第6章「約束と、遠い雷鳴」
第6章「約束と、遠い雷鳴」
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二年が過ぎた。
俺は八歳になり、ユナは三歳になった。
「にーに、あそぼ!」
朝から、ユナが俺の服の裾を引っ張る。栗色の髪を二つに結んだ小さな頭が、見上げてくる。
「今日は約束があるんだ」
「やくそく?」
「ティナと」
「ティナおねーちゃん!」
ユナの顔がぱっと輝いた。
この二年で、ティナはうちにもよく遊びに来るようになった。ユナにとっては、優しくて綺麗な「おねーちゃん」だ。
「ユナもいく!」
「ダメだ。今日は魔法の練習だから」
「えー……」
ユナが頬を膨らませる。
「帰ってきたら遊んでやるから」
「ぜったい?」
「絶対」
「ゆびきり!」
小さな小指が突き出される。俺は苦笑しながら、自分の小指を絡めた。
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村の外れ、例の泉。
二年前に魔獣と遭遇した場所だが、あれ以来、危険な気配はない。父さんたちが周辺を見回るようになったからだろう。
「集中しろ。腹の奥に意識を向けて」
「わ、わかってる……」
ティナが目を閉じて、両手を前に出している。
俺がティナに魔法を教え始めて、もう一年半になる。
最初の半年は、魔力を感じることすらできなかった。才能で言えば、俺とは比べものにならない。
でも、ティナは諦めなかった。
「んん……」
眉間に皺を寄せて、必死に集中している。額にうっすらと汗が浮かんでいる。唇を噛みしめ、睫毛が微かに震えていた。
「焦るな。ゆっくりでいい」
「うん……」
一年かけて、ようやく魔力を感じられるようになった。そこからさらに半年。今日で、何度目の挑戦だろう。
ティナの手のひらが、かすかに震えた。
「……っ」
何かが、そこに生まれようとしている。
空気が、変わった。泉の水面が揺れ、周囲の草花がさわさわと音を立てる。
「そのまま。イメージしろ。小さな火を」
「火……小さな……」
ティナの声が途切れる。
そして。
「──あ」
手のひらの上に、光が灯った。
豆粒ほどの、小さな炎。揺らめいて、今にも消えそうで。
熱が、ここまで届く。微かに焦げる匂い。
でも、確かにそこにある。
「できた……」
ティナの目が見開かれる。
「できた! ハル、見て! あたし、できたよ!」
「ああ」
俺は——気がつけば、顔が緩んでいた。
止められなかった。何か熱いものが胸の奥から込み上げてきて、目頭がじんとした。
なんだ、これは。俺が成功したわけでもないのに。
「やったな、ティナ」
「うん……うん!」
ティナの瞳が、じわりと潤んだ。
一年半。何度失敗しても、諦めずに続けた。
泣きそうになりながらも「もう一回」と言い続けた。俺が「今日は休もう」と言っても、首を横に振った。
その努力が、ようやく形になった。
「ハルのおかげ……ハルが教えてくれたから……」
「違う。お前が頑張ったからだ」
「でも……」
「俺は横で見てただけだ。やったのはティナだ」
ティナが、目元を拭いながら微笑んだ。
金髪が風に揺れる。陽の光を受けてきらきらと輝いている。
二年前より、少しだけ大人びた顔。涙の跡が残る頬。でも、そこに浮かぶのは晴れやかな達成感。
(……綺麗だな)
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
嬉しいはずなのに、苦しい。見ていたいのに、目を逸らしたくなる。
八歳同士。まだ子供だ。
でも、この子は確実に、俺にとって特別な存在になりつつある。
「ハル?」
「なんでもない」
視線を逸らす。顔が熱い。まずい。
「もう一回やってみろ。今度はもう少し長く保てるように」
「うん!」
ティナが、再び両手を構える。
その横顔を、俺はこっそりと見つめていた。
あんまり見るな、と自分に言い聞かせているのに——目が、離せない。
