第4章「代償と、新しい命」
第4章「代償と、新しい命」
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あの夜から、何かが変わった気がする。
壁越しに聞いた両親の睦まじい声。愛し合う二人の息遣い。
──いつか俺も、ああなりたい。
その想いが、胸の奥で燻っていた。
誰かに愛されて、誰かを愛して。夜になれば、自然に寄り添い合って。
そのためには──強くならなきゃいけない。
魔法の修行に、これまで以上に身が入るようになった。
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《火灯》を覚えてから一ヶ月。
俺は次々と新しい魔法を習得していった。
《水球》──手のひらサイズの水の塊を作る魔法。
《風刃》──風を刃のように飛ばす攻撃魔法。
《土壁》──地面から土の壁を作り出す防御魔法。
「……お前、マジでなんなんだ」
父さんが、呆れたような、感心したような顔をしている。
「普通、一つの属性を覚えるのに半年かかる。それをお前は、四属性全部を二ヶ月で……」
「だって、やり方は同じだから」
魔力を感じて、イメージして、放出する。基本は変わらない。属性が違うだけ。
「やり方は同じ、か……」
父さんの表情が、複雑なものに変わった。
誇らしさ。驚き。そして──どこか、不安げな。
「まあ、いい。才能があるのは確かだ。でもな、ハル」
「うん」
「調子に乗るなよ。魔法には代償がある。魔力を使いすぎると……」
「大丈夫だよ、父さん。分かってる」
俺は、父さんの言葉を軽く聞き流していた。
順調だった。何もかもが、うまくいっていた。
だから、油断した。
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ある日の午後。
俺は一人で、村の外れにある森に来ていた。
木漏れ日が地面に模様を作っている。鳥の声が遠くで聞こえる。
「よし……」
手のひらに意識を集中する。
《火球》。
《火灯》の上位互換。より大きく、より熱い炎を作り出す魔法。父さんはまだ教えてくれていない。「早すぎる」と言われた。
でも、俺にはできる気がした。
できる。きっとできる。今までだって、全部うまくいってきた。
(やってみよう)
魔力を練る。いつもより多く。いつもより強く。
手のひらが熱くなる。赤い光が集まっていく。
「……っ」
大きい。《火灯》の何倍もある炎が、俺の手のひらの上で渦を巻いている。
(できる……!)
嬉しかった。興奮した。体の芯が震えるほど、高揚していた。
もっと大きく。もっと強く。
俺にはできる。俺には才能がある。
魔力を注ぎ込む。限界なんて──
「──っ!?」
その瞬間。
体から、何かが抜けていく感覚があった。
水が排水溝に吸い込まれていくような。命そのものが、指の間からこぼれ落ちていくような。
(え……?)
足から力が抜けた。
膝が折れる。視界がぐらりと傾く。
手のひらの炎が消える。消えた、というより──消えていた。いつの間にか。
「な、に……これ……」
地面が近づいてくる。
受け身を取ろうとした。体が動かない。
顔から倒れ込む。土の匂いが鼻を突いた。
「う……ぐ……」
指一本、持ち上がらない。
息が苦しい。胸が締め付けられる。心臓が、でたらめに跳ねている。速くなったり、遅くなったり、止まりそうになったり。
(死ぬ……?)
その言葉が、頭の中で響いた。
(俺、死ぬのか……?)
──恐怖が、全身を駆け巡った。
違う。嫌だ。死にたくない。
前世の記憶が蘇る。病院のベッド。白い天井。誰もいない病室。誰も見舞いに来ない。誰も声をかけてくれない。
孤独に、静かに、消えていく。
あの時は──どこかで、ほっとしていた。
もう頑張らなくていい。もう一人で耐えなくていい。楽になれる。
でも、今は違う。
(嫌だ)
今度は違うんだ。
友達ができた。ティナがいる。父さんがいる。母さんがいる。
やっと、やっと手に入れたのに。
(こんなところで、死にたくない……!)
