第43章「銀の刃」──ティナ視点
第43章「銀の刃」──ティナ視点
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ハルの背中が、闇夜の中に消えていった。
「……行っちゃった」
あたしは、思わず呟いていた。
声が出ていたことに、自分でも驚く。
「当たり前だろ。作戦通りだ」
サヤが、隣で腕を組んでいる。
「分かってる。分かってるけど……」
「心配か」
「……うん」
隠しても仕方ない。
あたしは——ハルのことが、心配で仕方なかった。
——いや、違う。
心配だけじゃない。
不安。疑念。そして——聞きたくない答えへの恐怖。
全部が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
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昨日から、ハルの様子がおかしい。
宿に戻ってきた時、違う女の匂いがした。
安っぽい香水。
ハルの服から、微かに漂っていた。
あたしは——気づかないふりをした。
聞くのが、怖かったから。
答えを聞いて、壊れてしまうのが、怖かったから。
——でも。
怖いのに、目を離せなかった。
ハルの一挙一動が気になる。目が合うと、逸らされる気がした。
いつもなら「どうした?」って聞けるのに。
今は——喉が詰まって、言葉が出ない。
「……ティナ」
サヤの声で、我に返った。
「ぼーっとするな。行くぞ」
「あ……うん」
今は、考えている場合じゃない。
ミリアさんを、助けなきゃ。
あたしは、頭を振って——サヤの後を追った。
足が重い。でも、動かさないと。
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神殿の東側。
二階の窓が、僅かに開いている。
「あそこだな」
サヤが、壁を見上げた。
「登れるか?」
「……たぶん」
壁には、装飾用の彫刻が突き出ている。
足場には——なる、はず。
「私が先に行く。お前は後からついてこい」
「分かった」
サヤが、するすると壁を登り始めた。
槍を背中に背負い、両手両足を使って——まるで猫みたいに軽やかに。
あたしも、後に続く。
剣術は自信があるけど、こういうのは苦手だ。
指先に力を込め、彫刻の突起を掴む。足を滑らせないように、慎重に。
なんとか窓に辿り着いた時には、腕がぱんぱんに張っていた。
息が上がってる。情けない。
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窓から中に入る。
薄暗い廊下。
人の気配は——ない。
「静かだな……」
サヤが、小声で言った。
「静かすぎる」
同感だった。
神殿なのに、神官の姿も、信者の姿もない。
松明の明かりだけが、ちらちらと壁を照らしている。
まるで——廃墟みたいだ。
背筋を、冷たいものが這い上がる。
「合流地点は、礼拝堂の裏手だったな」
「うん。急ごう」
あたしたちは、廊下を進み始めた。
足音を殺して、壁際を歩く。
ハルは——大丈夫だろうか。
考えまいとしても、頭から離れない。
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角を曲がった時だった。
「——見つけた」
声が、した。
——体が、勝手に動いていた。
考えるより先に、剣を抜いていた。
サヤも、槍を構える。
廊下の先に——女が立っていた。
銀色の短い髪。
赤い瞳。
黒いボディスーツに身を包んだ、小柄な体。
表情は——ない。
まるで人形みたいに、何も映していない目。
「……誰」
自分の声が、震えていたことに気づく。
「名前は、リーシャ」
女が、淡々と言った。
「命令だから。——殺す」
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言葉が終わる前に、リーシャが動いた。
——速いっ!
視界から、消えた。
「っ!」
本能が叫んでいた。
体が勝手に反応して、剣を上げていた。
ガキィン——!