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夕方。
家に帰ると、父さんが居間で誰かと話していた。
「──そうか。国境の方で、か」
「ああ。まだ噂の段階だが、魔獣の動きが活発になってるらしい」
声の主は、ダリオさんだった。ティナの父親。元冒険者で、今は宿屋の主人。
「冒険者ギルドからも通達が来てる。念のため、村の警戒を強めた方がいいかもしれん」
「……厄介だな」
俺は、玄関で足を止めた。
聞き耳を立てるつもりはなかった。でも、二人の会話が耳に入ってきた。
「北の王国と、隣国の関係も怪しいらしい。戦争になるって話もある」
「戦争か……」
父さんの声が、低くなった。
——心臓が、一瞬止まった気がした。
「ハルとユナがいる。巻き込まれたくはねえな」
「だろうな。俺もティナがいる。お互い、守るもんができちまった」
二人が、短く笑った。
でも、その笑いには、どこか重いものが混じっていた。
俺は、静かに靴を脱いだ。
(戦争……)
この二年、平和だった。
魔法を覚え、ティナに教え、ユナと遊び、父さんに修行をつけてもらう。穏やかな日々が続いていた。
でも、世界は俺たちの村だけじゃない。
遠くで、何かが動いている。
足元が、急に不安定になった気がした。
「おう、ハル。帰ったか」
父さんが、俺に気づいた。
「ダリオさんも」
「よう、ハル。ティナから聞いたぞ。今日、初めて魔法が成功したって」
「あ、もう言ったんですか」
「帰ってくるなり大はしゃぎだったよ。『ハルのおかげ』って何度も言っててな」
ダリオさんが、からかうような表情を見せる。
「……別に、俺は何も」
「照れるな照れるな。若いっていいねえ」
「からかわないでください」
「はっはっは」
ダリオさんが豪快に声を上げる。
でも、さっきまでの重い空気が、完全に消えたわけじゃなかった。
父さんの目が、一瞬だけ俺を見た。
何かを測るような、探るような目。
——こいつ、聞いていたか。
そんな問いかけが、視線の奥に透けて見えた。
そして、すぐに普段の顔に戻った。
「晩飯まで時間あるから、ユナの相手してやれ」
「わかった」
俺は居間を通り過ぎて、奥の部屋に向かった。
背中に、二人の視線を感じながら。
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その夜。
ユナを寝かしつけた後、俺は自分の部屋で天井を見上げていた。
(戦争、か)
この世界にも、国と国の争いがある。
考えてみれば当たり前だ。魔法があって、魔獣がいて、冒険者がいる。
そんな世界で、平和だけが続くはずがない。
(俺は、何ができる?)
八歳。まだ子供だ。
魔法は使える。同年代の中では、たぶん飛び抜けて強い。
でも、戦争ともなれば話は別だ。
大人たちが動く。兵士が動く。国が動く。
俺一人で、何ができる?
——何もできない。今の俺じゃ、何も。
拳を、握りしめた。
怖い。
認めたくないけど、怖い。
平和な日常が壊れるかもしれない。ティナが、ユナが、父さんが、母さんが——巻き込まれるかもしれない。
その可能性を考えただけで、心臓が縮み上がる。
(……でも)
頭を振った。
怖くても、逃げるわけにはいかない。
今すぐどうこうなる話じゃない。まだ「噂」の段階だと言っていた。
——なら、今は、できることをやる。
もっと強くなる。もっと魔法を極める。
いつか、本当に大切な人を守らなきゃいけない時のために。
その時、今日みたいに「何もできない」と思わなくて済むように。
目を閉じた。
遠くで、雷が鳴った気がした。
空耳だったのかもしれない。窓の外は、星が瞬いている。雲ひとつない夜空だ。
でも、その音が——妙に、耳に残った。
嵐の前触れのような、不穏な響き。
まだ遠い。でも、確実に、近づいてくる。
そんな予感が、胸の奥に居座って消えなかった。
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【第6章 終】




