第41章「紫の罠」
第41章「紫の罠」
────────────────────────────────
翌朝。
俺たちは、手分けして情報を集めることにした。
「ティナは街の人たちから噂を。サヤはギルドで神殿関連の依頼を確認してくれ」
「ハルは?」
「俺は神殿の周辺を見てくる。——外から、様子を探る」
「一人で大丈夫?」
ティナが、心配そうな顔をした。
眉が寄っている。唇が、わずかに尖っている。
昨日から——いや、王女と会ってから、この顔をよく見る気がする。
「遠目で見るだけだ。中には入らない」
「……分かった。でも、気をつけてね」
「ああ」
ティナの手が、一瞬だけ俺の袖を掴んだ。
すぐに離れる。
何か言いたそうな目。でも、口には出さない。
俺たちは、宿の前で別れた。
────────────────────────────────
神殿は、王都の東区画にあった。
白い石造りの巨大な建物。
尖塔が天を突き、ステンドグラスが朝日を反射している。
「……立派だな」
遠目に見ても、その威容は圧倒的だ。
周囲には、信者たちが行き交っている。
祈りを捧げる者、寄付をする者、神官に相談する者——。
一見、何も変わったところはない。
だが——。
「……妙だな」
俺は、眉を寄せた。
神殿の入り口に、武装した衛兵が立っている。
それ自体は珍しくない。
だが——その数が、多すぎる。
入り口だけで六人。
建物の周囲にも、巡回している姿が見える。
「警備が厳重すぎる……」
普通の神殿なら、こんなに兵を置く必要はないはずだ。
何かを——隠している。
あるいは、誰かを——入れたくない。
────────────────────────────────
神殿の周囲を、ぐるりと回ってみた。
裏手には、物資の搬入口らしき扉がある。
そこにも、衛兵が二人。
「……正面からは無理だな」
どこから入るにしても、見つかる。
潜入するなら、夜か——。
「——あら、何をしているの?」
突然、声をかけられた。
——背筋に、冷たいものが走った。
いつからいた?
気配を、まったく感じなかった。
振り返ると——女が立っていた。
紫色の長い髪。
金色の瞳。
黒いドレスに身を包み、手には扇子。
妖艶な笑みを浮かべている。
——美しい。
そう思うのと同時に、本能が警鐘を鳴らしていた。
危ない。この女は、危ない。
「……誰だ」
俺は、警戒して距離を取った。
「そんなに怖い顔しないで。——ただの通りすがりよ」
女が、くすくすと笑った。
扇子で口元を隠しながら。
その金色の瞳が、俺を舐め回すように見ている。
「神殿を睨みつけて、何か企んでいるのかしら?」
「……別に」
「嘘。——その目、見覚えがあるわ」
女が、一歩近づいてきた。
逃げたい。でも、足が動かない。
「何かを探している目。——何かを暴こうとしている目」
「……」
「当たりでしょう?」
女の金色の瞳が、俺を射抜いた。
見透かされている——。
心の奥まで、覗き込まれているような感覚。
気持ち悪い。でも——目が離せない。
────────────────────────────────
「……あんた、何者だ」
「私? ただの——そうね、『観察者』とでも言っておくわ」
「観察者?」
「世界で起きる面白いことを、眺めるのが趣味なの」
女が、扇子で口元を隠した。
その奥で、口角が上がっているのが分かる。
「あなた、面白そうね。——名前は?」
「……ハル・カーマイン」
言うつもりはなかった。
なのに——口が、勝手に動いていた。
「ハル……ふふ、良い名前。——私はシルヴィア」
シルヴィア。
聞いたことのない名前だ。
「で、ハル。——神殿で何が起きているか、知りたい?」
「……何を知っている」
「色々と。——この街で起きていることは、大体把握しているわ」
シルヴィアが、神殿を見上げた。
「あそこは今、とある女に支配されている。——メルティアという名の」
——心臓が、跳ねた。
メルティア。
森で俺たちを助けた、あの黒髪の女。
「……知っているのか」
「ええ、よく知っているわ。——昔からの……そうね、『知り合い』」
シルヴィアの目が、一瞬だけ冷たく光った。
さっきまでの余裕が、消えている。
「大嫌いな知り合い、だけど」
その声には——憎悪とも、嫌悪とも違う、複雑な何かが滲んでいた。
────────────────────────────────
「メルティアは、精神を操る魔法の使い手よ」
シルヴィアが、歩き始めた。
俺も、自然とその後をついていく。
——なぜだ。警戒しているのに、足が勝手に動く。
「《服従》という魔法。——相手の心を縛り、思い通りに動かす」
「精神操作……」
「教皇も、上位の神官たちも、みんな彼女の傀儡。——可哀想に、自分の意思なんてとっくになくなっているわ」
喉が、詰まった。
ミリアは——大丈夫なのか。
「あなたの知り合いも、神殿にいるんでしょう?」
「……どうして分かる」
「顔に書いてあるもの」
シルヴィアが、くすりと笑った。
その笑顔が——どこか、楽しそうに見えた。
俺の動揺を、愉しんでいるように。
「心配しなくても、まだ無事よ。——たぶん」
「たぶん?」
「見習いの治癒師でしょう? まだ『使える』から、手は出されていないわ」
「……」
「でも、いつまでもつかは分からない。——メルティアは気まぐれだから」
────────────────────────────────
路地裏に入った。
人気がない。
——罠か?
