第33章「黒き蛇」
第33章「黒き蛇」
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ミリアたちが村を出てから、一刻ほどが経った。
俺は、家の前でぼんやりと空を見上げていた。
(……大丈夫かな)
昨日、ミリアが言っていた。神殿までの道は、半日ほどかかると。
途中、森を抜ける場所もあるらしい。シモン司祭がいるから大丈夫だとは思うけど——あの人、腕に怪我を負っていた。
(送っていけばよかったかな……)
考えても仕方ない。
もう出発したんだ。
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「——ハル」
声がして、振り返った。
サヤだった。
「……何、ぼーっとしてんだ」
「いや、別に——」
「嘘つけ。顔に書いてある」
サヤが、腕を組んだ。
「ミリアのこと、気になってんだろ」
「……まあ」
「なら、追いかけりゃいいだろ」
「え?」
「聞こえなかったか? 追いかけろって言ってんだ」
サヤの目が、真っ直ぐに俺を見ていた。
「お前、さっきから落ち着かねえ顔してる。気になるなら、動け」
「でも——」
「でもじゃねえ」
サヤが、俺の背中を押した。
「途中まで送っていくだけでいいだろ。それで気が済むなら」
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「サヤの言う通りだよ」
ティナも、やってきた。
「ハル、そわそわしてたもん」
「……分かる?」
「分かるよ。——行っておいで」
ティナが、笑った。
少しだけ複雑そうな顔だったけど——送り出してくれた。
「……ありがとう」
「お礼はいいから。早く行きな」
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俺は、走った。
ミリアたちが向かった東の道。
森を抜けて、神殿へ続く街道。
(追いつけるか……?)
分からない。
でも——何もしないより、マシだ。
足がもつれそうになる。心臓がうるさい。
それでも、止まれなかった。
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森に入って、しばらく経った頃。
異変に気づいた。
道の先から——声が聞こえる。
怒号。
悲鳴。
そして——金属がぶつかり合う、硬い音。
「——まずい」
俺は、木々の間を縫って駆けた。
枝が顔を掠める。足元の根に躓きそうになる。
音が、近づいてくる。
そして——視界が開けた。
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そこには、最悪の光景が広がっていた。
五人——いや、六人の男たちが、ミリアとシモン司祭を取り囲んでいる。
山賊だ。
粗末な革鎧に、錆びた剣。だが、体つきは荒事に慣れた者のそれだ。
「へへ、神殿の連中か。金目のもん持ってんだろ?」
「おい見ろよ、女の方は上玉じゃねえか」
下卑た笑い声が、森に響いた。
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シモン司祭が、剣を構えていた。
だが——左腕から、血が滴っている。包帯が赤く染まっていく。治療したばかりの傷が、開いたのだ。
「……ミリア、下がっていろ」
「でも、シモン司祭——」
「いいから下がれ。お前を守るのが、私の役目だ」
シモン司祭の声には、迷いがなかった。
だが、傷は深い。腕が小刻みに震えている。
このままでは——。
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俺は、短剣を抜いた。
(やるしかない)
怖い。
足が震えている。膝の裏に、嫌な汗が溜まっていく。
でも——ミリアが危ない。
逃げたい。体が後ろに引こうとしている。でも、足は前に向いている。気づいたら、もう動き出していた。
「——っ!」
俺は、飛び出した。
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「なんだ、ガキか?」
山賊の一人が、俺を見て笑った。
「おいおい、英雄気取りかよ」
「……ミリアさんから、離れろ」
声が掠れた。喉がカラカラに乾いている。
情けない。震えてるのが、バレバレだ。
でも、引くわけにはいかない。
「ハルくん……! なんで——」
「送っていこうと思って——間に合って、よかった」
よかったのか、分からない。
俺が来たところで、状況は変わらない。
多勢に無勢。
それでも——体は止まらなかった。
「《火球》——!」
俺は、魔法を放った。
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炎が渦を巻き、拳大の火の玉となって山賊に向かって飛ぶ。
「うおっ——!」
山賊が、慌てて横に跳んだ。火球が木の幹に当たり、バチッと弾けて火花が散る。
「てめえ、魔法使いかよ——!」
「ガキのくせに生意気な——!」
二人の山賊が、俺に向かってきた。錆びた剣が、鈍く光る。
「《炎槍》——!」
炎を纏った短剣を、一人目の剣に叩きつける。
ガキィン——!
