワーを浴びた方が早そうだ。
(ん〜、でも替えの下着持ってないんだよねぇ……)
悩ましいところだ。
このままでいるのは気持ちが悪い。けれど、シャワーに入ってもう一度この下着を履くのも、なんだか躊躇われる。
どうしようかと悩んでいると、首筋にヒヤリとした何かが押し当てられた。
「わあああああああ!?」
「あははは、毎回良い反応してくれますよね、先輩ってば」
首を抑えながら振り返る。
そこにいたのは、予想通りの人物だった。というか、こんな悪戯をする人間なんて、この部には一人しかいない。
「理恵、やめてって言ってるでしょ!」
「ニヒヒ〜、いやぁ冷たい物を持ってる時に、無防備な先輩の後ろ姿とか見せられたら、我慢できませんって〜」
「あんたねぇ……」
必死の抗議などどこ吹く風で、そんなことを言ってくる。
彼女は同じバスケ部に所属する、後輩の理恵。一年生ながらも非常に能力が高く、私や他の二、三年生に比べてもなんら遜色のないスーパールーキー。
こんな風に悪戯好きでお調子者の一面も持っており、でもどうしてか憎めないかわいい後輩でもある。
警戒を解こうとしない私に、理恵はニパッと笑いながら両手を合わせて頭を下げてきた。
「すいませんって、彩花先輩。このジュースあげるんで、それで勘弁してくださいよ〜」
「だからさ……あんたいつも言うけど普通に渡しなさいって……」
どっと疲労感の増した声で言いながら、キンキンに冷えたジュースを後輩の手から受け取る。
悪戯をしてきたりはするものの、理恵は基本的に周囲へ気を配れる子だ。渡されたドリンクは私の一番好みの物だし、部活終わりで喉も渇いていたからちょうど何か飲みたいタイミングでもある。
内心で礼を言いながら、プルタブを開けて缶を唇へ付ける。
中の飲み物が喉を通ろうとした瞬間、理恵は満面の笑みでこう言った。
「ちなみに、飲み口は理恵がターップリと愛を込めてキスしておきました! これで間接キス成立っすね、先輩!」
「んぐっ!?」
口の中の飲み物を吹き出しそうになった。
慌てて止めようとしたけれど、口の中で吐き出しそうになった飲料を止めればどうなるかは、説明しなくても大丈夫だろう。
思いっきりむせ返りながら理恵の方を睨みつける。
「あ〜、もう何してるんすか、先輩」
言って、理恵がこちらに寄ってくる。
身振りで何もするなと言おうとしたけれど、そんなもの意にも介さず近付いてきて、私の口元へと手を伸ばしてきた。
ツツ、とその細くて白い指が私の顎から喉元にかけてをなぞって、口元から溢れた雫をすくい取った。
その慣れた手付きと、唇に浮かべた妖艶な笑みに、背筋にゾクリと妙な感覚が走る。そんな様子を見上げながら、理恵は猫のように悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
チョコンと立てられた指はしっとりと濡れていて、それがまた妙な色香を漂わせている。
「あれぇ、先輩ってばなんで顔を赤らめてるんですかぁ?」
ニヤニヤしながら、そんなことを言ってくる後輩に、無言のままチョップを振り下ろす。これは流石に予想していなかったのか、理恵は額を抑えて呻いていた。
フフン、いい気味だ。
「な、何するんですか〜!」
「あんたがバカなことするからよ。少しは反省しなさい」
「ぶ〜、暴力はんた〜い」
唇を尖らせながらそんなことを言ってくる彼女を無視して、サクサクユニフォームを脱いでいく。
今のやりとりで、今の今まで気付いていなかった疲労が表へと出始めていた。
(汗は我慢して、お風呂……家でしよ……)
溜め息を一つ吐いて、私は制服へと着替え終わる。
面倒なことに、私達の学校ではたとえ部活帰りでも運動着で帰ることを禁止されている。これを破っていることがばれると、先生に呼び出されたりして厄介なのだ。
昼も来ていた服をもう一度着るのは抵抗があるけれど、家に着くまでのわずかな時間と思えば我慢できないこともない。
それじゃあお先に、と部活仲間の面々に声をかけながら出口へ向かうと、後ろから着替え途中の理恵が声をかけてきた。
「あ、せんぱ〜い。自販機の近くで、先輩を待ってるって人がいましたよ〜」
「そう、ありがとうね」
礼を言って、外へ出る。
少しずつ日が高くなっていく時期とはいえ、七時を過ぎればどっぷりと暗くなる。
(自販機、って言ってたっけ)