死にたくない。でも体が動かない。声も出ない。
怖い。怖い。怖い。
なのに──心のどこかで、冷めた声が聞こえた。
『また同じか』
『また一人で死ぬのか』
『結局、前世と変わらないじゃないか』
(違う)
違う。今度こそ、違うはずだった。
なのに。
意識が遠のいていく。視界が暗くなる。
暗闇の中に、落ちていく。
──また、一人で。
「ハル!!」
遠くで、誰かの声が聞こえた。
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目を開けると、見慣れた天井があった。
自分の部屋。家の中。
生きている。
「……っ」
体を起こそうとして、頭の奥が割れるように痛んだ。
「動いちゃダメよ」
母さんの声。すぐ近く。
顔を向けると、ベッドの横に座っていた。目が赤い。まつ毛が濡れている。
泣いていた。俺のために。
「母さん……」
「馬鹿な子。一人で何をしてたの」
「……ごめん」
声が掠れた。喉がカラカラだった。
「魔力枯渇よ。あと少し遅かったら、死んでたかもしれないって」
──死んでた。
その言葉が、腹の底にずしりと落ちた。
本当に、死ぬところだった。
「父さんが見つけてくれたの。森の方から魔力の気配がしたって、飛び出していって……」
「父さん……」
「今は別の部屋で休んでるわ。あなたを探し回って、抱えて走って帰ってきて……」
母さんの声が震えている。
「心配、かけたんだね」
「当たり前でしょ……!」
母さんが、俺を抱きしめた。
強く。痛いくらいに。
肩に、温かいものが落ちる。母さんの涙だ。
「もう、こんな無茶しないで……お願いだから……」
「……うん」
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになった。
嬉しい。こんなに心配されて、嬉しい。
前世では、誰も心配してくれなかった。倒れても、泣いても、誰も気づかなかった。病室で一人で死んでも、きっと誰も悲しまなかった。
でも、今は違う。
俺を心配してくれる人がいる。俺のために泣いてくれる人がいる。
──なのに、同時に、申し訳なさが込み上げてくる。
こんなに心配させて。こんなに泣かせて。
俺のせいだ。俺が調子に乗ったせいだ。
「ごめん、母さん。もうしない」
声が震えた。泣きそうになる。でも、ここで泣いたら、もっと心配させる。
「……本当に?」
「本当に」
母さんが、俺の顔を見つめる。
涙で濡れた目。でも、その奥に、安堵の色が浮かんでいる。
「……馬鹿息子」
小さく、笑った。
「でも、無事で良かった」
母さんが、俺の頭を撫でる。優しく。温かく。
その温もりが、胸の奥まで染みた。
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三日後。
俺は完全に回復していた。魔力も戻っている。
体は元通りだった。でも、心のどこかに、あの恐怖がまだ残っていた。暗闇に落ちていく感覚。一人で死んでいく絶望。
「ハル、ちょっと来い」
父さんに呼ばれて、居間に行く。
父さんは、壁にもたれて腕を組んでいた。いつもより、表情が硬い。
「……怒ってる?」
「当たり前だ」
低い声だった。
でも、怒りだけじゃない。何か別のものが、混じっている。
「言っただろ。調子に乗るなって」
「……うん」
「魔力枯渇ってのはな、最悪死ぬんだ。お前は運が良かっただけだ」
「……ごめん」
「謝って済む問題じゃねえ」
父さんの声が、震えていた。
怒っている。でも、それだけじゃない。
怖かったんだ。
俺が死ぬかもしれなくて、怖かったんだ。
「……お前が死んだら、俺はどうすればいいんだ」
「父さん……」
「リーナも、腹の子も、お前がいなくなったら……」
──腹の子。
「え……?」
「……ああ、まだ言ってなかったな」
父さんの表情が、少しだけ緩んだ。硬さが、わずかに溶けた。
「リーナが妊娠した。お前に、弟か妹ができる」
「……本当?」
「本当だ」
弟か、妹。
家族が、増える。
「だからな、ハル」
父さんが、俺の前に来て、膝を折った。目線を合わせる。
