第40章「蜜の檻」──メルティア視点
第40章「蜜の檻」──メルティア視点
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神殿の最奥。
教皇専用の私室に、私は足を踏み入れた。
「——め……る……てぃあ……さま……」
白髪の老人が、床に這いつくばって私を迎える。
教皇グレゴリオ。
この神殿の最高権力者にして——今は、私の壊れた人形。
「ふふ、良い子ね。——顔を上げなさい」
私は、教皇の顎に指を添えた。
虚ろな目が、私を見上げる。
焦点が合っていない。
口の端から、涎が垂れている。
かつては鋭い知性を宿していたはずの瞳。
今は——私への渇望だけが、ぼんやりと揺らめいている。
「今日も、よく働いてくれたわね」
「は……い……め……るてぃあ……さま……」
「王女を追い返したこと、聞いたわ。上手くやったじゃない」
「おう……じょ……おい……かえ……し……」
まともな会話はできない。
でも、命令には従う。
それで十分。
「ご褒美をあげなくちゃ」
私は、口の端を吊り上げた。
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教皇の私室は、豪奢だった。
天蓋付きの大きな寝台。
壁には聖典の一節が刻まれた装飾。
神に仕える者の部屋とは思えない、贅沢な空間。
「さあ、寝台に」
「は……い……」
教皇が、よろよろと這って寝台に向かう。
七十を超えた老体。
二ヶ月前は、まだ人間だった。
今は——ただの肉の塊。
《服従》の魔法は、精神を縛る。
使いすぎれば、心が壊れる。
でも、それでいい。
壊れた方が、扱いやすいから。
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寝台に横たわった教皇の傍に、私は膝をついた。
「あ……あ……」
言葉にならない声が漏れる。
「静かに。——今日は、特別なご褒美よ」
私は、ゆっくりとドレスの紐を解いた。
黒い布が滑り落ち、白い肌が露わになる。
教皇の目が、私の胸元に釘付けになった。
理性はなくても、本能は残っている。
「……ほら、好きにしていいのよ」
その先は、書けない。
書く必要もない。
ただ——私は、この老いた男を弄んだ。
気持ちいいわけではない。
この老人の触れ合いに、快楽なんて感じない。
でも——この者が、私に溺れていく様を見るのは愉快だった。
権力の頂点にいた男が、私の前では獣以下になる。
その光景が、私の心を満たす。
——いや、満たしているはずなのに。
どこか、虚しい。
なぜかしら。
考えるのをやめて、私は微笑んだ。
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「もっと……もっと……」
「欲しいの?」
「は……い……」
「じゃあ、報告を聞かせて。——今日の収穫は?」
私は、教皇の顎を掴んだ。
「きん……か……さん……びゃく……」
「金貨三百枚? まあ、素晴らしい」
「しん……じゃ……たち……が……」
「信者たちが、神殿のために寄付してくれたのね。——くすっ、可哀想に」
私は、小さく笑った。
その金は、神殿のためになど使われない。
全て——私の懐に入る。
魔王様への貢ぎ物。
そして、私自身の野望のための資金。
「良い子ね。——ご褒美の続き、あげるわ」
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その夜は、長かった。
詳しくは書かない。
ただ——私は教皇を完全に支配し、情報を引き出した。
「封印が解けたら、あの魔道具は私のものよ。——分かってるわね?」
「は……い……ぜん……ぶ……あなた……さま……の……」
「良い子」
教皇の壊れた声が、部屋に響く。
やがて——彼が果てた時、私は静かに腰を上げた。
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「……良かったわよ」
教皇は、完全に脱力していた。
目は虚ろ。
意識すら、もうない。
白目を剥いて、口から涎を垂らしている。
「おやすみなさい、教皇様。——明日も、よろしくね」
私は、そう言って——ふと、手を止めた。
眠る老人の顔を見下ろす。
壊れた人形。
もう、何の反応も返ってこない。
——つまらない。
二ヶ月前は、もう少し楽しめたのに。
抵抗があった。葛藤があった。「やめてくれ」と懇願する目があった。
今は——何もない。
ただの肉。ただの道具。
「……飽きてきたわね」
呟いて、ドレスを纏い直した。
支配しても、壊してしまったら——結局、虚しいだけ。
なぜかしら。こうして手に入れても、満たされない。
もっと強い刺激が欲しい。もっと大きな獲物が欲しい。
——だから、あの魔道具が必要なのよ。
私は、自分に言い聞かせた。
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私室を出ると、冷たい空気が肌を撫でた。
「……ふう」
軽く息を吐く。
教皇を篭絡してから、もう二ヶ月。
最初は、もう少しまともだった。
でも、《服従》を重ねるうちに——ああなった。
「まあ、いいわ。使えれば」
神殿は、完全に私の支配下にある。
神官たちは、教皇の命令に従うだけ。
その教皇が、私の傀儡。
つまり——この神殿は、実質的に私のもの。
「順調、順調」
私は、廊下を歩きながら口角を上げた。
でも——心の奥で、何かが疼いている。
順調なはずなのに。思い通りなのに。
この虚しさは、何?