さっきは飲み物をほとんど味わえなかったことだし、もう一本買うとしよう。こんな時間まで待ってくれているとしたら多分紅音だろうから、お礼に何か一本おごって、二人でバカな話をしながら帰ることにしよう。
そんな風に考えながら、自販機の方へと歩を進めていく。
自販機の隣においてあるベンチに座っている人物を見つけた瞬間、私は大いに焦ることになった。
「お、終わったか。女バスは随分と遅かったんだな」
よっと、なんて掛け声をつけて立ち上がったのは、玲也だった。思ってもみなかった人物の登場に、自分の思考が一気に混乱するのを感じ取れる。
(ていうか、タイミング悪い……ッ!)
こんな事なら、シャワーを浴びておけばよかった。
今このタイミングで彼に近付くのは、女の子としてなるべく避けておきたいのに。
(気付いてくれないだろうしなぁ……)
玲也はこういった事になると、致命的に鈍い。多分、直接言わないと気付いてくれないだろう。けれど、こういった話をするのは少し……いやかなり抵抗があるわけで。
恋愛というか、人付き合いというものは難しいものだ。
「え、と……男バスは確か五時くらいには終わってたよね」
「おう、詳しいんだな」
「いや、入れ替わりで私たちが体育館に入ったから、覚えてるはずなんだけどね……」
正直、それもあってかなり油断していた。
紅音くらい距離の近い友達なら笑い話で済むし、部活仲間ならあまり気にしない。唯一のグレーゾーンを知らぬ間に突かれる形になっていた。
ちなみに、入れ替わりだったから云々は建て前で、本当は玲也と同じ所で練習できるかどうか確認していたら、いつの間にか練習時間のパターンが頭の中に入っていた。
ま、まあでも実際部活の時間確認にも必要になっているし、動機はどうあれ役に立っているのだから、他人にどうこう言われる筋合いもないだろう。
玲也という動機が無かったら、覚える努力をしたのかという質問に対しては、にっこり笑顔でノーと言わせてもらうことになるだろうが。
「今もう七時過ぎだよ!? もしかして、今の今までずっと帰らずにいたの?」
「?? この状況を見て、逆にそれ以外のパターンがあり得るのか?」
ぼんやりと首を傾げてくる彼に、もう何も言えなくなってしまう私。
そんな私をじっと見て、彼はいきなりニイッと微笑んだ。
「さ、帰ろうぜ。もう他に用事はないんだろ?」
「うん。……ありがと」
「良いって。俺が一緒に帰りたいだけだし」
そんな事を臆面も無く言ってくる。そんな言葉を、真正面から堂々と言えるなんて、彼はどんな神経をしているんだろうか。
私は、そんなことを言われただけで顔が真っ赤になってしまうというのに。
「んあ? どうかしたか、山本?」
「……何でもないよ」
というか、さっきまで内心でタイミング悪いとか考えてた自分がすごく情けなく思えてくる。
せめてもの意地でそれを表に出さないようにしながら、そう答えた。
気付いて欲しがったり、気付かれたくなかったり、私の心はなんか色々と忙しいものだ。
玲也は、気付いてくれているんだろうか。
彼のたった一言、一挙動で、天にも昇るような心地を味わったり、地に落とされるような気分になったりしている人がいることを。
(ま、多分気付いていないだろうけど……)
伝わったら、どれだけ良いだろう。
けれど、自分から伝えるのは恥ずかしいし、なんとなく嫌な気もする。
私から伝えるんじゃなくて、彼自身で気付いてほしい。そんな風に思ってしまうのは、私のわがままなんだろうか。
もちろん、言葉が一番伝わりやすい方法だということは、わかっているつもりだ。それ以前に、鈍感な彼相手でははっきり言ってしまわないと伝わらない可能性の方が高い。
それも、わかっているのだけれど。
でも、どこかで期待している。もしかしたら、気付いてくれるんじゃないかって。
「変な奴だなぁ。ほら、行こうぜ」
そう言って、彼は歩き出した。
ほんの少し残念に思いながら、私もその後に続く。
まあでも、本番はこれからだ。私達は付き合い始めて時間が短いのだから、これから一緒に時間を過ごしていく中でお互いのことを知っていけばいい。
焦ったら、大体の場合において悪い方向へと流れていくものだ。まだ付き合い始めて三日も経っていない内から、そこまで求めるのは色々と無理があるだろう。
全ては、これからだ。
そう自分に言い聞かせて、彼の隣に並ぶ。こうして隣に立つことすら、一昨日までは妄想の中でしかあり得なかったのだ。
そう考えると、大躍進ではないだろうか。
今日の練習はどうだった?
