第32章「癒す者」
第32章「癒す者」
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ミリアと名乗った治癒師は、すぐに動き始めた。
「まず、一番重い方を見せてください」
迷いのない声だった。
俺は、トーマスの傍へ彼女を案内した。
「この人です。昨日の夜から、ずっと——」
「分かりました」
ミリアが、トーマスの傍にしゃがんだ。
額に手を当て、目を閉じる。
しばらく、沈黙が続いた。
「……熱源は、肺の近く。感染症ね。放っておいたら、あと半日も持たなかったかもしれない」
その言葉に、背筋が冷えた。
間に合わなかったら——そう思うと、足から力が抜けそうになる。
「でも、大丈夫」
ミリアが、俺を見上げた。
穏やかな眼差しだった。
「間に合いました」
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ミリアの手が、淡い光を帯びた。
白い法衣の袖が、腕を伝って落ちる。
細いけれど、しっかりとした腕だった。
「《浄癒》」
光が、トーマスの体に染み込んでいく。
ゆっくりと、でも確実に。まるで水が乾いた土に浸透していくように。
俺は、息を呑んで見ていた。
これが——回復魔法。
俺にはできない、人を癒す力。
悔しいような、でも——今は、それでいい。この人が来てくれた。それだけで。
胸の奥で、相反する感情がぶつかっていた。自分の無力さへの苛立ちと、助かるという安堵と。どちらが強いのか、自分でも分からなかった。
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数分が経った。
ミリアの額に、汗が浮かんでいる。
白い法衣が、汗で体に張り付いていた。
豊かな胸の輪郭が、生地越しにはっきりと浮き上がる。汗で透けた布地が、肌の色をうっすらと覗かせて。
——いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
頭を振って、視線を逸らした。
「……っ」
ミリアが、小さく息を吐いた。
光が、消える。
「……これで、峠は越えました」
その声は、少しだけ疲れていた。
「本当ですか……!」
「ええ。熱は下がっていくはず。あとは、体力の回復を待つだけ」
トーマスの顔を見た。
さっきまでの土気色が、嘘のように消えている。
呼吸も、穏やかになっていた。
「……良かった」
声が、震えた。
何かが込み上げてきて、喉が詰まる。
「本当に——良かった……」
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「——トーマス!」
サヤが、納屋に駆け込んできた。
俺の顔を見て、足を止める。
「どうなった」
「助かった。ミリアさんが、治してくれた」
「……本当、か」
サヤが、トーマスの傍に膝をついた。
その顔を、じっと見つめる。
「……息してる」
「ああ」
「顔色も、戻ってる」
「ああ」
サヤの肩が、震えた。小さく、でもはっきりと。
「……よかった」
それだけ言って、サヤは顔を背けた。
声が掠れていた。泣いているのか、泣きそうなのを堪えているのか——分からなかった。でも、その背中は確かに震えていた。
俺は、何も言わなかった。
言葉なんか、いらない気がした。
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他の病人たちも、順番に治療を受けた。
ミリアは、一人一人丁寧に診ていく。
「この方は軽症ね。薬草で十分」
「この方は少し重いけど、大丈夫」
的確で、迷いがない。
でも——見ていて分かった。
一人治療するたびに、ミリアの顔色が少しずつ悪くなっていく。
回復魔法は、使う側の体力も消耗するのだろう。
それでも、彼女は一人も飛ばさなかった。
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全員の治療が終わった頃には、昼を過ぎていた。
ミリアは、納屋の壁に背を預けて座り込んでいた。
「……お疲れ様です」
俺は、水を差し出した。
「ありがとう」
ミリアが、水を受け取った。
一口飲んで、ほっと息をつく。
「……全員、助かりそうですか」
「ええ。重症の方も、もう大丈夫。あとは栄養のあるものを食べて、休めば」
「良かった……」
俺は、その場に座った。
「ありがとうございます。本当に」
「お礼を言われることじゃないわ。これが、私の仕事だから」
ミリアが、微笑んだ。
疲れているはずなのに、その笑顔は——温かかった。こちらまで救われるような、そんな笑顔だった。
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「あの——聞いてもいいですか」
「何?」
「神殿の許可を待たずに来たって、言ってましたよね」
ミリアの表情が、少しだけ曇った。
「……ええ」
「それって、大丈夫なんですか。怒られたり——」
「怒られるでしょうね」
あっさりと、ミリアは言った。
「見習いが勝手に動くなんて、規則違反だもの」
「じゃあ、なんで——」
「待っていたら、間に合わなかったから」
ミリアが、俺を見た。
その目に、強い光があった。優しさの奥に隠れていた、揺るがないもの。
「使いの方が、必死だったの。村で何人も倒れてる、子供も看病してる、今夜が山かもしれないって」
「……」
「それを聞いて、許可を待つ気になれなかった」
