第8章「黒髪の少女」
第8章「黒髪の少女」
────────────────────────────────
二年が過ぎた。
俺は十歳になっていた。
「ハル、今日の修行はここまでだ」
「もう少しやりたい」
「ダメだ。無理すんな」
父さんが、汗を拭きながら言う。
この二年で、俺の魔法はさらに上達した。
四属性すべてを自在に扱えるようになり、複合魔法にも手を出し始めている。
同時に、剣術も習い始めた。
「魔法だけじゃ片手落ちだ。接近されたらどうする」
そう言って、父さんが木剣を握らせたのが一年前。
最初は散々だった。でも、毎日続けているうちに、少しずつ形になってきた。
「父さん」
「なんだ」
「戦争の噂、最近どうなってる?」
父さんの顔が、一瞬だけ曇った。
「……まだ続いてる。国境付近で小競り合いがあったって話だ」
「そうか」
「でも、この村までは来ねえよ。心配すんな」
「……うん」
本当にそうだろうか。
二年前から、噂は消えるどころか大きくなっている。
魔獣の出現も増えた。村の外れで目撃されることが、月に一度は起きるようになった。
(強くならないと)
その思いは、日に日に強くなっていた。
────────────────────────────────
昼過ぎ。
俺は一人で森に入った。
「……」
本当は、一人で森に入るのは禁止されている。
でも、人目のないところで試したい魔法があった。
複合魔法。《炎槍》。
火属性と風属性を組み合わせて、貫通力のある炎の槍を作り出す技だ。
父さんから理論だけ教わって、まだ成功していない。
「集中……」
両手を前に出す。
まず、火を練る。次に、風を纏わせる。二つの属性を同時に制御する。
「……っ」
難しい。片方に意識を向けると、もう片方が崩れる。
何度目かの挑戦。
炎が手のひらに生まれ、風がそれを包み込み──
「っ、できっ──」
ガサッ。
茂みが揺れた。
心臓が跳ね上がった。
俺は咄嗟に魔法を消し、身構えた。呼吸が浅くなる。背中に冷たいものが走る。
「誰だ」
返事はない。
でも、何かがいる。気配がする。一つじゃない。複数。
喉が張り付いて、声が出ない。
「……まずい」
茂みから、灰色の影が飛び出してきた。
狼。いや、普通の狼より大きい。赤い目。魔獣だ。
しかも、三匹。
足がすくんだ。
一匹なら倒せる。二匹でも、たぶん。
でも三匹は──
——逃げろ。今なら間に合う。
そう囁く声がある。
——逃げてどうする。追いつかれる。背中を見せたら終わりだ。
別の声がそれを打ち消す。
(……やるしかない)
震える手を、無理やり前に出した。
「《火球》!」
先制攻撃。一匹の顔面に炎をぶつける。
「ギャンッ」
悲鳴を上げて、一匹が後退した。
でも、残りの二匹が左右から迫ってくる。
「っ」
右に跳ぶ。左の一匹の牙が、空を切った。
息が上がる。視界が狭くなる。恐怖で頭がぐちゃぐちゃだ。
でも、右の一匹が──
「やばっ」
避けきれない。体勢が崩れている。
牙が、俺の腕に──
────────────────────────────────
ザシュッ。
鋭い音がした。
俺の目の前で、魔獣が横に吹っ飛んだ。
「は……?」
何が起きたか、分からなかった。脳が追いついていない。
「邪魔」
低い声が聞こえた。
振り返ると、黒い影が立っていた。
黒髪。長い。高い位置でひとつに結んでいる。
灰色がかった瞳が、俺を睨んでいた。
「ぼさっとしてんな。まだ二匹いる」
「え、あ、うん」
「うんじゃねえ。動け」
その声に弾かれるように、俺は立ち上がった。
少女──たぶん俺より少し年上──が、手にした棒を構えている。
いや、棒じゃない。木の槍だ。先端が削られて、尖っている。
「私が右をやる。お前は左だ」
「わ、分かった」
考える暇もなかった。
残りの魔獣が、再び襲いかかってきた。
────────────────────────────────
「《火球》!」
俺の炎が、左の魔獣を捉えた。
同時に、少女の槍が右の魔獣を貫いた。
一瞬だった。
俺が怯ませた隙に、少女が仕留める。連携なんて考えてなかったのに、結果的にそうなった。
「……終わったか」
少女が、槍を下ろす。
息が上がっている。でも、その立ち姿には隙がない。
俺は——まだ膝が笑っていた。心臓がバクバクと暴れて止まらない。死ぬかと思った。本当に死ぬかと思った。
「あの、助けてくれて──」
「助けてねえよ」
冷たい声で遮られた。
「たまたま通りかかっただけだ。お前を助けるつもりなんてなかった」
「でも、さっき──」
「あれは邪魔だったから払っただけ。勘違いすんな」
少女が、俺を睨む。
灰色の瞳。冷たい。でも、どこか怒っているようにも見えた。
「つーか、なんで一人でこんなとこいんだよ。魔獣が増えてるって知らねえのか」
「知ってる。でも、修行したくて」
「修行?」
少女の眉が、ぴくりと動いた。