金属が軋む音。火花が散る。
男が体勢を崩し、後ろによろめいた。
だが——もう一人。
視界の端で、剣が閃いた。避けきれない。
腕に、熱い痛みが走った。
「——くっ」
血が滲む。袖が赤く染まっていく。
深くはない。でも——痛い。熱い。体が震える。
怖い。
怖いのに——足は前を向いたままだ。
「ハルくん——!」
ミリアの悲鳴が聞こえた。
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「へへ、なかなかやるじゃねえか」
山賊のリーダーらしき男が、にやにや笑った。
顎に傷跡がある。目つきが違う。こいつが頭だ。
「だが、ガキ一人増えたところで、どうにもならねえよ」
「……」
分かっている。
俺一人では、六人は相手にできない。
シモン司祭も傷を負っている。剣を握る手が、もう限界に近い。
ミリアは戦闘向きじゃない。
(どうする——どうすればいい——)
頭が真っ白になりそうだ。足が竦む。逃げ出したい。でも——逃げたら、ミリアが。
歯を食いしばった。
奥歯が軋む。血の味がした。
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「さあて、まずは女からいただこうか」
山賊のリーダーが、ミリアに近づいた。
「神殿の治癒師さんよ。その体で、俺たちを癒してくれよ」
「——っ、来ないで……!」
ミリアが、後ずさった。
背中が、木にぶつかる。
逃げ場がない。
「へへ、いい声出すじゃねえか」
山賊の手が、ミリアの法衣の襟に伸びた。
「やめろ——!」
俺は叫んだ。
だが、別の山賊に押さえつけられている。
腕を捻られる。痛い。でも——
「ミリアさん——!」
動けない。動けないのに、声だけが出た。
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山賊の指が、ミリアの襟を掴んだ。
白い法衣が、ビリッと音を立てて裂けかける。
ミリアの白い鎖骨が、露わになりかけた。その下に、柔らかな曲線の始まりが覗く。
「へへ、いい肌してんな——」
「いやっ——」
ミリアの悲鳴が、森に響いた。
目に涙が滲んでいる。恐怖に震えている。
俺は——何もできなかった。
その時だった。
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「——あら、随分と楽しそうなことをしているのね」
声が、聞こえた。
艶のある、蜜のような声。甘いのに、どこか冷たい。
山賊たちが、動きを止めた。
俺も、声のした方を見た。
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木々の間から、女が現れた。
黒髪のロング。夜の闇を溶かし込んだような、艶やかな黒。
紫色の瞳。妖しく光る、蛇のような瞳。
露出度の高い黒いドレスが、豊満な体を包んでいる。
その胸元は大きく開いており、谷間がこれ見よがしに主張していた。ドレスの切れ込みから、形の良い太腿が覗く。
妖艶——その言葉が、ぴったりだった。
まるで、この場所に来ることが最初から分かっていたかのように——足取りに迷いがない。
「な、なんだ、てめえは——」
山賊のリーダーが、女を睨んだ。
女は、口元に笑みを浮かべた。
「あら、私? ただの旅人よ」
嘘だ。
なぜか、そう思った。
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「旅人だあ? なら、引っ込んでろ——」
山賊のリーダーが、女に剣を向けた。
女は、動かなかった。
ただ——微笑んでいる。余裕たっぷりに。
「ふふ、あなたたち、全然成長していないのね」
「あぁ? 何言って——」
「忘れたの? 先月、森の西で会ったでしょう。私が色々と……便宜を図ってあげた」
山賊のリーダーの顔色が、変わった。
「て、てめえ——あの時の——」
その目に、恐怖が浮かんでいる。さっきまでの威勢が、嘘のように消えた。
「思い出した? よかったわ」
女が、一歩近づいた。
その足音は、まるで猫科の獣のように静かで——どこか、獲物を狩る者の歩き方だった。
「さて、そろそろ遊びは終わりにしましょうか」
女の瞳が、紫色に光った。
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「《服従》」
女が、囁いた。
甘い声。でも——その奥に、何か冷たいものが潜んでいる。
瞬間——山賊たちの目が、虚ろになった。
「……」
「……」
全員が、操り人形のように動きを止めている。意志が、消えた目。
「な、何が——」
俺は、目を見開いた。
精神操作——?
こんな魔法、見たことがない。強力すぎる。
一瞬で、六人全員を支配した。
「さあ、帰りなさい。今日のことは、忘れること」
女が、命じた。
山賊たちは、無言で頷いた。
そして——森の奥へ、ふらふらと歩いていった。
まるで糸を切られた人形のように。
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沈黙が、落ちた。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
(何が、起きた——?)
