第5章「守れた日」
第5章「守れた日」
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ユナが生まれてから、一年が経った。
俺は六歳になっていた。
「あー! あー!」
朝。ユナが泣いている。
「はいはい、どうした」
俺が顔を覗き込むと、ユナは泣き止んだ。ちっぽけな手を伸ばして、俺の顔をぺちぺち叩いてくる。
「痛いって」
「あー」
全然痛くない。ふにふにした手だ。
「ハル、ユナの世話ありがとね」
母さんが、台所から顔を出す。
「おう」
この一年で、俺はすっかり「兄」になっていた。
ユナの世話を手伝う。おむつを替える。あやす。寝かしつける。
最初は全部ぎこちなかったけど、今では慣れた。
「ハル兄ちゃん、すっかり一人前ね」
「兄ちゃんじゃねえ。まだ一歳だぞ、こいつ」
「ふふ、そうね」
母さんが笑う。
ユナも笑う。俺の顔を見て、きゃっきゃと声を上げる。
(……これが、家族か)
前世では味わえなかった感覚だ。誰かに頼られる。誰かの世話をする。誰かが俺を見て笑う。
くすぐったくて、照れ臭くて、でも嬉しい。そんな、名前のつかない温かさが胸に広がる。
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「ハルー!」
朝食を終えた頃、外から声が聞こえた。
ティナだ。
「行ってくる」
「いってらっしゃい。お昼には帰ってきてね」
「わかった」
外に出ると、ティナが待っていた。
一年で、少しだけ背が伸びた。金髪は相変わらず陽の光を弾いている。
「おはよ、ハル!」
「おう」
「今日はどこ行く?」
「……どこでもいい」
「じゃあ、森! 最近見つけた場所があるの!」
「森?」
「うん! すっごく綺麗な泉があるんだよ!」
ティナの目が輝いている。
俺は少し迷った。森は危険だと、父さんに言われている。魔獣が出ることもある、と。
でも、ティナの顔を見ていたら、断れなかった。
「……父さんたちには内緒だぞ」
「うん! 約束!」
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村の外れにある森は、昼間でも薄暗かった。
木々が生い茂り、日光を遮っている。足元には落ち葉が積もり、歩くたびにかさかさと音がする。
「こっちこっち!」
ティナが先を歩く。俺はその後を追う。
(……ちょっと奥に入りすぎじゃないか)
不安がよぎる。
でも、ティナは気にしていない。どんどん奥へ進んでいく。
「あった!」
ティナが立ち止まった。
俺も足を止めて、その先を見る。
「……すげえ」
声が漏れた。
木々の間に、小さな泉があった。
澄んだ水が、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
周りには白い花が咲いていて、まるで別世界のようだった。
「綺麗でしょ!」
「ああ……」
「あたしが見つけたの! 誰にも教えてないんだよ!」
ティナが、得意げに胸を張る。
「ハルが最初!」
「……そうか」
なんだか、くすぐったい気持ちになった。
秘密の場所。俺だけに教えてくれた。
前世だったら、こんな経験は絶対にできなかった。
「ねえ、ハル」
「ん?」
「あたしたち、ずっと友達だよね」
「……ああ」
「約束したもんね」
「したな」
ティナが、にっこり笑う。
その笑顔を見ていたら、腹の底がじんと熱くなった。
(……この笑顔を、ずっと見ていたい)
この子を。この笑顔を。
守りたい——そう思った瞬間だった。
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「──グルルルル」
低い唸り声が、森に響いた。
「え……?」
ティナの顔から、血の気が引く。
振り返る。
茂みの向こうに、何かがいた。
灰色の毛並み。鋭い牙。赤い目。
狼だ。いや、普通の狼より二回りは大きい。
魔獣。
「ひっ……」
ティナが、俺の袖を掴む。手が震えている。
「ハル……ハル……」
「……動くな」
低い声で言う。
頭の中が、一瞬で冷えた。
(まずい)
心臓が、胸を突き破りそうなほど跳ねている。足が震えている。逃げたい。今すぐ走り出したい。
でも——ティナがいる。
魔獣は、俺たちを睨んでいる。逃げたら追いかけてくる。戦える武器はない。
(魔法……)
使えるか?