「修行のために一人で森に入って、魔獣に囲まれて、危うく死にかけたってか」
「……」
「馬鹿じゃねえの」
ストレートに言われた。
言い返したかった。でも、何も出てこない。正論すぎて、ぐうの音も出ない。
「魔法は使えるみたいだけど、戦い方がなってねえ。三匹相手に真正面から撃ち合うとか、死にたいのか」
「死にたくない。だから強くなりたいんだ」
「強くなりたい?」
少女が、鼻で笑った。
「そうやって無茶して死んだら、強くなるも何もねえだろ。頭使え、頭」
「……」
——悔しかった。
腹の底が煮えるように熱い。でも、反論できない。言い返す言葉がない。
だって、全部本当のことだから。
確かに俺は、調子に乗っていたのかもしれない。一人で何とかなると思っていた。魔法が使えるから。前世の記憶があるから。
——そんなもの、何の役にも立たなかった。
この子に助けられなかったら、今頃俺は。
「あの」
「なに」
「名前、聞いていい?」
少女が、怪訝な顔をした。
「なんで」
「お礼を言いたいから。助けてくれたこと」
「だから助けてねえって──」
「俺はハル。ハル・カーマイン。カルム村に住んでる」
「……」
少女が、黙った。
しばらく、睨むように俺を見つめていた。
「……サヤ」
ぼそりと、小さな声で言った。
「サヤ?」
「私の名前だよ。うるせえな」
「サヤ……さん?」
「さん付けすんな。気持ち悪い」
「じゃあ、サヤ」
「……」
少女──サヤが、舌打ちした。
「私は北のヴェルム村から来た。親が用事でこの辺りに来てて、暇だったから森を歩いてただけ」
「そうなんだ」
「これで満足か。じゃあな」
サヤが、背を向けた。
「待って」
「なに」
「また会える?」
サヤが、振り返った。
信じられないものを見るような目だった。
「……は?」
「いや、だから。また会いたいなって」
「なんで」
「なんでって……」
分からない。自分でも、分からない。
さっきまでボロクソに言われていた。馬鹿だと言われた。調子に乗るなと説教された。
なのに——この子ともう一度話したい。そう思った。
なぜかは、分からない。言葉にしたら嘘になる気がした。
「変な奴」
サヤが、呆れたように言った。
「会いたきゃ勝手に来ればいい。私は知らねえけど」
それだけ言って、サヤは森の奥へ消えていった。
黒い髪が、風に揺れて見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。
────────────────────────────────
家に帰ると、父さんが待ち構えていた。
「ハル」
「……ただいま」
「森に行ってたな」
バレている。当然だ。
「……うん」
「一人で」
「……うん」
父さんのゲンコツが、頭に落ちた。
「っ痛」
「馬鹿野郎。危ねえっつっただろうが」
「ごめん」
「魔獣に会わなかったか」
「……会った」
父さんの顔色が変わった。
「三匹。でも、大丈夫だった。倒した」
「一人でか」
「いや……途中で、助けてくれた人がいて」
「誰だ」
「サヤって子。北のヴェルム村から来たって」
父さんが、眉をひそめた。
「ヴェルム村……あそこは確か、傭兵崩れが多い村だな。槍術が盛んだって聞いたことがある」
「そうなんだ」
だから、あんなに強かったのか。
「その子に礼を言っとけよ。命拾いしたんだからな」
「うん」
「それと」
父さんが、真剣な顔で俺を見た。
「もう一人で森に入るな。約束しろ」
「……分かった」
「約束だぞ」
「約束する」
父さんが、大きく息を吐いた。
「全く……肝が冷えたぞ」
「ごめん、父さん」
「分かりゃいい」
頭を撫でられた。ゲンコツの後だから、余計に温かく感じた。
────────────────────────────────
その夜。
俺は、ベッドの上で天井を見つめていた。
(サヤ、か)
黒髪の少女。鋭い目。容赦のない言葉。
助けてくれたのに、助けてないと言い張る。
——変な奴だと思った。
でも、嫌いじゃなかった。むしろ逆だ。
悔しかった。情けなかった。あんな風に言われて、何も言い返せなかった自分が恥ずかしかった。
なのに——また会いたいと思う。
矛盾している。自分でも意味が分からない。
(また会えるかな)
分からない。北のヴェルム村。どれくらい遠いんだろう。
でも、会いたいと思った。
目を閉じる。
ティナを想う時とは、何か違う。
ティナの前では、守りたいと思う。優しくしたいと思う。笑っていてほしいと思う。
でも、サヤの前では——
悔しくなる。負けたくないと思う。認められたいと思う。
あの子にボロクソに言われて、それでも次は見返してやりたいと思う。
(なんだ、これ)
名前が、つかない。
好きとか嫌いとか、そんな単純なものじゃない。
ただ、あの子のことが頭の隅に引っかかって——離れなかった。
────────────────────────────────
【第8章 終】