「……なぜ、俺にこんなことを教える」
「言ったでしょう。面白いことを眺めるのが趣味だって」
シルヴィアが、振り返った。
金色の瞳が、輝いている。
「あなたが神殿に乗り込んで、メルティアと戦う。——それを見たいの」
「……俺を、駒にするつもりか」
「駒? そんな大層なものじゃないわ」
シルヴィアが、俺の顎に指を添えた。
冷たい指先。
——逃げろ。そう思っているのに、体が動かない。
「ただの——娯楽よ」
その声が、耳の奥に沁み込んでくる。
「でも、このままじゃあなた、メルティアに勝てない」
「どういう意味だ」
「《服従》は、強力な魔法。——普通の人間なら、目を合わせた瞬間に心を奪われる」
シルヴィアが、懐から何かを取り出した。
小さな、銀色の耳飾り。
「これをあげるわ」
「……何だ、これは」
「精神防御の魔道具。——メルティアの《服従》に対する、ある程度の耐性がつく」
俺は、耳飾りを見つめた。
「……なぜ、こんなものを」
「メルティアが嫌いだから」
シルヴィアが、吐き捨てるように言った。
「……そうね、私たちは似ているの。似すぎているから、吐き気がするくらい嫌い」
金色の瞳に、複雑な感情が浮かんでいる。
憎悪。嫌悪。そして——否定しきれない何か。
「目障りなの。——だから、誰かに潰してほしい」
「……それで、俺に」
「そう。——あなた、面白そうだもの」
────────────────────────────────
「……ただで、くれるのか」
「まさか」
シルヴィアが、笑った。
「対価は、いただくわ」
「金か?」
「お金なんて、いらない」
シルヴィアが、俺の胸に手を当てた。
心臓の鼓動が、伝わっているはずだ。
「あなたの——体が、欲しいの」
「……は?」
「一晩、私と過ごしなさい。——それが条件」
シルヴィアの金色の瞳が、俺を見つめている。
妖艶な笑み。
誘うような視線。
——体が、熱くなっていく。
理性が、必死に抵抗している。
でも——本能が、別のことを叫んでいる。
「冗談……だよな」
「本気よ」
シルヴィアが、俺の耳元に唇を寄せた。
「久しぶりに、面白い男を見つけたの。——味わってみたいじゃない」
吐息が、耳をくすぐる。
甘い香りが、鼻腔を満たす。
頭が——ぼんやりしてくる。
「俺には……恋人が、いる」
「知ってるわ。二人も」
シルヴィアが、くすくすと笑った。
「でも、それが何? ——あなた、本当は欲しいんでしょう?」
「……」
「目を見れば分かるわ。——欲望を、必死に押さえ込んでいる」
シルヴィアの手が、俺の頬を撫でた。
「我慢しなくていいのよ。——私は、あなたを責めたりしない」
────────────────────────────────
——断れ。
頭では、そう思っている。
ティナとサヤを裏切ることになる。
でも——。
(ミリアを、助けたい)
あの耳飾りがあれば、メルティアの魔法に抵抗できる。
神殿に潜入して、ミリアを救い出せるかもしれない。
そのためなら——。
——いや、本当にそれだけか?