ミリアが、空を見上げた。
「神殿の偉い人たちは、お金のことを気にする。当然よね、神殿だって運営費がかかるもの」
「……」
「でも——目の前で死にそうな人がいるのに、お金の話を先にするのは、違うと思う」
その声は、静かだった。
怒っているわけでも、批判しているわけでもない。
ただ——自分の信念を、淡々と語っているだけ。
「規則を破った罰は、受ける。でも、後悔はしない」
ミリアが、俺を見た。
「だって、間に合ったでしょう?」
俺は——何も言えなかった。
胸の奥で、何かが震えた。名前のつけられない感情だった。尊敬とも、憧れとも、少し違う。ただ——この人は、すごい。
そう思った。
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「ミリアさん」
声がして、振り返った。
ティナだった。
手に、お盆を持っている。
「お昼、持ってきました。少しでも食べてください」
「あら、ありがとう」
ミリアが、お盆を受け取った。
パンと、温かいスープ。
「美味しそう。……いただきます」
ミリアが、スープを一口飲んだ。
「……美味しい」
「リーナさん——ハルのお母さんが作ったんです」
「そう。お礼を言わなきゃ」
ミリアが、ゆっくりと食事を始めた。
ティナが、俺の隣に座った。
「……ハル」
「ん?」
「あの人、すごいね」
「……ああ」
ティナの声が、少しだけ複雑だった。
「綺麗だし、優しいし、芯が強いし」
「……」
「ハル、見惚れてたでしょ」
「——っ、見惚れてない」
「嘘。さっきから、ずっと目で追ってた」
「それは——治療を見てただけで——」
「ふうん」
ティナが、俺をじとっと見た。
「……あたしも、見てたんだけどな」
「え?」
「なんでもない」
ティナが、ぷいっと顔を背けた。
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夕方。
ミリアは、村長の家で休むことになった。
「今日は泊まっていってください。疲れてるでしょう」
「ありがとうございます。……正直、少し休みたいです」
ミリアが、苦笑した。
「夜通し歩いて、そのまま治療だったから」
「無茶しすぎですよ」
「そうね。でも、必要な無茶だったから」
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俺は、ミリアを村長の家まで送った。
「ありがとう。案内してくれて」
「いえ——俺の方こそ、ありがとうございました」
「さっきも言ったけど、お礼を言われることじゃないわ」
ミリアが、笑った。
「でも——嬉しい」
「え?」
「お礼を言ってくれる人がいるのは、嬉しいの。やって良かったって、思えるから」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。気づいたら、もっと話していたいと思っていた。
「あの——」
「何?」
「また、会えますか」
言ってから、気づいた。
何を言ってるんだ、俺は。
「……ふふ」
ミリアが、口元を緩めた。
「明日も、病人の様子を見に来るわ。その時に——」
そこで、一度言葉を切った。
「あなた、名前は?」
「あ——ハルです。ハル・カーマイン」
「ハルくん」
呼ばれただけなのに、妙に照れくさかった。
「じゃあ、また明日ね」
「は、はい」
「おやすみなさい」
「お、おやすみなさい」
ミリアが、家の中に入っていった。
俺は——しばらく、その場に立ち尽くしていた。
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「……何やってんの」
背後から、声がした。
振り返ると、サヤとティナが立っていた。
二人とも、腕を組んでいる。
「い、いや——送ってきただけで——」
「送ってきただけで、ぼーっと突っ立ってたの?」
「それは——」
「ハル」
ティナが、一歩近づいた。
「あの人のこと、どう思ってる?」
「どうって——」
「正直に言って」
「……すごい人だと思う。尊敬する」
「それだけ?」
「それだけって——」
「ふうん」
ティナが、俺の腕を取った。
「じゃあ、帰ろ。——三人で」
「……は?」
サヤが、俺のもう片方の腕を掴んだ。
「行くぞ。——置いてくからな」
「ちょ、ちょっと——」
二人に引きずられながら、俺は思った。
(……これ、また怒られるやつだ)
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家に帰ると、母さんが出迎えてくれた。
「お帰り。——あら、三人仲良しね」
「仲良くないです」
「仲良くねえ」
ティナとサヤが、同時に言った。
「あらあら」
母さんが、くすくす笑った。
「夕飯、できてるわよ。みんなで食べましょう」
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食卓を囲む。
父さん、母さん、ユナ。
そして、ティナとサヤ。
賑やかだった。
「トーマスさん、助かって良かったな」
父さんが、言った。
「ああ。ミリアさんのおかげだ」
「治療費も、思ったより安く済んだしな。金貨二枚なら、なんとかなる」
「……ミリアさんが、独断で来てくれたから」
「そうか。——大したもんだな、あの嬢ちゃん」
「神殿の治癒師ってのは、大したもんだな」
「……見習いだって言ってた」
「見習いであれか。大したもんだ」
父さんが、酒を飲んだ。