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王女が視察に来た時は、少し焦った。
あの銀髪の女は、鋭い。
何かを察していた。
だから——刺客を送った。
魔獣を操り、森で襲わせた。
私が《支配》で繋いでいた魔狼たち。
精神をリンクさせることで、遠くからでも操れる。
そして——奴らの目を通して、見ることもできる。
結果は——失敗。
魔狼が倒される瞬間まで、私は見ていた。
若い男が、炎の魔法で魔狼を焼いた。
黒髪の女が、槍で心臓を貫いた。
そして——最後の一匹が斬り伏せられる時、男の顔がはっきりと見えた。
「この子。前にどこかで……」
年不相応な実力……普通ではない。
目を閉じても、あの顔が浮かんでくる。
必死に戦う姿。仲間を守ろうとする真剣な目。
——若い。強い。そして、まだ壊れていない。
「……面白い子」
私は、指先で唇をなぞった。
あの子を手に入れたら——どんな顔をするかしら。
あの真っ直ぐな目が、私だけを見るようになったら。
胸の奥が、久しぶりに熱くなった。
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王女を殺すのは、本命ではない。
時間稼ぎができれば、それで十分。
地下の封印さえ解ければ——あの魔道具は、私のもの。
あれがあれば、私は——。
「魔王様にも、負けないくらい強くなれる」
魔王ヴェルザードには、恩義がある。
私を拾い、四天王にしてくれた。
でも——私は、いつまでも誰かの下僕でいるつもりはない。
力をつけて、いつか——。
「……野望は胸に秘めておくものよね」
私は、地下への階段を降りていった。
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地下の奥。
封印された部屋の前に、人影が二つあった。
「——遅かったな、メルティア」
低い声。
振り返ると——褐色の肌をした巨漢が立っていた。
傷だらけの体。
重厚な鎧。
腰には、大剣。
「ザルヴァ……来たのね」
「お前が呼んだんだろう。——戦力が欲しいと」
四天王が壱、ザルヴァ。
誇り高き武人。
戦うことだけを生きがいにしている男。
「魔王様が、俺たちを寄越した」
「俺『たち』?」
「……」
ザルヴァの隣に、もう一つの影があった。
銀髪のショートヘア。
赤い目。
黒いボディスーツに包まれた、小柄な体。
「——リーシャ」
「……命令」
四天王が肆、リーシャ。
感情を持たない暗殺者。
彼女が自分から言葉を発するのは、珍しい。
「あら、二人も? 魔王様も太っ腹ね」
「……ゼノスは来ない」
リーシャが、淡々と言った。
「そう、あの男らしいわ」
四天王が参、ゼノス。
あの男は、自分の利益にならないことには動かない。
予想通りだった。
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「——で、状況は」
ザルヴァが、腕を組んで言った。
「順調よ。神殿は完全に掌握した。あと一週間で、地下の封印も解ける」
「封印の先には、何がある」
「古代の魔道具。——とても、強力なものよ」
「……それを、お前が使うのか」
「ええ。——問題ある?」
「俺には関係ない」
ザルヴァが、鼻を鳴らした。
「俺は戦えればいい。——魔王様の命令に従うだけだ」
「……同じく」
リーシャが、無表情で言った。
「あら、頼もしいわね」
私は、笑みを浮かべた。
本心では——この二人を、少し警戒している。
ザルヴァは単純だから扱いやすい。
でも、リーシャは読めない。
感情がないということは、予測もできないということ。
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「——ところで」
ザルヴァが、私を見た。
「さっきまで、何をしていた」
「あら、野暮なことを聞くのね」
「……匂いで分かる」
「まあ」
私は、くすりと笑った。
「教皇様に、ご褒美をあげていたのよ」
「……あの老いぼれを」
ザルヴァが、呆れた顔をした。
「趣味が悪いな」
「趣味じゃないわ。——仕事よ」
「……理解できん」
「あなたには、分からないでしょうね。——色仕掛けの有用性」
私は、肩を竦めた。
「力だけが、全てじゃないのよ。ザルヴァ」
「……フン」
ザルヴァは興味を失ったように視線を逸らした。
この男には、色香が通じない。
それがいいところでもあり、つまらないところでもある。
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「——私たちは、何を」
リーシャが、問いかけてきた。
「そうね……まずは、邪魔者の排除をお願いしたいわ」
「邪魔者」
「王女が、嗅ぎ回っているの。——冒険者を使って、調査させるつもりみたい」
「……殺す」
リーシャが、淡々と言った。
「頼もしいわね。——でも、まだ早いわ」
私は、首を振った。
「今は泳がせておきましょう。——彼らが、どこまで辿り着けるか見てみたい」
「……遊んでいるのか」
ザルヴァが、眉を寄せた。
「遊びじゃないわ。——観察よ」
私は、微笑んだ。
あの森で見た冒険者の男。
私の魔法に違和感を覚えていた。
普通ではない。
「面白い素材がいるの。——少し、興味があるのよ」
「……好きにしろ」
ザルヴァが、壁にもたれかかった。
「俺は、戦える相手がいればいい」
「……命令があれば、動く」
リーシャが、無表情で言った。
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「じゃあ、決まりね」
私は、封印された扉を見つめた。
「あと一週間。——この神殿は、完全に私のものになる」
地下の奥から、微かな魔力の波動が漏れ出ている。
古代の魔道具。
それを手に入れれば——。
「楽しみだわ」
私は、笑みを浮かべた。
魔神の力を与えてくれるという指輪。
あれさえあれば、魔王にも——。
野望が、胸の奥で渦巻いている。
この虚しさも、この飢えも——全部、あの力で満たしてやる。
そして、あの冒険者の男も——。
「……待っていなさい」
私は、闇の中で呟いた。
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【番外編・第40章 終】