一年間、父さんの指導のもとで修行を続けた。《火灯》は完璧に使える。《火球》も、あの日以来、慎重に練習して、今では制御できる。
でも、実戦で使ったことは一度もない。
(怖い)
正直に、そう思った。
体が動かない。足が地面に縫い付けられたみたいだ。
(逃げたい。逃げ出したい)
でも、後ろにティナがいる。
俺が逃げたら、この子は——
「グルル……」
魔獣が、一歩近づいた。
ティナが、悲鳴を上げそうになる。俺は咄嗟に、ティナの口を手で塞いだ。
「声を出すな」
耳元で囁く。自分でも驚くほど、冷静な声だった。
ティナが、こくこくと頷いた。
俺は、魔獣から目を離さずに、ゆっくりとティナを背中に庇った。
(やるしか、ない)
怖い。足が震えている。
でも、それ以上に——この子を傷つけさせたくない。
その気持ちが、恐怖を押し退けた。
手のひらに意識を集中する。
腹の奥から、魔力を引き出す。一年前の失敗が頭をよぎった。あの時は調子に乗って、魔力を使いすぎた。
今度は違う。
必要な分だけ。確実に。
「……《火球》」
手のひらに、炎が生まれた。
拳ほどの大きさ。オレンジ色の、熱い塊。
ぼぅ、と空気が焼ける音がする。熱が顔を撫でる。
魔獣の動きが止まった。炎を警戒している。赤い目が、俺の手のひらを凝視している。
(動くな。動くなよ……)
心臓が破裂しそうだ。汗が額を伝って、目に入りそうになる。
──魔獣の後ろ足が、地面を蹴った。
来る。
「……っ!」
考えるより先に、体が動いていた。
俺は、炎を放った。
魔獣の足元に向かって。
しゅっ、と炎が空を切る。
どん、と着弾。火花が散る。爆ぜた炎が、魔獣の毛皮を焦がす。
「ギャン!」
魔獣が、悲鳴を上げて飛び退いた。
火傷まではいかない。でも、十分だった。
魔獣は俺たちを睨んだ。でも、もう一度炎が飛んでくるのを恐れたのか、くるりと背を向けて、森の奥へ走り去っていった。
枯れ葉を踏みしだく音が、どんどん遠くなっていく。
……静寂が戻る。
俺は、手のひらを見た。まだ震えている。魔力は残っている。枯渇していない。ちゃんと加減できた。
「……ハル」
後ろから、震える声。
振り返ると、ティナが座り込んでいた。足の力が抜けたんだろう。目に涙が浮かんでいる。
「だいじょう──」
「すごい……」
ティナの声が、震えている。
「ハル、すごい……魔法、使えるんだ……」
「……ああ。父さんに教わった」
「かっこよかった……」
涙がこぼれた。恐怖からか、安堵からか。両方だろう。
「こわかった……でも、ハルが守ってくれた……」
「……」
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになった。
嬉しい。認められて、嬉しい。
でも同時に、怖かった。本当に怖かった。足が震えて、逃げ出したかった。
──なのに、今、涙が出そうになっている。
なんだ、この感情は。嬉しいのか、怖いのか、安心したのか。全部ごちゃ混ぜで、名前なんかつけられない。
ただ一つ、分かることがある。
俺は逃げなかった。
初めて、誰かを——
「ティナ」
俺は、しゃがんでティナと目線を合わせた。
「もう大丈夫だ」
「……うん」
「帰ろう。村に」
「……うん」
ティナが、俺の手を握った。
細い指。震えている。でも、確かに温かい。
俺は、その手を握り返した。
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村に戻る道すがら、ティナはずっと俺の手を離さなかった。
「……ハル」
「ん?」
「ありがとう」
「……別に」
「ううん、別にじゃない」
ティナが、俺の顔を見上げる。
涙の跡が残っている。でも、もう泣いていない。
「ハルがいなかったら、あたし……」
「いたから、大丈夫だっただろ」
「……うん」
ティナが、少しだけ笑った。
「ハル、強いね」
「まだまだだよ」
本音だった。あの魔獣が本気で襲いかかってきたら、俺じゃ勝てなかった。たまたま怯んでくれただけだ。
「でも、あたしより強い」
「そりゃ、俺の方が修行してるから」
「……あたしも、魔法覚えようかな」
「覚えればいい。教えてやる」
「ほんと!?」
ティナの目が輝いた。さっきまでの恐怖が嘘みたいに、いつもの明るさが戻っている。
「約束だよ!」
「ああ、約束」
村の入り口が見えてきた。
ティナが、俺の手をぎゅっと握った。
「ねえ、ハル」
「なに」
「今日のこと、パパには内緒ね」
「……当たり前だろ。俺だって父さんに怒られる」
「あはは、だよね」
二人で笑った。
共犯者みたいな気分だった。
(……嫌じゃない)
むしろ、心地いい。
この子と、こうやって笑い合えること。
この子の手を、握っていられること。
全部が、前世の俺には手に入らなかったものだ。
(もっと強くなろう)
改めて、そう思った。
この子のために。家族のために。
いつか来るかもしれない、もっと大きな脅威から——逃げずに立ち向かえるように。
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その夜。
俺は、ユナの隣で眠っていた。
「あー……」
ユナが、寝言を言う。ちっぽけな指が、俺の手を掴んでいる。
(……逃げなかった)
今日の出来事を思い出す。
ティナの怯えた顔。魔獣の咆哮。手のひらに生まれた炎。
怖かった。正直、足が震えていた。心臓が破裂しそうで、今すぐ走り出したかった。
でも、逃げなかった。
——いや、逃げられなかった。
後ろにティナがいたから。俺が逃げたら、あの子がどうなるか分からなかったから。
(これが、守るってことか)
怖くても、立ち向かう。
震えながらでも、前に出る。
カッコいいもんじゃない。泥臭くて、情けなくて、でも——
(これでいい)
この調子で、少しずつ強くなっていく。
焦らない。無理しない。でも、諦めない。
目を閉じた。
明日も、修行がある。
ティナにも魔法を教える約束をした。
やることは山ほどある。
でも、それが嬉しい。
前世とは違う。
今度の人生には、やりたいことがある。——失いたくないものがある。
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【第5章 終】




