【番外編】第7章「嘘と、月明かり」──ガルド視点
第7章「嘘と、月明かり」──ガルド視点
────────────────────────────────
戦争の噂が広まり始めた頃から、俺は落ち着かなくなっていた。
ダリオと話した夜。ハルの目が、妙に鋭くなっていた気がした。
あいつは賢い。八歳とは思えないほど、周りをよく見ている。
俺が何か隠していることにも、いずれ気づくかもしれない。
「……っ」
だから今夜は、行くべきじゃなかった。
分かっていた。分かっていて——それでも、足が勝手に動いていた。
理性では止められない。体が、あの場所を求めている。
────────────────────────────────
村外れの廃屋。
扉を開けると、ランプの灯りがゆらゆらと揺れていた。
「来てくれたのね」
マーサが、寝台の縁に腰かけていた。
薄い寝巻き一枚。肩が半分見えている。栗色の髪が、背中に流れ落ちている。
三十路手前。旦那を亡くして三年。
俺と関係を持ち始めて、もう一年になる。
「……悪い。遅くなった」
「いいの。来てくれただけで」
マーサが立ち上がる。裸足で、俺のほうへ歩いてくる。
——目が、逸らせない。
(馬鹿か、俺は)
リーナが家で待っている。ハルが、ユナがいる。
なのに、この体の震えは何だ。
嫌悪と欲望が、腹の底でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
「ねえ、ガルド」
「なんだ」
「……怖いの」
マーサが、俺の胸に額を押し当てた。
「戦争の噂。この村にも来るかもしれないって」
「……まだ噂だ。そう簡単には」
「でも、もし来たら」
マーサの声が震えている。
「あたし、一人なの。誰も守ってくれる人がいない」
「……」
返す言葉がなかった。
俺には、リーナがいる。ハルがいる。ユナがいる。
守るべき家族がいる。
マーサには、誰もいない。
——だから、俺がここにいる。そう言い訳する自分が、どうしようもなく卑怯だった。
「だから……今夜だけでも」
マーサが顔を上げた。
潤んだ瞳が、俺を見つめている。
「傍にいて」
────────────────────────────────
気づけば、マーサを抱きしめていた。
——違う。「気づけば」なんて嘘だ。
俺は、自分から腕を伸ばした。そうしたかったから。
(最低だ)
頭では分かっている。これは裏切りだ。リーナへの、家族への。
でも、この腕を離せない。離したくない。
そんな自分が、心底嫌になる。なのに——体は正直に熱を持っていた。
「ガルド……」
マーサの手が、俺の胸元に触れる。服の紐を解いていく。
俺も、マーサの寝巻きの肩紐に手をかけた。
するりと布が落ちる。
白い肌が、ランプの灯りに照らされた。
「……綺麗だ」
「嘘。もう若くないもの」
「嘘じゃねえよ」
本心だった。それがまた、俺を苦しめる。
リーナも綺麗だ。愛している。なのに——目の前のこの女から、目が離せない。
マーサを寝台に押し倒す。
「今夜は……優しくしなくていいから」
「……なんだよ、急に」
「忘れたいの。怖いことも、寂しいことも、全部」
マーサの目が、真剣だった。泣きそうで、でも泣いていない。縋るような、でも諦めたような——どこか壊れそうな光を宿している。
「だから……頭が真っ白になるくらい」
その言葉を聞いた瞬間、理性が飛んだ。
——いや、違う。俺が、理性を手放した。
「……後悔するなよ」
「しない」
「俺は、するかもしれねえ」
「……いいの。それでも」
唇を塞いだ。深く、貪るように。
——リーナのことが、頭を過る。
今頃、家で待っているだろう。いつもの笑顔で「おかえり」と言ってくれるだろう。
それを裏切っている。今、この瞬間も。
なのに——止まらない。止められない。
「あっ……」
「んっ……」
そして二人は——
その先は、言葉にできない。
その夜は、長かった。
────────────────────────────────
「はぁ……はぁ……」
「ふぅ……ふぅ……」
荒い息だけが、狭い小屋に響いていた。
マーサが、俺の胸に顔を埋めている。
汗ばんだ肌。上下する背中。乱れた栗色の髪。
しばらく、そのまま黙っていた。
言葉が出てこない。出したくない。
何を言っても、言い訳になる気がした。
「……ガルド」
「ん」
「……あたしたち、もう終わりにした方がいいのかも」
俺は、思わず体を起こした。
「……何言ってんだ」
「だって」
マーサが、俯いたまま言う。シーツを胸元に引き寄せて、体を隠している。
さっきまであれほど乱れていたのに——今は、どこか寂しそうに見えた。
「あなたには家族がいる。奥さんも、子どもも。あたしのせいで……」
「今更だろ」
声が、自分でも驚くほど低くなった。
「一年も続けといて、今更そんなこと言うのか」
「……ごめん」
「謝るな」
マーサの顎を掴み、こちらを向かせた。
潤んだ目。怯えたような、でもどこか期待しているような目。
——俺は、この目に弱い。
だから、こうなった。
「俺が終わらせねえよ」
「……ガルド」
「お前が嫌だって言うなら、考える。でも、嫌じゃねえんだろ」
マーサは、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
(……俺は、何をやってるんだ)
自分でも分かっている。これは泥沼だ。
どっちも選べない。どっちも手放せない。
最低の男だ。
でも、止められなかった。
────────────────────────────────
帰り道。
夜風が、火照った体を冷やしていく。
マーサの匂いが、まだ肌に残っている気がした。
(いつまで、こんなことを続けるんだ)
分からない。
マーサを切り捨てられない。リーナを裏切り続けている。
どちらにも不誠実で、どちらも傷つけている。
——そして、どちらも愛している。
だから余計に、救いようがない。
家の前で、足を止めた。
窓から、かすかに灯りが漏れている。
深呼吸して、扉を開けた。
「おかえり、ガルド」
リーナが、いつもの笑顔で迎えてくれた。
「見回り、ご苦労様。お茶、淹れようか」
「……いや、いい。疲れた。寝る」
「そう」
リーナの横を通り過ぎようとした時だった。
「ねえ、ガルド」
「……なんだ」
「最近、何かあった?」
心臓が、跳ねた。
冷たい汗が、背中を伝う。
「……何がだ」
「分からない。でも、なんとなく」
リーナが、俺の顔を見つめる。
いつもの穏やかな目。でも、その奥に何かが揺れている。
——見透かされている、とは思わなかった。
でも、何かを感じ取っている。そんな気がした。
「……疲れてんだよ。噂とか、色々あるからな」
「……そう」
リーナは、それ以上何も言わなかった。
追及しない。問い詰めない。
それが——余計に、胸に刺さった。
「おやすみなさい」
「……ああ」
寝室に向かいながら、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
────────────────────────────────
寝室で、俺は天井を見上げていた。
隣で、リーナが静かに横たわっている。
寝息は聞こえない。起きているのかもしれない。
(……気づいてるのか)
分からない。
聞くこともできない。聞く資格がない。
さっきの問いかけが、頭から離れなかった。
『最近、何かあった?』
嘘は、いつか暴かれる。
その時が、近づいている気がした。
——俺は、その時、何を言えばいい?
答えは、出なかった。
目を閉じても、眠れなかった。
────────────────────────────────
【番外編 第7章 終】