衝撃が、腕を痺れさせる。
手首が軋む。握力が、一瞬だけ緩みそうになる。
「ティナ!」
サヤの槍が、横から突き出される。
リーシャは、それを紙一重で躱した。
身を捻るだけで、穂先が空を切る。
「……二人。面倒」
感情のない声。
抑揚がない。怒りも、苛立ちもない。
リーシャの手には、いつの間にか短剣が握られていた。
二本。
両手に一本ずつ。
銀色の刃が、松明の光を反射している。
「でも、命令だから」
リーシャが、また動いた。
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速い。
速すぎる。
あたしの剣は、リーシャの動きについていけない。
見えるのに、追いつけない。
「くっ——!」
短剣が、頬を掠めた。
熱い。
遅れて、痛みが来る。
血が、飛び散る。
「ティナ!」
「大丈夫……!」
——大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
心臓が、壊れそうなくらい早く打っている。
足が震えてる。手が震えてる。
怖い。死ぬかもしれない。逃げたい。
——でも、逃げられない。逃げたくない。
サヤが、槍を振るう。
鋭い突きが、連続でリーシャを襲う。
でも——全部、躱される。
リーシャは、それを躱しながら——サヤの懐に入り込んだ。
「——っ!」
短剣が、銀色の軌跡を描く。
サヤの脇腹に、刃が突き刺さった。
「サヤ!」
「がっ……!」
サヤが、膝をついた。
血が、床に広がっていく。
赤い。こんなに赤い。
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「……弱い」
リーシャが、短剣を引き抜いた。
血が、滴り落ちる。
ぽた、ぽた、と。
「時間の無駄」
リーシャの赤い瞳が、あたしを見た。
「次は、お前」
——足が、震えた。
膝が、笑いそうだ。
怖い。
この女——怖い。
感情がない。
殺意すら、感じない。
ただ——「命令だから殺す」。
それだけ。
あたしたちは、彼女にとって——虫を潰すのと同じなんだ。
何も感じない。何も思わない。
ただ、作業として殺す。
それが——たまらなく、恐ろしかった。
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でも——。
気づいた時には、剣を構え直していた。
体が、勝手に動いていた。
怖い。死にたくない。逃げたい。
——でも、それ以上に。
(ここで逃げたら、ハルを助けに行けない)
震える足を、叱りつける。
立て。立つんだ。
(あたしは——ハルを、守りたいんだ)
守りたい。傍にいたい。
疑ってる。怒ってる。悲しい。
——でも、それでも、好きなんだ。
だから——ここで、終われない。
「……まだ、やるの」
リーシャが、首を傾げた。
「無駄なのに」
「無駄じゃない」
声が出た。震えてるけど、出た。
「守りたい人がいるの。——だから、負けられない」
「……」
リーシャの瞳が、僅かに揺れた。
あたしの錯覚じゃなければ——何かが、揺らいだ気がした。
「守りたい人……」
まるで、その言葉の意味が分からないみたいに——繰り返した。
異国の言葉を初めて聞いたみたいな、戸惑い。
ほんの一瞬だけ——この女が、人間に見えた。
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「ティナ……逃げろ……」
サヤが、脇腹を押さえながら立ち上がった。
血が、指の間から滴り落ちている。
顔色が悪い。唇が白い。
「私が、時間を稼ぐ……」
「馬鹿言わないで! 一緒に——」
「無理だ。——この女、強すぎる」
サヤの目が、あたしを見た。
血の気が引いた顔。
でも——瞳だけは、燃えていた。
諦めてない。折れてない。
「お前は、ハルの所に行け。——私は、ここで」
「サヤ……」
「早く行け!」
サヤが、槍を構えた。
血が、床に滴り落ちている。
それでも——立っている。
あたしより、ずっと強い。
肉体じゃない。心が。
「……分かった」
あたしは、唇を噛んだ。
血の味がした。
「絶対、死なないで」
「当たり前だ。——こんな所で死んでたまるか」
サヤが、不敵に笑った。
その笑顔が——泣きたいくらい、眩しかった。
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あたしは、走り出した。
リーシャが、追おうとする。
サヤの槍が、その前に立ちはだかった。
「お前の相手は、私だ」
「……邪魔」
「邪魔で結構。——さあ、来い」
金属音が、背後で響いた。
ガキン、ガキン、と。
命のやり取りをする音。
あたしは——振り返らずに、走り続けた。
(サヤ……!)