分からない。
ただ——この女が、山賊を追い払ったことだけは確かだ。
助かった。
助かったのに——。
背筋が、ゾワリとした。
理由は分からない。でも、体が警告している。
「大丈夫かしら?」
女が、ミリアに近づいた。
「ひどい目に遭ったわね。怪我はない?」
「あ、あの——ありがとう、ございます——」
ミリアが、乱れた法衣を押さえながら答えた。指がまだ震えている。
「礼には及ばないわ。困っている人を見捨てられないの」
女が、にっこりと笑った。
優しい笑顔だ。
優しい笑顔なのに——どこか、芝居めいて見えた。
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「あなたは、神殿の方?」
女が、シモン司祭に声をかけた。
「……ああ。助かった、感謝する」
シモン司祭が、傷を押さえながら言った。顔色が悪い。出血がひどい。
「私は、メルティアと申します。旅の魔術師ですわ」
「メルティア……」
「神殿へお帰りになるのでしょう? 道中、私が護衛いたしましょうか」
「いや、そこまでは——」
「遠慮なさらないで。あなた、腕を怪我しているでしょう? このままでは、また襲われた時に困りますわ」
女——メルティアが、シモン司祭の傷を覗き込んだ。
その仕草は、親切そのものだった。
親切そのものなのに——。
(なんだ、この感じ……)
胸の奥が、ざわざわする。落ち着かない。
「……分かった。頼む」
シモン司祭が、頷いた。
「あら、素直でよろしいですわ」
メルティアが、微笑んだ。
その笑顔を見て——背筋がまた、ゾクリとした。
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「あなたも、勇敢だったわね。坊や」
メルティアが、俺に声をかけてきた。
近づいてくる。香水の甘い匂いがした。
「——あ、はい」
「ミリアさんを助けたかったのでしょう? 素敵なことよ」
顔が近い。紫色の瞳が、俺を覗き込んでいる。
その瞳の奥に——何か、冷たいものが見えた気がした。
「……」
「でも、無茶はダメ。死んだら、誰も守れないわ」
メルティアの声は、優しかった。
でも——何だろう。
説明できない。言葉にならない。
ただ、体が拒否反応を起こしている。
気のせいか。
助けてもらったばかりなのに、失礼な考えだ。
でも——この違和感は、消えなかった。
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「ハルくん」
ミリアが、俺の傍に来た。
「腕、怪我してる——」
「あ、大丈夫です。かすり傷ですから——」
「大丈夫じゃないわ。見せて」
ミリアが、俺の腕を取った。
その手は、まだ少し震えていた。でも——治癒師としての使命感が、恐怖に勝とうとしている。
「《浄癒》」
淡い光が、傷を包む。
痛みが、引いていく。温かい光だ。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。——助けに来てくれて、ありがとう」
ミリアが、笑った。
涙の跡が残る顔で、それでも——笑っていた。
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「さあ、行きましょうか」
メルティアが、先に立った。
「神殿まで、私がお送りしますわ」
シモン司祭とミリアが、メルティアの後に続く。
俺は——その場に立っていた。
「ハルくん」
ミリアが、振り返った。
「村に戻るの?」
「あ、はい——」
「気をつけてね。——また、会いましょう」
「……はい」
ミリアが、手を振った。
俺も、手を振り返した。
三人の姿が、森の奥へ消えていく。
最後に——メルティアが、振り返った。
「ふふ。また会えるといいわね、坊や」
その笑顔。
艶やかで、美しくて——どこか、毒を含んでいる。
俺は、その目が見えなくなるまで、立ち尽くしていた。
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村に戻ると、ティナとサヤが待っていた。
「おかえり。——どうだった?」
「……色々、あった」
「色々?」
俺は、二人に事情を説明した。
山賊のこと。
メルティアという女のこと。
「精神操作の魔法……」
ティナが、眉をひそめた。
「すごい魔法だね。一瞬で全員を?」
「ああ。おかげで助かった」
「……その女、どんな人だった?」
サヤが聞いた。その目が、鋭い。
「どんな、って——」
俺は、少し考えた。
「綺麗な人だった。助けてくれたし、親切そうだった」
「そっか」
サヤが、腕を組んだ。
「……まあ、助けてくれたんなら、いい人なんだろうな」
「……うん」
そう思う。
思うんだけど——。
「……ハル?」
「いや、何でもない」
俺は、首を振った。
考えすぎだ。
助けてもらったのに、変な勘ぐりをするなんて。
でも——あの違和感は、まだ胸の奥に残っていた。
蛇に見つめられたような、ぞわりとした感覚が。
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「……とりあえず、今日は休め」
サヤが、俺の頭を軽く叩いた。
「お前、疲れてんだろ」
「……ああ」
疲れている。
体も、心も。
「ほら、行くよ」
ティナが、俺の手を引いた。
「今日は早く寝な。明日からまた修行だからね」
「……分かった」
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夜。
布団の中で、天井を見つめていた。
(ミリアさん、無事に着けるかな……)
メルティアという人が護衛してくれている。
あの魔法の腕なら、山賊くらい問題ないだろう。
大丈夫だ。
(……大丈夫)
そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
でも——眠りに落ちる直前、あの紫色の瞳が脳裏をよぎった。
蛇のような瞳。
何かを企んでいるような、笑み。
嫌な予感が、胸の奥でくすぶっていた。
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【第33章 終】