そんなありきたりの、けれどバスケ命の彼からしたら何よりも大事なはずの質問をしようと口を開く。
「あのさ、玲也……ん?」
けれど、私は言葉を途中で止めて振り返る。
「? どうかしたのか」
「いや、誰かに見られてるような気がして……」
言いながら、暗がりに目を凝らす。
けれど薄暗い廊下には、動く気配は何もない。
「気のせい、かな?」
「幽霊、かもよ?」
「んな訳ないじゃん」
「そう思うだろ? これがありえるかもしれないんだな」
バカでしょ、と苦笑交じりに返すと、「そんな事言えるのもこの話を聞くまでだぜ?」なんて言いながら、彼が聞いたらしい噂話を話し始める。
それは案の定、どこにでもありそうな学園七不思議の話で。
そんな話を限りなく真剣に、とてつもなく楽しそうに話してくる彼に、私は思わず笑みを零してしまった。それをどういう風に受け取ったのか、玲也はキョトンとした表情を浮かべる。
「あれ。なんだ、山本こういう怖い話とか全然いけるクチ?」
「そういう訳じゃないけど、なんか玲也の話し方がすごく楽しそうだから、つい……」
「怖い話をして喜ばれても、全然嬉しくないけどな」
言いながら、苦笑を漏らす玲也。
それすらも愛おしく感じられて、胸の辺りを締め付けられるような感覚がする。
本当に、私は今彼と付き合ってるんだ。
今更ながらそんな実感が湧いてきたのか、頰がじんわりと熱を持ち始める。横顔すら見ていられなくなって、私は視線を無理やり前へと戻す。
そういえば、さっき感じた視線のようなものは、一体なんだったんだろうか。
ふと気になって、もう一度背後をちらりと見やる。けれど、そこにはやっぱり何もなかった。
自転車置き場から自転車を押して、二人で夜道を歩いていく。
家から徒歩十分かそこらで家に着く私と違って、玲也の家はさらに遠い。なのに、何も言わず一緒にゆったり歩いてくれている彼に、少し申し訳なく思う。
一応、家の位置を聞いた段階で、自転車に乗って帰ろうとは提案したのだ。ただ、言った途端に却下されたのだけど。
本人曰く、「帰るスピードを上げるのは、自分で頑張ればどうにでもなる。けど、お前と一緒にいるのは、タイミングを合わせないと無理だろ?」だそうで。
ちなみに、それを言われた途端に顔が真っ赤になったのを気付かれないように顔をそらしたのは、ここだけの話だ。
さすがにあからさますぎたのか、この時は盛大にいじられた。これが他の人相手だったら、さっさと忘れたくなるような記憶なのに、玲也が関わっていると途端に大事な記憶として処理してしまう私は、きっと何処かがおかしくなっているんだろう。
「わりかし涼しいね」
「まだ五月に入ったばっかだしな。心配しなくても、すぐに暑くなるさ」
「勘弁してほしいわね、ホント……」
そんな、薬にも毒にもならないような会話をしながら、見慣れた道を歩いていく。たったそれだけのことが、どうしてこれほどまでに楽しいのか。
だけど、そういう楽しい時間ほど、あっという間に過ぎてしまうもので。
気付けば、私達は私の家の前まで来てしまっていた。
「それじゃ、私家ここだから」
「そっか。じゃあ、また明日だな」
言いながら、玲也は自分の自転車に乗った。
