第36章「八年後の朝」
第36章「八年後の朝」
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——八年が、過ぎた。
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朝靄の中、俺は剣を振っていた。
十八歳になった体は、八年前とは比べものにならない。
背は父さんに追いついた。
肩幅も広くなった。
魔法も、剣も——あの頃とは、別物だ。
「——《炎槍》」
炎を纏った剣が、朝の空気を切り裂く。
木製の的が、一瞬で炭になった。
「……まあまあ、か」
息を整えながら、剣を下ろした。
まだ足りない。
もっと速く。
もっと正確に。
もっと——強く。
八年前、王都で見た銀髪の王女。
あの日から、ずっと考えていた。
もっと強くなりたい。
守りたいものを、守れるくらいに。
会いたい人に、胸を張って会えるくらいに。
その想いだけが、俺をここまで連れてきた。
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「——相変わらず、朝から熱心だな」
声がして、振り返った。
サヤが、槍を肩に担いで立っていた。
八年で、彼女も変わった。
背が伸び、手足がしなやかになった。
引き締まった体つきは、戦士そのものだ。
黒髪は腰まで伸び、高い位置で結ばれている。
——あの日、俺が贈った赤いリボンで。
「お前こそ、早いな」
「寝坊したお前に言われたくねえ」
「寝坊してない。お前が早すぎるんだ」
「言い訳すんな」
サヤが、にやりと笑った。
その笑顔に、心臓が跳ねた。
八年経っても、この反応は変わらない。
むしろ——年々、ひどくなっている気がする。
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「——おはよう、二人とも」
ティナが、丘を登ってきた。
彼女もまた、八年で大きく変わっていた。
金髪のセミロングは、朝日を受けて輝いている。
柔らかな曲線を描く体つきは、少女から女性へと変わっていた。
胸元が、歩くたびにゆるやかに揺れる。
ぷるん、たぷん……。
——目のやり場に困る。
いや、困るふりをして、実は目で追っている自分がいる。
最低だ。分かってる。でも、止められない。
「あ、ああ。おはよう」
「どうしたの、顔赤いよ?」
「いや、別に——」
「朝から何見てたんだ、こいつは」
サヤが、じとりとした目で俺を睨んだ。
「見てない」
「嘘つけ」
ティナが、くすりと笑った。
「もう、二人とも。——朝ごはん、できてるよ」
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三人で、丘を下りる。
村の風景は、八年前とほとんど変わっていない。
ただ——俺たちだけが、変わった。
あの収穫祭の後、俺たちは必死に修行を続けた。
魔法。
剣術。
槍術。
体術。
父さんに教わり、互いに鍛え合い、時には村を訪れる旅の冒険者に教えを乞うた。
ヴェルム村の避難民たちは、二年後に故郷へ戻った。
トーマスは元気にやっているらしい。
サヤの父親も、無事だった。
ミリアとは——あれから、一度だけ会えた。
神殿の巡回で村に来た時だ。
処分は「見習い期間の延長」で済んだと聞いて、安心した。
「また会いましょう」
そう言って、彼女は去っていった。
あの穏やかな笑顔は、今でも覚えている。
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家に着くと、食卓には家族が揃っていた。
父さん、母さん、そしてユナ。
「おう、戻ったか」
父さんが、パンをかじりながら言った。
四十代半ばになった父さんは、少し白髪が増えた。
でも、体つきは相変わらず頑丈だ。
「おかえり、ハル。ティナちゃんも、サヤちゃんも」
母さんが、微笑んだ。
穏やかな笑顔は、昔と変わらない。
「兄さん、遅い」
ユナが、頬を膨らませた。
十三歳になった妹は、すっかり生意気になっていた。
栗色のセミロングに、俺と同じ目の色。
小柄だが、最近は少しずつ女らしい体つきになってきている。
——妹の成長を意識するのは、なんだか複雑だ。
「悪い悪い」
「悪いと思ってないでしょ」
「思ってる思ってる」
「嘘つき」
「……お前、最近キツくなったな」
「兄さんが鈍いだけ」
サヤが、ぷっと吹き出した。
「お前ら、仲いいな」
「良くない」
ユナと俺の声が、重なった。
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食事を終え、一息ついた頃。
俺は、覚悟を決めた。
——いや。
覚悟なんて、とっくに決まっていた。
ただ、口に出す勇気がなかっただけだ。
「——父さん、母さん」
「ん?」
「話が、ある」
食卓の空気が、少しだけ変わった。
父さんが、俺の目を見た。
喉が渇く。
手のひらに、汗が滲んでいた。
「……言ってみろ」
「俺——冒険者になろうと思う」
沈黙が、落ちた。
母さんが、小さく息を呑んだ。
ユナが、目を見開いている。
「村を出て、王都の冒険者ギルドに登録する。ティナとサヤも、一緒に」
俺は、二人の方を見た。
ティナが、静かに頷いた。
サヤも、腕を組んで頷く。
「……三人で、話し合ったのか」
「ああ」
父さんが、腕を組んだ。
長い沈黙。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
怖い。
拒絶されるのが、怖い。
でも——言わなきゃいけなかった。
これ以上、先延ばしにはできない。
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「——理由を聞かせろ」
父さんの声は、静かだった。
「……強くなりたい」
「それだけか」
「……守りたいものが、ある」
俺は、ティナとサヤを見た。
そして——家族を。
「この村も、家族も、大事な人たちも。全部、守れるくらい強くなりたい」
「……」