「——で、可愛かったか?」
「——っ!」
俺は、むせた。
「な、何言ってんだよ」
「いや、息子が年頃の女を送っていったって聞いてな」
「誰から——」
「村の連中は口が軽いんだよ」
父さんが、にやにや笑った。
「お前、ティナとサヤだけじゃ足りねえのか?」
「ガルドさん!」
ティナが、顔を真っ赤にして叫んだ。
「違うし! あたしたちは別に——」
「……」
サヤは、黙々とご飯を食べていた。
でも、耳が赤い。
「あらあら」
母さんが、また笑った。
「モテモテね、ハル」
「母さんまで——」
「お兄ちゃん、モテモテなの?」
ユナが、不思議そうに聞いた。
「……黙って食え」
俺は、ご飯をかき込んだ。
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夜。
部屋で、天井を見つめていた。
(ミリアさん、か)
静かで、でも芯が強い。
規則を破ってでも、人を助けに来る人。
「間に合ったでしょう?」
あの言葉が、頭から離れない。
俺には、できなかったことだ。
目の前で苦しんでいる人がいて——俺は、何もできなかった。
でも、ミリアさんは違った。
自分の判断で動いて、実際に助けた。
(……強いな)
強さって、腕力や魔法だけじゃない。
そう思った。
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翌朝。
ミリアが、また納屋に来た。
病人たちの様子を確認している。
「うん、順調ね。このまま休んでいれば、数日で動けるようになるわ」
「ありがとうございます」
トーマスが、頭を下げた。
「あんたが来てくれなかったら、俺は——」
「大丈夫。もう、大丈夫よ」
ミリアが、トーマスの手を握った。
「ゆっくり休んでね」
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納屋を出ると、ミリアが俺に声をかけてきた。
「ハルくん」
「は、はい」
「昨日、あなたが傍にいてくれたんですってね。トーマスさんの」
「……あ、はい。でも、俺は何も——」
「傍にいてくれただけで、十分よ」
ミリアが、微笑んだ。
「一人で苦しむのと、誰かが傍にいてくれるのとでは、全然違うの」
「……」
「あなたは、ちゃんと助けてた。治せなくても」
その言葉が、胸に染みた。
ティナも、同じことを言ってくれた。
でも——ミリアに言われると、また違う重みがあった。同じ言葉なのに、どうしてだろう。
「……ありがとうございます」
「ふふ。お礼を言うのは、私の方よ」
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「——ミリア」
声がした。
振り返ると、男が立っていた。
四十代くらいだろうか。厳しい顔つき。
白い法衣を着ている。神殿の人間だ。
「シモン司祭……」
ミリアの声が、少しだけ硬くなった。
「勝手に神殿を出たそうだな」
「……はい」
「規則違反だ。分かっているな」
「はい」
「帰ったら、処分を受けてもらう」
「……はい」
ミリアは、俯いていた。
でも——後悔している様子はなかった。
「……それと、治療費の件だが」
シモン司祭が、俺の方を見た。
「本来なら金貨五枚だ。だが、今回は見習いの独断による治療だ。神殿として正規の派遣とは認められん」
「それは——」
「金貨二枚でいい。それ以上は受け取れん」
俺は、目を見開いた。
「……本当ですか」
「勘違いするな。これは温情ではない。規則に従った結果だ」
シモン司祭が、ため息をついた。
「……だが、患者は助かった。それは、認める」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。規則違反は規則違反だ」
シモン司祭が、ミリアを見た。
「……お前は、いつもそうだ。正しいことをして、怒られる」
「……すみません」
「謝るな。——お前のような奴が、本当の治癒師なのかもしれん」
その言葉は、小さかった。
俺にしか、聞こえなかったかもしれない。
「行くぞ。神殿に戻る」
「はい」
ミリアが、俺の方を振り返った。
「ハルくん」
「は、はい」
「また、会えるといいね」
笑顔だった。
少しだけ寂しそうな、でも——温かい笑顔。
「——はい。また」
俺は、そう答えるのが精一杯だった。
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ミリアと司祭が、村を出ていく。
その背中を、俺は見送った。
(また、会いたい)
自然と、そう思っていた。
ティナや、サヤとは違う何かを感じた。
でも——この気持ちが何なのか、まだ分からない。
分からないけど、確かに、あの人のことが気になっていた。
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「……行っちゃったね」
ティナが、隣に来た。
「……ああ」
「……寂しそう」
「そんなこと——」
「嘘。顔に出てる」
ティナが、俺の手を握った。
「……あたしがいるよ」
「……ありがとう」
「……ふん」
サヤが、反対側に立った。
「また会えるって言ってただろ。そんな顔すんな」
「……ああ」
「……私も、いるからな」
サヤの声は、小さかった。
俺は——二人の手を、握り返した。
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【第32章 終】