今日はさようならで、また明日。一緒の家に住んでいるわけじゃないんだから、そのタイミングがどこかしらで訪れるのは当たり前だ。むしろ、こんなに長い時間傍にいれたことを喜ぶべきなんだろう。
なのに、別れを惜しく感じてしまうのは、わがままだろうか。
もっとずっと長く二人でいたいと思うのは、私だけなんだろうか。
自然と見上げる位置に来た玲也をじっと見つめながら、そんなことを思う。けれど、きっと彼は私がどうして自分を見ているのかまではわからないだろう。
というか、これは彼が鈍感どうこうじゃなくて、私も相手の立場だったらわからない。そこまでわかったら、その人はエスパーに等しいだろう。
だから、私はにっこりと微笑んだ。
別に、これが最後というわけじゃないんだから。なら、笑っていよう。今日を楽しい一日として締めくくるために。
「また、明日ね。玲也」
「ああ。じゃあな」
そう答えて、彼はこちらへ背を向ける。
が、ペダルを漕ぎ始めようとしたところで何かを思い出したかのように、もう一度こちらを向いた。
「あのさ、山本」
「ん、どうかした?」
そこで、彼は珍しく言葉をすぐに出さなかった。
何かを探すように視線を宙空へ彷徨わせ、決心するように小さく頷いてから口を開く。
「俺はその……なんだ、これまで学校そのものには殆ど興味なかったんだ。授業も、聞く気なかったし」
「? うん、それはなんとなく知ってるけど」
頭上にハテナを浮かべながら、先を促す。すると、彼はふいっと視線を逸らしながら続けた。
「だけど、今日はお前に会えると思って、学校が楽しみで仕方なかった。……そんだけ。んじゃな」
言い残して、彼は自転車をこぎ始めた。まるで、逃げるように。
その背が夜闇に紛れて見えなくなるまで、私は声を発することも動くこともできずにいた。
『お前に会えると思って、学校が楽しみで仕方がなかった』
それってつまり、その……。
「私に会うのが、楽しみだったってこと……?」
言った途端、自分の頰どころか耳まで赤くなっていくのを感じた。
だけど、それ以外の意味に解釈することができない。さすがの彼にも羞恥心があったということだろうか。
理解したら、もうダメだ。
顔がにやけ出すのを抑えられない。
想像してみてほしい。ずっと好きだった人がいて、しかもどういう幸運かその人と付き合うことができるようになって……しかも、その人は自分に会うのが楽しみで仕方がなかったとまで言ってくれたのだ。
控えめに言って、最高じゃないだろうか。
あくまでも、お試しだったはずなのに。それでごめんなさいされるなら納得もいくだろう、なんてほんのり考えながら言ったのに。
それが、いきなりこんな効果を見せるなんて。
(これも、あの神様にもらった力のおかげ……なのかな?)
だとしたら、ネットで騒がれている噂が一向に下火にならない理由も良くわかる。
まだ火に近づいたときのように、顔が熱を持っていた。気を緩めると、今にもニヘラ〜ッと笑み崩れてしまいそうだ。
そんな時、ポケットの中で携帯が鳴り始める。取り出して見てみれば、液晶には紅音の名が表示されていた。
なんという、ナイスタイミング。
そう内心で親指を立てながら、通話ボタンを押す。
今日のこと、思いっきり自慢してやろう。そんなことを考えながら、口を開いた。
「あ、もしもし紅音? あのさ……」
知らぬ間に、声が弾んでいた。