自分に問いかける。
目の前の女に、惹かれていないと言い切れるか?
……言い切れない。
最低だ。分かってる。分かってるのに——。
「……本当に、効果があるんだな」
「疑うの?」
「確認だ」
「ふふ、用心深いのね。——ええ、効果はあるわ。私が保証する」
シルヴィアが、耳飾りを俺の手に握らせた。
冷たい金属の感触。
「さあ、決めなさい。——私と一晩過ごすか、ミリアとかいう子を見捨てるか」
「……っ」
卑怯だ。
こんなの、選択じゃない。
でも——。
「……分かった」
気づいた時には、声が出ていた。
頭より先に、口が動いていた。
「一晩だけだ」
「ふふ、良い子」
シルヴィアが、満足そうに笑った。
その笑顔が——どこか、哀しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
「じゃあ、ついてきなさい。——私の部屋に、案内してあげる」
────────────────────────────────
連れてこられたのは、高級宿の一室だった。
豪華な調度品。
大きな天蓋付きのベッド。
窓からは、王都の街並みが見える。
「さあ、座って」
シルヴィアが、ベッドに腰かけた。
俺も、隣に座る。
心臓が、早鐘を打っている。
——何をやっているんだ、俺は。
ティナの顔が、浮かんだ。
サヤの顔も。
二人とも——俺を信じてくれている。
それなのに——。
「緊張してるの? 可愛いわね」
「……うるさい」
「ふふ、罪悪感? ——素敵。もっと見せて」
シルヴィアの目が、輝いていた。
俺の苦しみを——愉しんでいる。
「……性格悪いな、あんた」
「よく言われるわ」
シルヴィアが、俺の顎を掴んだ。
そして——唇を、重ねてきた。
────────────────────────────────
「んっ……」
シルヴィアの唇は、甘かった。
舌が絡み合い、吐息が混ざる。
「ふふ、いい反応……」
「っ……」
考えるな。
考えたら——止まってしまう。
シルヴィアの手が、俺の服の中に入ってきた。
冷たい指が、肌を這う。
「力、抜きなさい。——私に、任せて」
「……」
シルヴィアが、俺を押し倒した。
ベッドに仰向けになる。
シルヴィアが、俺の上に跨った。
「今夜は——たっぷり、遊んであげる」
その目が——どこか、寂しそうに見えた。
気のせいかもしれない。
でも——そう思った。
────────────────────────────────
シルヴィアが、ゆっくりとドレスの紐を解いた。
黒い布が滑り落ち、白い肌が露わになる。
形の良い胸。
くびれた腰。
妖艶な曲線。
「……綺麗だ」
思わず、呟いていた。
本音だった。
——最低だ。こんな時に、こんなことを思うなんて。
「ありがとう。——でも、見るだけじゃつまらないでしょう?」
シルヴィアが、俺の手を取った。
そして——自分の体に、導いた。
その先は——書けない。
書けないけれど——その夜、俺たちは一線を越えた。
罪悪感が、胸を締め付ける。
でも——止まれない。止まりたくない。
体が、快楽を求めている。
────────────────────────────────
その夜は、長かった。
詳しくは書かない。書けない。
シルヴィアの体温。吐息。
俺の罪悪感と、抗えない衝動。
全部が——ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
「あっ……」
シルヴィアの声が、時折漏れる。
俺も——何度も、彼女を求めた。
ティナ。サヤ。
二人の顔が、頭をよぎる。
——最低だ。分かってる。
でも——止まれなかった。
────────────────────────────────
「……はぁ……はぁ……」
夜が明ける頃、俺たちはようやく止まった。
シーツは乱れ、汗ばんだ肌が朝日に照らされている。
「……ふふ、良かったわ」
シルヴィアが、満足そうに笑った。
仰向けになって、天井を見上げている。
「期待以上。——また、遊びたいくらい」
「……一晩だけだ」
「分かってるわ。——約束は守る」
シルヴィアが、起き上がった。
俺の顔を、覗き込んでくる。
「……いい顔してるわね」
「……何がだ」