「お前は兄になるんだ。兄ってのは、下の子を守る存在だ。守る側が先に死んでどうする」
まっすぐな目だった。
怒りも、恐怖も、その奥にあるのは──愛情だった。
「……」
言葉が出なかった。
守る側。
俺は、守りたかったんだ。
前世では、誰も守れなかった。誰かを守るほど強くなかった。いや、守ろうとすることすら、しなかった。
でも、今は違う。
強くなれる。魔法がある。
──でも、焦ったら意味がない。また同じことを繰り返すだけだ。
「もう二度と、あんな無茶はするな。いいな」
「……うん」
「約束だぞ」
「約束する」
父さんが、ふっと息を吐いた。
「よし。じゃあ、修行再開だ。今度は俺が見てる時だけにしろ」
「分かった」
「それと、リーナに顔見せてやれ。まだ心配してるぞ」
「うん」
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その夜。
布団の中で、目が冴えていた。
隣の部屋から、小さな物音が聞こえる。
ぎし……。
また、あの音だ。
「ガルド……今日は、優しくしてね……」
母さんの声。甘えたような、でもどこか遠慮がちな。
「分かってる。腹の子もいるしな」
「うん……」
ゆっくりとした、穏やかな気配。いつもより静かだ。
「……リーナ。怖かった」
「……私も」
「ハルがあのまま死んでたら……俺は……」
「……」
沈黙。
そして、小さなすすり泣きの声。
「……っく……よかった……ハル、生きてて……よかった……」
「ああ……」
「ガルド……」
「リーナ……」
二人の名前を呼び合う声。それだけで、どんな言葉より多くのものが伝わってくる。
その夜は——書けない夜だった。
静かで、穏やかで、温かい時間。
激しさはない。でも、深い。
「……愛してる、リーナ」
「……私も……ガルド……」
俺は、布団を頭まで被った。
恥ずかしさより、別の感情が胸を占めていた。
羨ましい。
あの二人は、本当に愛し合っている。
不安な夜、怖かった夜、こうやって寄り添い合って、確かめ合っている。
(……いいな)
俺も、いつか。
誰かを愛して、誰かに愛されて。
不安な夜には、こうやって寄り添い合える誰かが欲しい。
(でも、その前に)
強くならなきゃいけない。
焦らず、着実に。
守れるように。失わないように。
もう二度と、あんな思いをしないように。
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それから数ヶ月後。
母さんのお腹は、目に見えて大きくなっていった。
「ハル、赤ちゃんに触ってみる?」
「いいの?」
「うん。ほら、こっち」
母さんが、俺の手を取って、自分のお腹に当てた。
温かい。柔らかい。そして──
「……動いた」
お腹の中で、何かが蠢いた。小さな振動。命の気配。
「ふふ、元気な子でしょ」
「……うん」
不思議な感覚だった。
ここに、命がある。これから生まれてくる、新しい家族。
「男の子かな、女の子かな」
「どっちがいい?」
「……どっちでも」
「あら、つまんない」
母さんが笑う。
でも、本当にどっちでもいいと思った。
弟でも、妹でも。
俺は、その子を守る。
父さんの言葉が、まだ胸に残っている。
『守る側が先に死んでどうする』
その通りだ。
(……ちゃんと、やろう)
焦らない。無理しない。
でも、諦めない。
少しずつ、着実に、強くなっていく。
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その年の冬。
母さんが産気づいた。
「ハル、外で待ってなさい!」
産婆のおばさん──村で一番のベテランで、ダリオさんの奥さんでもある──に追い出されて、俺は居間で待っていた。
冬の夜だった。暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。窓の外は暗い。
隣の部屋から、母さんの声が聞こえる。
「っ……あああっ……!」
苦しそうな声。叫び声。時々、産婆のおばさんの「大丈夫、もう少しよ」という声。
落ち着かない。