「村にいるだけじゃ、限界がある。外の世界を見て、戦って、経験を積まないと——本当の強さは手に入らない」
声が、震えていた。
自分でも分かった。
格好つけたことを言っているけど——本当は、ただ怖かった。
父さんに反対されるのが。
母さんを悲しませるのが。
この温かい場所を、離れるのが。
父さんが、じっと俺を見つめていた。
その目は——かつて、冒険者だった頃の目だ。
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「……お前」
父さんが、口を開いた。
「あの収穫祭の日から、ずっと考えてたな」
「……分かるのか」
「分かるさ。俺も同じだったからな」
父さんが、立ち上がった。
そして——俺の前に、立った。
「一つだけ、約束しろ」
「……何を」
「生きて帰ってこい」
その言葉に、胸の奥が軋んだ。
嬉しいのか、苦しいのか、分からなかった。
両方だ。
両方が、ごちゃ混ぜになって、込み上げてくる。
「死ぬな。何があっても、生きろ。——それだけ守れ」
「……ああ」
「約束だぞ」
「約束する」
父さんが、俺の肩を掴んだ。
強く。
痛いくらいに。
その力が、父さんの本心を語っていた。
行かせたくない。
でも、行かせる。
息子の選択を、認める。
「……行ってこい」
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母さんが、泣いていた。
「母さん……」
「ごめんなさい、泣くつもりなかったのに……」
母さんが、涙を拭いた。
その姿を見て——俺の中で、何かが揺らいだ。
前世では、こんな風に見送ってくれる人なんていなかった。
誰にも必要とされず、誰にも泣いてもらえず、一人で死んでいった。
でも、今は違う。
母さんが、俺のために泣いてくれている。
その事実が——嬉しくて、申し訳なくて、どうしようもなかった。
「あなたが決めたことなら、応援するわ。でも——」
母さんが、俺を抱きしめた。
温かかった。
この温もりを、俺は何度味わっただろう。
当たり前だと思っていた。
でも、当たり前じゃない。
この世界に生まれ直して——やっと、手に入れたものだ。
「無理だけは、しないで」
「……分かってる」
声が、掠れた。
泣きそうだった。
泣いたら、もう行けなくなる気がして——必死に堪えた。
「ティナちゃんも、サヤちゃんも、お願いね。この子を、よろしく」
「はい。——任せてください」
ティナが、真剣な顔で頷いた。
「……ああ。こいつが馬鹿やったら、私がぶん殴る」
サヤが、拳を握って見せた。
母さんが、少しだけ笑った。
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「兄さん」
ユナが、俺の前に立った。
「……何だ」
「ユナも、いつか追いかけるから」
「は?」
「強くなって、兄さんを追いかける。——待ってて」
ユナの目が、真っ直ぐに俺を見ていた。
いつもの生意気な表情じゃない。
本気の、決意の目だ。
その目を見て——俺の中で、複雑な感情が渦巻いた。
頼もしい。
嬉しい。
でも——心配だ。
こいつに、俺と同じ道を歩かせていいのか。
危険な世界に、足を踏み入れさせていいのか。
分からない。
分からないけど——止める権利なんて、俺にはない。
「……勝手にしろ」
「勝手にする」
「……危ないことはするなよ」
「兄さんに言われたくない」
「……」
言い返せなかった。
ユナが、にやりと笑った。
その笑顔が——どこか、眩しかった。
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翌日の朝。
俺たちは、村を出た。
背中には、旅の荷物。
腰には、剣。
サヤは槍を、ティナは短剣と杖を携えている。
「——行ってきます」
村の入り口で、俺は振り返った。
父さんと母さんが、手を振っている。
ユナも、少し離れた場所で立っていた。
泣いてはいない。
でも——唇を、噛みしめていた。
その姿を見て、胸が締め付けられた。
寂しいのか。
悔しいのか。
両方かもしれない。
「……行くぞ」
「ああ」
「うん」
俺たちは、歩き出した。
朝日が、道を照らしている。
風が、背中を押していた。
足の裏に、土の感触。
肺に入る、冷たい朝の空気。
新しい世界が、目の前に広がっていく。
怖い。
でも——胸が、高鳴っていた。
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王都への道。
八年前に歩いた、同じ道だ。
でも——今は、違う。
俺たちは、帰る場所を背負っている。
守るべきものを、胸に抱いている。
「ハル」
ティナが、隣に来た。
「どうした」
「……ちゃんと、三人で帰ってこようね」
「当たり前だ」
「約束だよ」
ティナが、俺の手を握った。
温かかった。
細い指が、俺の手をしっかりと掴んでいる。
離したくない——そう言っているみたいに。
「——おい、いちゃつくな」
サヤが、反対側から肩を叩いてきた。
「いちゃついてない」
「手、繋いでんだろ」
「これは——」
「私も混ぜろ」
サヤが、俺のもう片方の手を取った。
ぎゅっと、握りしめてくる。
強く。
でも、震えていた。
「……サヤ?」
「うるせえ。黙って歩け」
耳が、赤い。
俺は——笑った。
嬉しかったのか、照れ臭かったのか、分からない。
たぶん、両方だ。
「何笑ってんだ」
「いや、何でも」
「気持ち悪い」
「ひでえ」
ティナが、くすくすと笑っている。
三人の手が、繋がっている。
右手にティナ。
左手にサヤ。
——前世では、想像もできなかった光景だ。
ハーレムを作りたい。
そう決意してから、八年。
まだ、始まったばかりだ。
でも——確かに、一歩を踏み出した。
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新しい道が——俺たちの前に、広がっていた。
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【第36章 終】