胸が痛い。置いていくことが、苦しい。
でも——信じるしかない。
サヤは、死なない。
絶対に、死なない。
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廊下を走る。
息が上がる。足が重い。
ハルは——どこだ。
搬入口から入ったはず。
礼拝堂の裏手で合流する予定だった。
でも——。
(嫌な予感がする)
胸騒ぎが、止まらない。
ハルも、敵に遭遇しているかもしれない。
あの女みたいな化け物が、他にもいたら——。
あたしは——走る速度を、上げた。
足が痛い。肺が焼けそう。
それでも、止まれない。
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廊下を曲がった時。
倒れている人影が、見えた。
「——ハル!」
声が、勝手に出ていた。
駆け寄る。
ハルが、壁にもたれて座り込んでいた。
全身に痣。
剣は、弾き飛ばされたのか——手元にない。
「ハル、大丈夫!?」
膝をついて、ハルの顔を覗き込む。
目が合った。
——その瞬間、全部吹き飛んだ。
疑いも、怒りも、悲しみも。
「……ティナ……」
「怪我してる——!」
ハルの顔は、痣だらけだった。
服も破れて、血が滲んでいる。
——生きてる。生きてる。
それだけで、涙が出そうになった。
「何があったの……」
「敵が……いた……」
「あたしたちも……」
背後から、声がした。
振り返ると——サヤが、壁に手をついて歩いてきた。
脇腹を、押さえている。
血が——滲んでいる。
「サヤ! 大丈夫なの!?」
「死んでない……それだけだ……」
サヤが、苦々しい顔で言った。
でも——生きてる。立ってる。
「銀髪の女に、やられた。——全く、歯が立たなかった」
悔しそうな声。
サヤでも、勝てなかったんだ。
————三人で、神殿を後にした。
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あたしが、ハルの体を支えた。
ハルの体温が、服越しに伝わってくる。
昨日まで、この温もりが他の女のものだったかもしれないと思うと——胸が、ぎゅっと痛んだ。
でも、今は。
今は、生きていてくれて良かった。
それだけでいい。
サヤは、自分で歩いている。
強がっているけど——相当、辛そうだ。
「……ごめん」
ハルが、小さく言った。
「何が?」
「俺のせいで……二人とも、怪我して……」
「馬鹿言わないで」
あたしは、ハルの腕を強く握った。
「あたしたちは、自分の意志で来たの。——ハルのせいじゃない」
「……」
「だから、謝らないで」
ハルが——何か、言いたそうな顔をしていた。
口を開きかけて、閉じる。
その表情に——何かを隠している色が見えた。
あたしは——聞かなかった。
今は、聞けない。聞きたくない。
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王城への道中。
夜風が、頬の傷に沁みる。
サヤが、ぽつりと言った。
「……あの女、変なことを言っていた」
「変なこと?」
「『効かない者は、地下に閉じ込めておく』って」
「どういう意味……?」
「分からない。——でも、何か意味があるんだろう」
あたしは、その言葉を——心に留めた。
ミリアさんが、地下にいるかもしれない。
希望の糸が、一本だけ見えた気がした。
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王城で、王女様に報告した。
応接室の空気は、重かった。
ハルが、今夜の出来事を話す。
あたしは、その隣に立っていた。
「……四天王が二人も。厄介ね」
王女様の声は、冷静だった。
「今のあなたたちでは、彼らには勝てないわ」
分かってる。
痛いほど分かってる。
「……少し、時間をください」
ハルが、頭を下げた。
あたしは——その背中を、見つめていた。
傷だらけの背中。
疲れ切った肩。
でも——折れてない。
まだ、立っている。
その姿に——あたしは、何を感じているんだろう。
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(ハル……)
何があったの。
昨日、どこにいたの。
誰と、何をしていたの。
聞きたいことは、たくさんある。
喉まで出かかって、飲み込んだ言葉が、いくつも。
でも——今は、聞けない。
今は——ミリアさんを、助けることが先だ。
だから——。
(今は、我慢する)
あたしは、拳を握りしめた。
爪が、掌に食い込む。
痛い。でも、この痛みで踏みとどまる。
(でも、いつか——ちゃんと、聞くから)
逃げないで、答えてね。
あたしも——逃げないから。
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【第43章 終】