何度も立ち上がっては、座り直す。手のひらに汗が滲む。
父さんは、壁にもたれて腕を組んでいた。いつもの余裕はどこにもない。口元がわずかに震えている。拳が、白くなるほど握りしめられている。
「父さんも、緊張してる?」
「……うるせえ」
素っ気ない返事。でも、声が掠れていた。
二人で、黙って待った。
一時間。二時間。
暖炉の薪が燃え尽きそうになる。父さんが新しい薪をくべる。手が震えている。
「ぐっ……あああっ……!」
母さんの声が、一際大きくなった。
「いきんで! もう少し!」
産婆のおばさんの声。
俺は、拳を握りしめた。
何もできない。ただ待つことしかできない。
こんな時に、俺は無力だ。
「う、うあああっ……!!」
──そして。
「おぎゃあ!!」
赤ん坊の泣き声が、響き渡った。
甲高い。でも、力強い。生きている声。
「生まれたぞ!」
父さんが、勢いよく立ち上がった。腰が抜けそうになりながら、でも踏みとどまって。
「女の子だよ! 元気な女の子!」
産婆のおばさんの声。
父さんが、隣の部屋に飛び込んでいく。俺も、後を追った。
母さんが、ベッドに横たわっていた。
汗だくで、髪が額に張り付いている。顔は青白い。疲れ切っている。
でも──笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
その腕の中に、小さな塊がある。
赤くて、しわくちゃで、全身で泣き叫んでいる。
「ハル、おいで」
母さんが、俺を手招きする。
近づく。足が震えている。なぜか、怖い。
赤ん坊の顔を、覗き込む。
泣き止んだ。
小さな目が、俺を見つめている。まだ焦点が合っていない。でも、確かにこっちを見ている。
「……」
声が出なかった。
こんなに小さい。
こんなに柔らかそうで、壊れそうで、危うくて。
「抱いてみる?」
「え、いいの?」
「いいわよ。お兄ちゃんでしょ」
母さんが、慎重に赤ん坊を俺に渡す。
抱き方を教わる。頭を支えて、腕で体を受け止めて。
軽い。温かい。
震える命が、俺の腕の中にある。
「……」
──怖い。
正直に言えば、怖かった。
こんなに小さいものを、俺なんかが守れるのか。
また調子に乗って、失敗して、この子を傷つけてしまったら。
でも──同時に、別の感情が湧き上がってくる。
守りたい。
この子を。この命を。
怖い。でも、逃げたくない。
「名前、もう決まってるの?」
「うん。ユナよ」
「ユナ……」
俺の妹。ユナ。
「よろしくな、ユナ」
小さな声で、そう言った。
ユナが、きゅっと俺の指を握った。
小さな手。柔らかい指。でも、思ったより力がある。
その瞬間──何かが、胸の奥で固まった。
決意とも、覚悟とも、少し違う。
もっと根っこの部分で、何かが繋がった感覚。
俺は、この子を守る。
何があっても。誰が相手でも。
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その夜。
俺は、ユナの隣で眠った。
母さんのベッドの横に、小さな寝台が置いてある。ユナはその中で、すやすやと眠っている。
小さな寝息が聞こえる。規則正しく、穏やかに。
「……」
俺は、その寝顔を見つめていた。
守りたいものが、増えた。
ティナ。父さん。母さん。そして、ユナ。
前世では、誰もいなかった。守りたい人も、守ってくれる人も。
孤独に死んで、それで終わりだった。
でも、今は違う。
俺には、家族がいる。友達がいる。守りたいものがある。
──だから、強くならなきゃいけない。
焦らず、着実に。
この手で、大切な人たちを守れるように。
目を閉じた。
明日も、修行がある。
今度は、無茶はしない。ちゃんと、父さんの言うことを聞く。
でも、諦めない。
いつか必ず、強くなる。
そして──
(ハーレムも、作る)
小さな寝息を聞きながら、そう思った。
守りたいものを守って、愛されて、愛して。
前世で叶えられなかった全部を、今度こそ手に入れる。
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【第4章 終】