「罪悪感と、快楽と、自己嫌悪が全部混ざった顔。——素敵」
「……性格悪いって言われないか」
「さっきも言ったわ」
シルヴィアが、俺の頬に手を当てた。
「楽しかったわ、ハル」
その目に——一瞬だけ、本当の感情が見えた気がした。
寂しさ。虚しさ。そして——何かを求める渇望。
────────────────────────────────
明け方。
俺は、ベッドの上で目を覚ました。
体中が、重い。
隣に、シルヴィアはいない。
代わりに——テーブルの上に、銀の耳飾りと、一枚のメモが置かれていた。
『楽しかったわ。——また会いましょう、ハル』
『P.S. メルティアには気をつけなさい。あの女、あなたに興味を持っているから』
「……」
俺は、メモを握りしめた。
——何をやっているんだ、俺は。
ティナとサヤが、信じて待っていてくれているのに。
俺は——こんなところで、別の女と。
「……最低だ」
自分の声が、やけに空っぽに聞こえた。
耳飾りを手に取る。
ずしりと、重い。
これで——メルティアの魔法に、抵抗できる。
ミリアを、助けられるかもしれない。
だが——。
(こんなやり方で手に入れて、何の意味がある)
分からない。
分からないけど——もう、やってしまった。
後悔しても、取り消せない。
「……行くか」
俺は、服を着て、部屋を出た。
宿に戻って、二人と合流しなければ。
何も——なかったかのように。
——できるのか、そんなこと。
────────────────────────────────
宿に戻ると、ティナとサヤが待っていた。
「ハル、遅かったね。——どこ行ってたの?」
ティナの声が、いつもより少しだけ硬い。
気のせいか——いや、違う。
「ああ、ちょっと……情報収集に手間取って」
「そう……」
ティナが、じっと俺を見つめた。
視線が、俺の体を這う。
首筋。胸元。腕。
——何かを、探している。
「……何だ?」
「ううん、何でもない」
ティナが、首を振った。
でも——目が、笑っていない。
何かを、飲み込んだような顔。
言いたいことがあるのに、言わないことを選んだ顔。
「それより、こっちの情報を聞いて」
────────────────────────────────
三人で、集めた情報を共有した。
「街の人たちの話だと、最近神殿に出入りする人が減ってるって」
ティナが言った。
いつもの明るさが、少しだけ欠けている。
「寄付だけは増えてるのに、礼拝に来る信者は減ってる。——おかしいよね」
「ギルドでも、神殿関連の依頼がここ二ヶ月で激減してた」
サヤが続けた。
俺を見る目が、いつもより鋭い。
「前は治癒師の派遣依頼とか多かったのに、今は全然ない。——神殿側から断ってるらしい」
「そうか……」
俺は、自分が得た情報を——一部だけ、伝えた。
「神殿は、何者かに支配されてるらしい。——メルティアという女に」
「メルティア?」
「森で俺たちを助けた、あの黒髪の女だ」
ティナとサヤの顔色が変わった。
「あの女が……」
「精神を操る魔法の使い手だそうだ。——教皇も、神官たちも、操られている」
「……それじゃ、ミリアさんも」
「まだ無事らしい。——でも、急がないと」
俺は、懐から耳飾りを取り出した。
「これは?」
ティナの声が、硬くなった。
「精神防御の魔道具だ。——これがあれば、メルティアの魔法に抵抗できる」
「……どこで手に入れたの?」
その目が——俺を、射抜いていた。
「……協力者から」
嘘は、言いたくなかった。
でも——本当のことも、言えなかった。
「協力者?」
「詳しくは言えない。——でも、信用できる」
長い沈黙。
ティナが、俺を見つめている。
その目に——何かを知っているような光があった。
「……そう」
ティナが、小さく呟いた。
「……まあいい」
サヤが、肩をすくめた。
でも——その目は、ティナと同じだった。
「使えるなら、使う。——それで、どうする?」
「今夜、まずは王女様に今日の事を報告する」
俺は、二人を見た。
——視線を、合わせられなかった。
「そして、ミリアを——助けに行く」
────────────────────────────────
【第41章 終】




